みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

いしおか雛巡り

2017-02-26 22:50:09 | 俳句
俳句の会で「いしおか雛巡り」を吟行しました。石岡駅近くの商店街の協力店85か所に多種多様なお雛様が飾られています。人通りも少なく、賑やかさには乏しいけれど、麗らかな日和の中をのんびり巡ることが出来ました。「みんなの広場」には、稀勢の里にあやかった子供相撲の雛も展示されていました。



このところ腰背痛がひどく辛くなって、「ひな巡り」と言っても、はたしてまともに歩けるかどうか・・と不安でした。1年余り前からの圧迫骨折に加えて、脊柱管狭窄症が本格的に痛むようになったのです。でも1週間前に処方してもらった薬(血流を良くする薬と鎮痛剤)の効果が徐々に出てきたようで、痛み方が少し柔らかくなり、我慢しやすくなりました。時々休憩しながら仲間と一緒にお喋りしながら歩き、古雛や現代的な雛や個性的な創作雛を鑑賞することが出来ました。

          古雛の頬の艶やか小暗がり

商店街には、古い土蔵造りや昭和初年築の「看板建築」の店も散在します。下の写真は昭和6年築の「福島屋」、砂糖問屋だったそうです。



「福島屋」の斜めこちら側には江戸時代末期築の土蔵造り「丁子屋」。現在は市の観光施設「まち蔵藍」となっています。歩道側に緋毛氈の席が設けられていて、ここで350円のお抹茶(一口羊羹付き)を戴きました。久しぶりに味わうお抹茶、とっても美味しかったです。

          春の日や老二人座す緋毛氈

ジュンが・・

2017-02-16 20:11:17 | 
ジュンが死んだ。生後1か月ぐらいで捨てられていたのを拾い上げた畏友に1ヶ月ほど慈しまれた後、当庵にやってきた。それまで犬嫌いだった私だけれど、つぶらな瞳の可愛さに負けて?引き取ることにした。可愛かったジュンだが、たちまち成長して、良く言えば精悍に、悪く言えば生意気な?顔になった。甲斐犬の血が混じっているらしく、猟犬っぽいスタイルと性格だった。犬の飼い方がよくわからない飼主だったから、ジュンも戸惑うことが多かっただろう。

種が違う人間と犬だが、一緒に暮らしていると情が通い合うようになる、ということを、私はジュンのおかげで初体験した。9年余り経ったとき、故あって近所の家で飼われていたユキと交換することになった。それから6年弱になる。半年ほど前から急に老いて、仏さまのように?おとなしくなっていた。

今朝、近所の御主人がジュンの死に気付いたとき、ジュンにはまだ温もりが残っていたそうだ。穏やかに逝ったのだろう。御主人が手厚く葬ってくださった ・・・合掌


固有信仰

2017-02-13 19:31:46 | 
柄谷行人の「明治憲法と固有信仰」と題した記事(岩波書店「図書」2月号)が興味深いので、備忘録のつもりで以下に引用等しておく。
 
王政復古を唱えた平田派は、明治維新における原動力であった。事実、維新後に、平田派の主張が実現されたように見えた。~が、それ(再興された神祇官)はすぐに~神祇省に格下げされた。~つぎに~神仏分離の運動(廃仏毀釈)が行き詰まった。明治5年には神祇省も廃止され~平田派の復古=社会革命の運動は5年ほどで挫折したのである。

平田派が仏教や神道諸派を否定したのは、たんに信仰の問題ではなかった。それらが政治的に徳川体制を支えるものとなっていたからである。ところが、国教化された神道はそれと同様のものとなった。

(島崎)藤村の『夜明け前』が描いたのは、そのような平田派の失望と苦悩である。

(大日本帝国憲法は)近代国家の体裁をとって「信教の自由」を掲げている。ただし~明治国家は、神道を「信教の自由」によって選択されるような宗教と区別した。すなわち、神道を他の宗教と同一レベルにおくことを禁じたのである。これによって被害を受けたのは、平田派だけではない。様々な神道系の宗教(教派神道)から、大本教など多くの新興宗教が出現したのだが、その一部は国家神道の下で弾圧の対象となった。

~明治39年の勅令によって、神社合祀政策がとられ~氏神信仰にもとづく各地の多数の神社は統廃合されてしまった。

柳田(国男)が小さな神社の保存を目指したのは、そこに本来の神道への手掛かりを見たからである。彼の考えでは、氏神は先祖霊の融合体である。神社合祀は、そのような氏神を殺すことにほかならない。~小さな村の氏神・先祖神にこそ、神道がある、というのが柳田の考えであった。それが彼のいう「固有信仰」であり、民俗学はそれを明らかにするために不可欠なのだ。


