内山節(うちやまたかし 1950~)の本を初めて読んだ。社団法人農山漁村文化協会 2006発行 心静かにさせられる良書だと私が思うのは、八郷での農的暮らしの実感と照応するから。
ヨーロッパの庶民がキリスト教徒化していくのは、宗教改革が始まった頃から、といっても言い過ぎではないのです。つまりそれは(農村的な)循環系のなかで暮らしていた人々が(貨幣を軸にして展開する生活のなかで)個人になっていく過程と重なっており、この生活の変化、精神の習慣の変化を受けて、神の前に立つ個人というキリスト教的な人間観が力をもつようになっていったのです。
<個人主義は上品な利己主義であり、利己主義は下品な個人主義である>(トクヴィル)
ヨーロッパの思想史は一面では近代的個人の誕生を祝福しながら、他方では個人の現実の前で挫折感を表明してもきたのです。
日本の人々にとって一番幸せな労働は、修業と貢献という一連のプロセスが成立していて、しかもこの過程のなかで生活も成り立ち、一定の富も得ることができる、というものではないでしょうか。
私にはこの精神の習慣は、基本的には農村社会が育んだように思えます。なぜなら農民の営みは、とりわけ地域の自然体系を上手に利用して地域の協同性に支えられながら暮らしていた間は、農地を含む自然に対しても、地域の営みを維持していくためにも、実に多様な能力が要求されたのであり、その能力を身に付けることが一人前になることである以上、労働をとおして「修業」していくことはどうしても不可欠だったからです。それとともに、その「修業」を支えてくれた自然と人間の風土に貢献していく人がいなければ、農村を維持させる様々な要素を継承させていくことは出来なかったからです。
家族のなかで、友人のなかで、地域や社会のなかで、自然と人間で、私たちは日々関係を創造しながら何かを作り続けている、こういう(広義の)労働の世界が見えなくなってしまったために、たとえば定年後の労働が分からなくなり、それが恐ろしいものに感じられたりする、いつの間にか私たちはそんな精神の習慣をもつようになってしまいました。
知性というかたちや論理というかたちで現われてくる思想を人間が頼りにする時代は、不幸な時代だと私には思えます。「場所」を喪失しているか、人間たちが技や知恵や判断力を失っているか、どちらにしても自分の存在する「場所」における日々の営みのなかで自然に思想を表現していくことが出来なくなっているから、人間は「場所」のない知性や論理に頼る、私にはそう思えるのです。
私たちの営みの深いところに思想がある。その思想はもっともっと深めていってもよい。そしてその思想が表面にあらわれてくるとき、思想は技や知恵や判断力といったものと結ばれている。
ヨーロッパの庶民がキリスト教徒化していくのは、宗教改革が始まった頃から、といっても言い過ぎではないのです。つまりそれは(農村的な)循環系のなかで暮らしていた人々が(貨幣を軸にして展開する生活のなかで)個人になっていく過程と重なっており、この生活の変化、精神の習慣の変化を受けて、神の前に立つ個人というキリスト教的な人間観が力をもつようになっていったのです。
<個人主義は上品な利己主義であり、利己主義は下品な個人主義である>(トクヴィル)
ヨーロッパの思想史は一面では近代的個人の誕生を祝福しながら、他方では個人の現実の前で挫折感を表明してもきたのです。
日本の人々にとって一番幸せな労働は、修業と貢献という一連のプロセスが成立していて、しかもこの過程のなかで生活も成り立ち、一定の富も得ることができる、というものではないでしょうか。
私にはこの精神の習慣は、基本的には農村社会が育んだように思えます。なぜなら農民の営みは、とりわけ地域の自然体系を上手に利用して地域の協同性に支えられながら暮らしていた間は、農地を含む自然に対しても、地域の営みを維持していくためにも、実に多様な能力が要求されたのであり、その能力を身に付けることが一人前になることである以上、労働をとおして「修業」していくことはどうしても不可欠だったからです。それとともに、その「修業」を支えてくれた自然と人間の風土に貢献していく人がいなければ、農村を維持させる様々な要素を継承させていくことは出来なかったからです。
家族のなかで、友人のなかで、地域や社会のなかで、自然と人間で、私たちは日々関係を創造しながら何かを作り続けている、こういう(広義の)労働の世界が見えなくなってしまったために、たとえば定年後の労働が分からなくなり、それが恐ろしいものに感じられたりする、いつの間にか私たちはそんな精神の習慣をもつようになってしまいました。
知性というかたちや論理というかたちで現われてくる思想を人間が頼りにする時代は、不幸な時代だと私には思えます。「場所」を喪失しているか、人間たちが技や知恵や判断力を失っているか、どちらにしても自分の存在する「場所」における日々の営みのなかで自然に思想を表現していくことが出来なくなっているから、人間は「場所」のない知性や論理に頼る、私にはそう思えるのです。
私たちの営みの深いところに思想がある。その思想はもっともっと深めていってもよい。そしてその思想が表面にあらわれてくるとき、思想は技や知恵や判断力といったものと結ばれている。