間宮林蔵(1780~1845)は、有能な測量家というだけではなかった。
林蔵は常陸の農家の子だった。 近くの小貝川で堰工事が繰り返されていた。
毎年春の彼岸になると堰を止めて小貝川の水を貯え、土用明けの十日目に堰を開いて、水を水田に放つのである。その例年繰り返される堰止めと堰切りを村の者たちが手伝ったが、林蔵は、その作業が面白く、終日堰の傍らに立って熱心に見守っていた。作業は、普請掛の役人の指図によって進められていたが、林蔵は進んで雑用を手伝い、役人の使い走りも喜んで引き受けた。毎年行われる作業なので、林蔵は、普請掛の役人たちの間に頭の回転の早い子として知られるようになった。
13歳のとき、役人から「下僕にならぬか」と声を掛けられた。林蔵の運命が大転換する発端である。やがて幕府から樺太探査の命を受けた。
樺太は酷寒の地である上に、和人に敵対的な山丹人(ウルチ族など)の襲撃も頻発する。誰もが恐れる中で、林蔵は自ら率先して探査へ乗り出した。
大陸の端の半島と思われていた樺太だが、実は島であり、大陸との間に海峡があるのを発見し、その地図を作成することが出来たのは、林蔵の強靭な心身があってこそだった。そして林蔵に智恵と力を貸してくれた地元のアイヌ人やギリヤーク人のおかげでもあった。
驚いたことに、林蔵は更に海峡を渡って、東韃靼の地に入り、アムール河岸のデレンまで探査していた。デレンには、当時この地も支配していた清国の役所が設けられていた、という。
帰国後の林蔵は、蝦夷地や樺太の地理情報のみならず、海防についても幕府から知見を求められるようになった。各地の湾岸に異国船の出没が頻繁で、幕府はその対応に苦慮していた。
異国船の大半は捕鯨船だった。鯨油採取に必要な薪と水を望み、頑なに拒む日本側の態度に立腹し、威しを繰り返していた。林蔵は長い間、異国船は容赦なく打ち払うべきだとしていたが、やがて、薪水を与えて穏便に退去させる以外にない、と考えるようになった。
また林蔵は、捕鯨船問題についての建言書を幕府へ提出した。
彼は、日本近海に異国の捕鯨船が集まってきているのは、捕鯨が莫大な利益を齎すからである、と説明した。樺太、カムチャッカやアメリカの属島方面には、鯨はもとより海獣、魚類が多いが、捕鯨船の者たちは、その方面で漁はしていないらしい。彼らをその漁場に仕向けることが出来れば、彼らの漁獲量は上がり、日本の近海に来ることもないに違いない。これを実現するために、林蔵自身が漁師に姿を変えて異国船に近付き、彼らを説得したい、という趣旨であった。
この建言は不許可とされたが、林蔵の知識と積極的な姿勢は高く評価され、幕府は林蔵を海岸異国船掛に任命した。この掛は、海防関係の隠密御用を意味する。
隠密先は、伊豆七島、長崎、津軽藩、松前藩、薩摩藩など、列島各地に及んだ。幕府は異国への対応の外、国内各藩の離反の動きにも神経を尖らせていたのである。林蔵は乞食姿に身を変えるなどしたが、当該藩の者に見付かれば一大事、まさに命がけの隠密だった。
名官吏として賞賛される川路聖謨(かわじとしあきら)は、林蔵の上司だった。川路は下級武士の子であったが、非凡な才能が認められて抜擢されていたのである。
川路は、蝦夷地についての知識と異国の情報に豊かな知識を持つ林蔵を深く敬愛して「先生」と呼び、林蔵も20歳近く年下である川路の識見を評価し、たちまち親密な間柄になった。
身分制が徹底していた江戸時代に、林蔵は農民の子として生まれながら才気を見込まれ、幕府に重用された。それは、日本列島周辺状況が急変する時代の要請によるものであった。
幕府から受けた使命に全てを捧げ続けた林蔵は、妻帯もせず、子も残さず、58歳で梅毒を発症し、65歳で世を去った。
林蔵の士気が、生まれながらの武士一般よりもはるかに高かったのは身分制社会の皮肉だろうか。晩年の林蔵の唯一の趣味は甲冑の収集であったという。