みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

手紙の保存

2010-12-31 20:27:55 | 暮らし

寒い大晦日である。朝霜が8時過ぎまで解けなかった。手袋を、毛糸のと合成皮革のと2重にして犬の散歩に出た。鉛色だった雲が白雲に変わり、やがて日が差してきた。今年最後の洗濯物を干し、蒲団も外縁に干した。

手紙類を溜めたままだったので、整理に取り掛かった。狭い庵なので、不要のものは出来るだけ廃棄するよう努めているが、私の心にとって特に大事と思う幾つかの手紙は保存することにした。保存期間は即ち私の余命だ。

色々な方からの色々な手紙を読み直しながら、その手紙を受け取った頃のことを想起した。年老いた方からの手紙は、衰えた視力と筆力のために痛々しい字が続く。しかしその手紙は切々と書かれていて、読むたびに胸に響く。嘘が無いのだ。そして暮れゆく人生への感慨と、残る者への真心が語られているのだ。

午後の日が傾き始めた頃、乾いた洗濯物と干し蒲団を取り込んだ。筑波連山の低い稜線が澄んだ大気の向うになだらかだ。私もずいぶん年老いたものだと思う。それでもなお命ある今、嘘の無い言葉を、嘘の無い生を求めたいと思う。


吉村昭著 ”間宮林蔵”

2010-12-27 12:40:39 | 

Dscn1771 間宮林蔵(1780~1845)は、有能な測量家というだけではなかった。

林蔵は常陸の農家の子だった。 近くの小貝川で堰工事が繰り返されていた。

毎年春の彼岸になると堰を止めて小貝川の水を貯え、土用明けの十日目に堰を開いて、水を水田に放つのである。その例年繰り返される堰止めと堰切りを村の者たちが手伝ったが、林蔵は、その作業が面白く、終日堰の傍らに立って熱心に見守っていた。作業は、普請掛の役人の指図によって進められていたが、林蔵は進んで雑用を手伝い、役人の使い走りも喜んで引き受けた。毎年行われる作業なので、林蔵は、普請掛の役人たちの間に頭の回転の早い子として知られるようになった。

13歳のとき、役人から「下僕にならぬか」と声を掛けられた。林蔵の運命が大転換する発端である。やがて幕府から樺太探査の命を受けた。

樺太は酷寒の地である上に、和人に敵対的な山丹人(ウルチ族など)の襲撃も頻発する。誰もが恐れる中で、林蔵は自ら率先して探査へ乗り出した。

Dscn1772 大陸の端の半島と思われていた樺太だが、実は島であり、大陸との間に海峡があるのを発見し、その地図を作成することが出来たのは、林蔵の強靭な心身があってこそだった。そして林蔵に智恵と力を貸してくれた地元のアイヌ人やギリヤーク人のおかげでもあった。

驚いたことに、林蔵は更に海峡を渡って、東韃靼の地に入り、アムール河岸のデレンまで探査していた。デレンには、当時この地も支配していた清国の役所が設けられていた、という。

帰国後の林蔵は、蝦夷地や樺太の地理情報のみならず、海防についても幕府から知見を求められるようになった。各地の湾岸に異国船の出没が頻繁で、幕府はその対応に苦慮していた。

異国船の大半は捕鯨船だった。鯨油採取に必要な薪と水を望み、頑なに拒む日本側の態度に立腹し、威しを繰り返していた。林蔵は長い間、異国船は容赦なく打ち払うべきだとしていたが、やがて、薪水を与えて穏便に退去させる以外にない、と考えるようになった。

また林蔵は、捕鯨船問題についての建言書を幕府へ提出した。

彼は、日本近海に異国の捕鯨船が集まってきているのは、捕鯨が莫大な利益を齎すからである、と説明した。樺太、カムチャッカやアメリカの属島方面には、鯨はもとより海獣、魚類が多いが、捕鯨船の者たちは、その方面で漁はしていないらしい。彼らをその漁場に仕向けることが出来れば、彼らの漁獲量は上がり、日本の近海に来ることもないに違いない。これを実現するために、林蔵自身が漁師に姿を変えて異国船に近付き、彼らを説得したい、という趣旨であった。

