みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

スマホ教室

2020-09-25 09:44:45 | スマホ
7月末にスマホデビュー後、スマホ教室に通っている。会場は愛車で30分ほどのドコモ店。新型コロナ対策として、席の間を開け、受講者はマスク着用し、講師はマスクとゴーグルを着用している。開講時に検温し、除菌スプレーで手を消毒する。おかげで今のところ、私としては感染の不安を感じないで受講できている。

スマホ教室は1回60分強で、私はこれまでに入門編を2回(基本動作・インターネット)、基本編を3回(電話・カメラ・メール)受講した。講師は数名の若い女性が交代で担当している。実に手際よく分かり易く、丁寧過ぎもせず、満足感がある。受講料無しで有難い。今後は応用編も受講していきたいと考えている。

私のスマホは初心者用の低価格の機種だが、それでも購入時の価格等は、格安スマホに比べればかなり高価だ。しかし、この無料スマホ教室等のアフターフォローの手厚さは、一人暮らしで身近にスマホを気軽に教えてくれる人がいない私には、得難い価値あるものに感じられる。

5回通っているうちに、興味深い現象に気が付いた。受講者が中高年齢層であることは予想通りだが、そのほとんどが女性なのだ。一人だけ男性がいたが、夫婦連れだった。

性別参加者数の差異がこんなに大きいのは何故だろう。男性は仕事で忙しいから、という理屈はごく一部にしか当たらないだろう。女性だって忙しい。定年後の年齢層が大半だし、これだけの差異を説明できない。

男性は、スマホぐらい教えてもらわなくても操作できる、という理屈もありそうだ。しかしこれも大きな差異を説明できないと思う。

ラジオ番組で、いわゆる「孤独死」は男性の方がかなり多い、と言っていた。その主たる原因として、男性は女性よりコミュニケーション力に欠けるから、と説明されていた。確かにそうだろうと思う。公民館で活動している色々なサークルの参加者も、大半は女性だ。

スマホ教室は、一般的なサークルよりも更に男性率が低い、否、ゼロに近い。この理由を推測してみた。

若い女性に教えてもらうこと、そして自らの貧しいスマホ操作能力を見られることは、いわゆる「男のプライド」が許さないのではないか、と思う。男のプライドは男の世界を閉じてゆく。



巣蜘蛛

2020-09-22 14:01:49 | 菜園
今朝、外が明るくなって犬の散歩に出かけたら、少し寒いぐらいだった。酷い季節がようやく終わったのかと思う。

長梅雨と猛暑で痛めつけられた当菜園の人参は回復の兆しもなく、無事に育っているのは2割程度。人参栽培だけは人様に褒められることも多い私なのに・・・ いつもは溢れるほど実って処理に困るマイクロミニトマトも、数えるほどしか採れない。

それでもツルムラサキは旺盛に育ってくれて、猛暑の間もふんだんに収穫できた。アシタバも嬉しい香りを提供してくれた。キンジソウは今も盛んに新芽を伸ばして、個性的な味で楽しませてくれている。野菜たちに感謝!



白菜の苗を買ってきたけれど、幼な過ぎるので、もう少し育ってから定植しようと思う。畑の隅に置いていたら、もう葉を齧られている。オンブバッタの仕業らしい。おんぶされているのは子どもバッタではなくて雄。その敏捷なこと! 逃げるバッタも捉える私も必死だ。捕まえたバッタは鶏舎に放つ。鶏たちは即座についばんで大喜びだ。バッタさんには申し訳ないけど、仕方がないのだ。



合歓の木の枝を使って大きな巣を張った蜘蛛は、終日不動の姿勢で獲物を待っている。人間は動かない時も頭(心?)の中は数多の言葉たちが魑魅魍魎のように乱れ飛び回っているが、言葉を持たない蜘蛛は、どんな心持で時を過ごしているのだろう・・・



どこへゆく、「葬儀」と「死」

2020-09-01 11:01:39 | 生死
葬儀もコロナ禍の影響を受けている。

本年4月、当地の知人が亡くなった。特に親しかった訳ではないが、近隣の御縁でお世話になったことがある。葬儀の日、マスクを着用した喪服姿で会場に出向くと、村の世話役の人たちもマスクを着用した喪服姿で対応されていた。平常時には参会者が着席するホール内には一般参会者は立ち入らず、ロビーで焼香・合掌するだけ、という方式だった。

いつもだったら奥まった祭壇のやや高いところに掲げられる遺影がロビーに、焼香・合掌する目の前に置かれていて、大きく見えた。その輝く目が私を見詰めて、生きている人と再会したようだった。

退出しながら、いつもだったら正直なところ退屈な僧侶の読経を聞くことが出来なかったことを、妙に物足りない感じがしたのは、吾ながら不思議だった。

1カ月余り前には、長く深いご縁のある人が亡くなった。遺族はこの死を公表せず、僅かに漏れた訃報が回りまわって私の耳に届くまでに数日を経ていた。既に「家族葬」を済ませられていた。御香典の類も拒否されている、という。

コロナ禍の中で葬儀に多人数が集まることは避けるべきだろう。形式ばかりで内実の無い大きな儀式は好ましくないだろう。悲嘆に暮れている遺族の心情を乱さないで、そっとしておいてほしいだろう。

しかし・・・私は、あんなに御縁があった人から遠ざけられてしまったようで、茫然とした気持になった。

そんなとき、東京新聞 8/24・31の記事に目がとまった。筆者は蒲池勢至(がまいけせいし 1951~ 真宗大谷派長善寺前住職)氏。

あっという間に「家族葬」が増えた。散骨や直葬、通夜をしない一日葬もある。ほとんどは葬祭業者がつくりだした用語だ。

「家族葬」という表現は魅力的である。
世間的な見栄や義理を捨て、本当に愛する者の死を悲しみ悼む儀礼である。異論はないが、その実態には別の課題もある。

地域と人とのつながりの中で生きてきた人の死が、家族葬によって閉ざされてしまう。 
死にゆく人の死は誰のものか。「死の社会性」がなくなり「私化」(個人化)されて「閉ざされた死」になっている。

葬儀はシンプルでよい。しかし、死を閉ざしてはいけない。

葬送儀礼の表面は仏教的であるが、核心は日本人の民俗信仰である。これが葬儀の歴史であり、また日本仏教の歴史でもあった。しかし、今、この二つは分離しようとしているのかもしれない。

家観念や儀礼がなくなったとき、先祖も墓も仏壇も「終い」になった。しかし、死と死者は目の前にある。

人はどこから生まれて、どう生きて、どこへゆくのか。生と死の意味が分からなくなり、死者と「死」は、現世に引き寄せられて世俗化してしまったのではないか。