児玉龍彦氏の「内部被曝の真実」を読みました。今月10日第1刷発行で、同25日第4刷発行です。大変な売れ行きのようです。
あの7・27衆議院厚生労働委員会での発言 (福島原発事故によって)7万人の人が自宅を離れてさまよっているときに、国会は一体何をやっているのですか! などが収められています。この発言のときの児玉氏の阿修羅のような姿をYouTubeで視聴したとき、私は感動で心が震えました。御用学者の巣窟と思っていた東大にも、まだ良心の人がいたのだ、と。その上、Nature の表紙を飾るような世界的な科学者であり、しかも週末にはボランティアで南相馬市へ除染に行っていらっしゃる・・ 畏敬の念を深くしました。
あれから児玉氏に関する情報を得るごとに心励まされる一方、心の隅に小さな疑問が生じてきました。最初の疑問は、こんな放射能汚染を引き起こした原発というものをどう考えていますか? という記者の質問に対して、氏が答を留保されたときでした。
次に感じた疑問は、氏が主導する「除染」に関するものです。児玉氏は「内部被曝の真実」の巻末で、人がよごしたものなら、人がきれいにできないわけがない と述べています。本当にきれいにできるなら希望がわきますし、世界的な科学者の言葉だから信じたいところですが、でも・・ 心の隅の疑問が広がります。
最近のテレビ番組で児玉氏は、 科学者が原発を推進してきた。その原発が汚したものをきれいにするのは科学者の責任だ。 とも言っていました。責任を全うしようとする使命感は立派だと思う一方、本当に責任を全うすることが出来るのだろうか? と疑問を感じます。失礼を顧みず率直に言えば、それは科学者の傲りではないでしょうか。更に言えば、これまで原発推進に逆らわず、その結果今回の事故を招いた責任の一端を担う科学者としての真の反省を回避するものではないか、とも思うのです。
児玉氏は20キロ圏内にも防護服姿で入って放射線量を測定し、除染へ取り組む姿勢を取材陣に見せています。身の危険を顧みず尽力しようとされる氏の姿にウソは無い筈、と思いたいのですが、除染は消染ではなく、所詮は移染に過ぎません。限定的な緊急除染に留まらない、広大な高濃度汚染地域全体を除染できるかのような幻想を人々に与えるとしたら・・児玉氏の主観的意図の如何に拘らず、却って人々の不幸を深めることになるのではないかと危惧を覚えるのです。