この建言は不許可とされたが、林蔵の知識と積極的な姿勢は高く評価され、幕府は林蔵を海岸異国船掛に任命した。この掛は、海防関係の隠密御用を意味する。

隠密先は、伊豆七島、長崎、津軽藩、松前藩、薩摩藩など、列島各地に及んだ。幕府は異国への対応の外、国内各藩の離反の動きにも神経を尖らせていたのである。林蔵は乞食姿に身を変えるなどしたが、当該藩の者に見付かれば一大事、まさに命がけの隠密だった。 

名官吏として賞賛される川路聖謨(かわじとしあきら)は、林蔵の上司だった。川路は下級武士の子であったが、非凡な才能が認められて抜擢されていたのである。

川路は、蝦夷地についての知識と異国の情報に豊かな知識を持つ林蔵を深く敬愛して「先生」と呼び、林蔵も20歳近く年下である川路の識見を評価し、たちまち親密な間柄になった。

身分制が徹底していた江戸時代に、林蔵は農民の子として生まれながら才気を見込まれ、幕府に重用された。それは、日本列島周辺状況が急変する時代の要請によるものであった。

幕府から受けた使命に全てを捧げ続けた林蔵は、妻帯もせず、子も残さず、58歳で梅毒を発症し、65歳で世を去った。

林蔵の士気が、生まれながらの武士一般よりもはるかに高かったのは身分制社会の皮肉だろうか。晩年の林蔵の唯一の趣味は甲冑の収集であったという。


柚子日和

2010-12-22 22:02:46 | 八郷の自然と風景

八郷の農屋敷には、たいてい柚子が植えられていて、結構大木になっていることが多い。そんな柚子の実が今日も、冬日差を受けて黄金色に輝いていた。柚子日和だ。

先日は、大バケツ2杯分ほどの沢山の柚子の実を知人から戴いた。シミ・ソバカスの少ない実の表皮は細かく刻んで、例年だったら蜂蜜漬にするのだが、今回は少量ずつラップに包んで冷凍保存した。

柚子味噌も作った。レシピをネット検索、一番簡単そうな方法を選んだ。柚子の実をクルクル回しながら、表皮の黄色部分だけをおろし金でおろしてから、味噌・ミリン・砂糖を混ぜて練り合わせるだけ。

出来上がった柚子味噌は、風呂吹き大根に載せるのが定番だが、御飯に載せても、熱湯に 溶いて飲み物にしても満足できた。友人にもオスソワケしたら喜ばれて、私も嬉しかった。

表皮の内側の白いのを被った形で残った柚子の実は、半分に輪切りにしてから絞って柚子エキスを採取。小瓶に入れて冷蔵庫に保存し、ドレッシングに加えたり、漬物に掛けたり。

実の中からポロポロ出てくる種は、ホワイトリカーに浸ける。数日経つと種から出るペクチンDscn1768_2 でトロッとしてきて、化粧水として重宝する。

今日は冬至。もちろん柚子湯を楽しむ。残しておいた実はシミソバカスが多いけれど、香りでは、器量良しの実に負けない


貧乏文化の洗練

2010-12-19 14:22:28 | 文化

Dscn1760昭和のくらし博物館 は、そのHPによれば、S26年築の庶民の住宅を家財道具ごと保存し公開している。

この家の長女の小泉和子氏が、「いつの時代も、最も残りにくくかつ軽んじられるのは、一番身近なはずの庶民のくらしである」ことを痛感したため、という。

岩波書店発行の「図書」12月号に、生活史研究家でもある小泉和子氏が一文を寄せている。

ひところ昭和30年代が大変なブームでした。

昭和30年代は、まず戦後の窮乏期からやっと脱却できて、食べるものも着るものも、住むところもなんとか確保できた時期です。

・・何よりも人々を解放したのは平和憲法です。もう誰も兵隊に取られなくてすむということは、まだ戦争の記憶が生々しかったこの時期、どんなに嬉しいことだったか。

ものの貸し借りも頻繁にしていました。・・出かけるとき、子供を預けるということもよくありました。・・貧乏だったのと、ものがなかったので止むを得ずだったのですが、結果として人間的な関係が温存されていたわけです。