当庵の裏山に小さな神社がある。片田舎の地ゆえに合祀を免れることが出来たのだろうか? 雑木林の中の短い参道に入ると心静かになる。貴重な空間だと思う。

「人が家郷の地を出てあるく」(柳田国男著「日本の祭」より)とき、つまり、人が共同体から離脱した個人として生きるとき、これまでの信仰では不足を生じる。彼(柳田)の考えでは、固有信仰には「個人各自の信心」、あるいは個人祈願はなかったので、それらが必要になる。その欠如を仏教が
充たした~


私の生まれ育った家庭は、共同体としての結束力が極めて貧しかった。地域共同体との関わりも貧しかった。そんな環境で成長した私が、やがて宗教を中途半端ながら求めるようになったことにも必然性があるような・・ そして今、こんな齢になって初めて地域共同体との関わりを深めている私なのだ。

~仏教が日本に導入されたのは、大和朝廷が集権的な体制を作ろうとしたときである。氏族(氏神)を超えた神が必要になったからだ。要するに、日本にあった固有信仰が歪められたのは、仏教のせいではなくて、社会的な変化のせいである。ゆえに、仏教を否定したところで、固有信仰が取り戻せるわけがない。むしろ、固有信仰は仏教のおかげで何とか痕跡をとどめえたのである。

明治初期の廃仏毀釈がもたらしたのは、固有信仰の回復ではなく、むしろその破壊である。というのも、普通の家では仏壇に固有信仰の神である先祖神が祀られていたからだ。仏壇が廃棄されるとともに、先祖神も消されてしまった。一方、国家神道の成立は小さな氏神の信仰を破壊するものである。

~そして、意外なことに、これは皇室にとっても深刻な問題であった。原武史は、神道は宗教ではないという公的見解が、皇室の人々に、逆に、真の宗教・信仰を神道以外の宗教に求めるように促したことを指摘している。


皇室にとっての信仰と宗教の問題・・これは目を見開かせられた指摘だ。

皇太子妃〔現皇后〕は、表向きには宮中祭祀など皇室神道を尊重しつつも、根底にはやはりカトリックの信仰があるように見える。その信仰は~ナショナリズムを超えるものとして、今日まで一貫しているのではないか。(原武史著『皇后考』より)

近代日本における国家神道と固有信仰、そして仏教等の世界宗教との関係の歴史の、悲哀と豊穣、偶然と必然の変遷の活力と不思議を思わせられる。



雪の中のユキ

2017-02-09 18:35:26 | 暮らし
昨日は気の早いホオジロが落葉樹の梢で イッピツケイジョウ(一筆啓上)! 今季初めての囀りを聞かせてくれましたが、今朝は静かな雪です。

    

ユキは拾われたとき、雪のように白い犬だったのでユキと名づけられたのですが、成長するにつれて薄茶っぽくなりました。腰背痛が辛い私には朝夕のユキの散歩が大変だけれど、雪をものともせず、しっかり番犬してくれているから感謝しなきゃあね。




病悩いろいろ

2017-02-03 12:56:40 | 老病
腰背痛が辛い。特に腰椎の辺りが数日前から痛みを増して、体の動かし方によっては思わず声を上げてしまうほど痛い。少々心配事もあって、昨夜~今朝未明は熟睡できず、真夜中頃に寝返りを打とうとしたら頭がクラクラする強いめまいに襲われた。起床してから暫くの間にも、数度のめまい。特に朝食の煮炊きをしていたときのめまいには参った。危うく熱い鍋を引っくり返すところだった。

運転中にめまいに見舞われたら大変だし、外出には躊躇したけれど、予定通り医師会病院へ行った。右足の小指の付根付近が堅くなって胼胝(タコ)のようになったのは今冬始め頃からだろうか。それが2週間ほど前から時々痛むようになった。魚の目(ウオノメ)になってしまったらしい。

皮膚科の河島医師は、錐のような器具などを用いて、魚の目の芯を丁寧に掘り取って下さった。径5ミリ位の小さな魚の目だったけれど、芯は意外に深く生長?していたらしく、術後はすり鉢状の穴になった。施術による痛みはほんの僅かだった。

数年前に別の皮膚科で魚の目の治療を受けたときは、液体窒素を患部に当てて芯を壊死させていく方法だった。この施術は、術後しばらくの時間ひどい痛みに耐えなければならなかった。しかも1回では済まず、日数を置いて数回繰り返さなければならなかった。その後、ネット検索したら、サルチル酸を含む薬で角質を柔らかくして芯を除いていく方法があるのを知った。この方法だと痛くはないようだけれど、日数を要するし、薬を付けている間は入浴もままならないようだし、大変そう・・と私は心配していた。

河島医師は、患者の身になって診断し施術してくださる・・・という思いをあらためて深めた。めまいも収まったようだし、腰椎の痛みも昨日より少しは緩和したようだ。国の内外は悲惨と恐怖と不安が増すばかりだが、寒さも緩んで、早春を思わせる光が輝いている。生きて春を迎えられるのは真に貴重なことなのだ。