この時代程度のくらしが日本人にとって最も相応しいのではないか・・

そもそも日本では(絢爛豪華なものは)金ぴかと言って軽蔑してきました。 

宮殿といえども京都御所に見るように檜皮葺の屋根で、木地のままの建物です。日本文化の代表とされる茶の湯にいたっては、茶室は草葺屋根、土壁、皮付き丸太の茅屋で、膝つき合わせて、手づくねの歪んだ茶碗で茶をのむということです。料理も刺身に見られるように実にシンプルです。

日本人は貧乏文化を洗練させてきたと言えます。

私たち日本人には、むやみにCO2を出すことがなく、自然とも調和して、ある程度は手仕事もし、身体も使い、家族そろって夕餉の膳を囲むという暮らしが向いているのではないでしょうか。

心安らかな生活観だと思う。本当の豊かな暮らしとは何かを静かに考えさせてくれる。


赤滝

2010-12-17 19:16:27 | 俳句

今朝は一面の霜白で悴んだが、空は真っ青の冬晴れ。月1回の俳句の会に出掛けた。市が運行している巡回タクシーに仲間と一緒に乗って、吟行先の赤滝へ向かう。筑波山系の風返峠の近くでバスを降りた。

Dscn1759_2 静かだ。時折シジュウカラが小声で鳴き、藪の中の鶯が警戒の声を発する。耳を澄ますと、大鷹の高い声がやや遠くから聞こえた。

山路を少し下り、更に急斜面の林の中をオッカナビックリの格好で下っていくと水の音が聞こえてきて、やがて木立の向こうに滝が現れた。

岩肌がやや赤みを帯びているのが名前の由来だろうか。深い林の底を岩から岩へ、折れ曲がりながら落ちていく。

     極月の滝落ちていく心底へ   小零 


2回試験

2010-12-15 18:32:49 | 仏教

今日の茶道の稽古は盆点だった。大名物(おおめいぶつ)の唐物の茶入を専用の盆に載せて丁寧に扱う点前である。先生はもちろん先輩の皆様も、私へ御心を寄せるように御指導くださる。本当に有難いことだと思う。

稽古の後、携帯電話の画面を開いた。今日は息子の2回試験の結果発表日なのだ。発表は夕方の筈だけれど、もしかして早まったかも知れない、などと思ったのだが、合否の結果の連絡メールは未だだった。

昨年、資格試験(1回試験と呼ばれる)に合格した息子は、所定の1年間の研修を受けた。研修終了後に5日間に渡る卒業試験(2回試験)があって、これに合格しなければ正式の資格者になることが出来ない。毎年度、軽視出来ない数の不合格者が出ることもあり、受験者の心身にとって厳しいものがある。

夕方、犬の散歩をしながら、私が思わずナムアミダブツ、ナムアミダブツとつぶやいたので、犬のジュンが振り返って不審そうに私を見詰めた。

日が暮れて、狭い庵内を私はウロウロと歩き回った。それから仏壇に灯を点け線香を上げ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと唱えた。もう1回繰り返した。

崇敬する親鸞聖人は、ナムアミダブツと念仏すれば願いごとが叶う、などという俗信は、仏教ではない、と説いておられる。その通りだと私は思う。なのに・・今日の私の振る舞いは、何と矛盾していることだろう・・

もしかしたら運が悪かったのかも・・と不安が胸に広がりだしたころ、メールが届いた。合格だった! 新年から、息子は念願の専門の職業に就くことが出来る。これまで支えてくれたお嫁ちゃんに感謝


老犬の鈴

2010-12-12 11:00:19 | 

Dscn1745_sh01 捨てられて野を彷徨っていた犬を知人が拾った。動きがのろく表情がたるみ気味の老雌犬である。

年老いた飼犬を捨てるとは、何と無慈悲な! という義憤らしきものが私の心にも湧いた。でも・・ もしかしたら飼主も年老いて、或いは病んで飼い続けることが出来ず、無念の涙を呑んで捨てたのかも知れない。

この犬が拾われたとき、首に鈴が付けられていたそうだ。犬好きの人に早く拾われてほしい、という願いが込められていたのだろうか。

小犬は可愛くて人々を明るくするが、老犬は暗い。でも老犬には、人の心をしみじみと動かしてくれる何かがある、と思う。


吉田拓郎との出会い

2010-12-06 20:32:16 | 健康・病気

昨朝の6時台、いつものように朝食を摂りながらラジオを聞くともなしに聞いていた。なぎら健壱の「あの頃のフォークが聴きたい」の時間となり、なぎらの「吉田拓郎云々」という声がしたので、私は思わず聞き耳を立てた。

1972年に大ヒットした「結婚しようよ」が流れてきた。 ~ 僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら 約束どおり 町の教会で 結婚しようよ ~ 

社会性が希薄な拓郎の歌へ反発する人も多かったという。なぎらは、別の歌手(名前を聞きそびれた)の「結婚しようよ」を併せて紹介していた。拓郎を揶揄する歌い方だった。

拓郎は2003年春、肺ガンと診断された。手術、回復し、秋には復帰コンサートを開いた。2006年9月23日が、かぐや姫とのコンサート「つま恋2006」の日である。午後1時過ぎから9時半過ぎまでに渡る五部構成の大イベントだった。団塊の世代を中心に3万5千人が集まったという。第5部で、拓郎は「永遠の嘘をついてくれ」を熱唱する。

  ~ なのに永遠の嘘を聞きたくて 

  今日もまだ この街で酔っている

  永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと

  君よ 永遠の嘘をついてくれ 

  いつまでも たねあかしをしないでくれ

  永遠の嘘をついてくれ 

  なにもかも愛ゆえのことだったと 言ってくれ ~

この歌を私が知ったのはごく最近だけれど、Youtubeで聴くたびに心が震える思いがする。「結婚しようよ」には何の反応もしなかった私の心が、である。この齢になって初めて吉田拓郎と出会うことが出来たのだ。

「つま恋」で、この歌を共演した(作詞、作曲者の)中島みゆきが退場した後の、拓郎の語りも胸底に響く。可笑しくて悲しくて淋しくて、そしてほのぼのとした笑いが「つま恋」の会場から伝わってくる。

 ~さんも中島さんも いい人ばっかりでね

 みんな 年を経てきたから いい人になったんだよね

 若い頃は いやなやつだったんだよ きっと みんなね

2009年夏、拓郎は体調異変により予定の公演を中止した。その後の拓郎に係る情報は、ネットでいくら検索しても出てこない。昨朝のラジオのなぎら健壱も、このことについては何も語ってくれなかった・・・

          

 


落葉期

2010-12-02 19:54:08 | 八郷の自然と風景

Dscn1690_3 コナラ林は黄葉から落葉期へ移ってきた。メジロやシジュウカラたちが早口で喋りながら枝から枝へ移っていく。

Dscn1707_3 庭のツクバイの水には、ジョウビタキがよくやって来る。南天の実は、そろそろ野鳥たちの餌になる頃だ。

Dscn1706_2 Dscn1705_2 菜園ではブロッコリーの蕾が急成長を始め、白菜は元気一杯にDscn1730_4 結球を進めている。

長ネギを収穫した。赤ヒゲという品種で、赤紫色は外皮だけ、内皮は白い。緑部も柔らかで、捨てずに食材とする。

Dscn1696 当庵へ通じる山路は、落葉で敷き詰められてきた。例年よりDscn1733 早いようだ。落葉攫いを始めた。菜園用の堆肥作りの材料にする。山路も綺麗になるから、一石二鳥

夕方の犬の散歩道の風景にも、葉を落とした木々が増えてきた。筑波嶺は心なしかひっそりと見える。Dscn1736_2