みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

幼年時代のことなど

2012-12-30 18:59:03 | 家族

もう60年余り前の話で恐縮ですが、就学前の私の家は、地方の近郊住宅地にありました。第二次大戦後の混乱期を抜けて、朝鮮戦争特需による経済活性化の時代です。

その頃の「幼稚園」には、新時代の洒落たイメージがあったように思います。周りのほとんどの子供たちが通うのを、茫然と見ていた私でした。

小学校に入り、教師の問いに対して他の子たちが競って威勢よく手を挙げ答えているのを、私はやはりただ茫然と見ていました。1~2年生のときの通信簿には、5段階評価で最下位の1と2が多かったのを覚えています。

授業の合間の校庭でも、隅でじっとしている私でした。そんな私に、一握りの砂を投げつける女の子もいました。目障りだったのでしょう。

戦後の食糧難は一応解消したものの、美味しい食が充分とは言えない時代でした。ある日の給食の時間、珍しくおかずが余ったらしくて、それを教師が「お替わりよ」と言いながら生徒の椀へ席順に配っていました。ところが私の席のところで立ち止まり、「アンタはさっき(先程)の体育の時間、ノロノロと走っていたから(お替わりは)あげない!」と、ノロノロを身振りしながら言い放ちました。そのときの女教師のキツネ顏を、ありありと思い出します。

3年生になって、担任の教師が変わりました。色白の、おとぎ話に出てくるウサギのようにふっくらとした女教師でした。遊び時間ともなると、他の子たちは争うように教師と手をつないだりしてはしゃいでいましたが、私は相変わらずでした。

遠足で校外の野原に行ったとき、白ウサギのようなその教師は、離れたままじっとしている私を呼び寄せ、半ば強引に抱き上げてその膝上に載せました。緊張の極に達しながらも、教師の柔らかい心身に抱かれているほの甘い感触に耳を澄ませていた私・・ そのとき教師が傍らの同僚に語った言葉を、私はその後いくたびも思い出すことになりました。「この子は頭がいいんだけれど、元気がなくてねぇ。どうしてなんだろうねぇ。」と。

教室では相変わらず何の応答もしようとせず、日々のテストの類でもパッとしない私なのに、「頭がいい」と言われた理由は、年に1度?のいわゆる「知能テスト」の結果によるのでしょう。もちろん知能テストなるものは、本当に知能を証するものではないのですが、私の歪な精神活動は、知能テストの回答作業においてのみ異様なほど活気付くのでした。

ともあれ、白ウサギ先生のほの甘い懐の感触は、私に生きる力の一滴を与えたのは確かだと思います。

こんな幼年時代のことを書きたくなったのは、中島義道(1946~)が7歳(6歳とも)のときから人生とは死刑囚の監獄なのだと自覚するようになった(「<死>を哲学する」より) ということを知ったからです。

私も「死」を自覚するようになったのは、6~7歳の頃です。しかし中島義道のような<死への恐れ>ではありませんでした。下校の途中の坂道を降りながら、独り考えて、後刻、姉に語ったのは<死への憧れ>でした。

学校では教師や他の子らの言動に怯え、家に帰れば母という名のヒトの理不尽に苛まれなければならない毎日・・死んでしまえば、こうしたことが無くなるのだ、と。姉は叱るように言いました。「死んだら、美味しいものを食べたり、楽しいことも出来なくなるよ。」と。「でも死ねば、楽しいことができない、と思うことも無いのでしょ。」と私。

更に突き詰めて考えて自殺に及んだりしなかったのは、父と姉・兄の情愛(母なるヒトの妨害で細々としか受けられませんでしたが。)と、白ウサギ先生および四年生になってからの明るく優しい教師のおかげだったと思います。

死を恐怖するようになったのは、中学生の頃からでした。学校の成績は何故か急上昇し、遅れがちな同級生を導くことが生甲斐のような日々でしたが、夜、星空を眺めると、死んだら自分の心は無くなり、体は四散して星屑の塵のほんの一部になるだけなのだ、と思ってゾッとするようになったのです。そんな思いを、学校へ提出する作文に書いたら、思慮深い担任の女教師が、憂いに沈んだ眼差しで呟きました。「人はみな、この問題を抱えて生きていかなければならないの・・」というようなことを。

ともあれ、いまのところ私は生きたまま年の瀬を越せそうで、有難いことです。中島義道著「死を哲学する」については、年が明けてから記事にしたいと思っています。もっとも、この著者によれば、明日も新年も、およそ未来なるものはみな「無」ということなのですけれど。

 


ユキの首輪のことなど

2012-12-28 18:54:50 | 暮らし

いつもと変わらない筈の一日なのに、年の瀬は何となく気ぜわしくなったり、「もう一年が経ってしまうのだ」と感慨を覚えたり。「暦」は、私たちの暮らしを律するのみならず、感情をも左右しているんですね。

今朝は愛車で10数分の北村快晴堂へ。「今年は漢方薬初体験の記念すべき年となりました。」と、少しおどけて申し上げましたら、破顔一笑されました。冷え症等に対応する漢方薬のおかげで体調の不安がほぼ解消されて、本当に有難いことです。

午後は、日頃特別にお世話になっているお宅へ年の暮れの御挨拶に伺いました。挨拶だけで失礼するつもりでしたが、ついつい世間話が弾みました。

Dscn3038私が愛車に乗って出掛けるとき、飼犬のユキは静かな体勢で見送ります。

外出から帰ってくる私を、2本足で立ち上がったユキが中空を両前足で掻くようにして迎えてくれます。

ジュンとの交換トレードで当庵へやってきて1年余り、最初はお互いにちょっと気取って?いたけれど。

ユキ!と声を掛けると振り返って、無垢な眸で私を見詰めます。ご機嫌なときのユキは、私の低めの鼻の頭を舐めて愛情表現。私もご機嫌になってしまいます。

前に飼っていたジュンもそうでしたが、ユキも、エネルギーを発散させるためか、或いは恰好いい姿を私に見せたいからか、時々犬舎のまわりで猛烈なダッシュを繰り返します。昨夕もそんなダッシュを繰り返していたとき、突然、パーンと音がして、繋留の鎖が首輪から外れました。首輪が破断したのです。

昨夕は緊急対応として、ジュンのお古の黄色い首輪を付けました。枯木立の向こうから、真円に見える月がひっそりと上っていました。

Dscn3043今日は赤い首輪を買ってきて付けました。猛烈に力強いユキだけれど、やっぱり女の子だから?赤が似合いますよね。

しとしとと雨が降り始めました。無月の夜です。


トキの野生復帰と「談義」の哲学

2012-12-24 13:57:00 | 哲学

トキの野生復帰の一連のニュースを、私はいつも冷ややかに聞いていました。この国は、環境の徹底的な破壊を続けながら、いわばエリートに祭り上げた特定の生物種のみを、似非免罪符のように利用している、と。

Dscn3033この冷笑的気分は今も変わりませんが、桑子敏雄(1951~)の「トキの野生復帰と<談義>の哲学」(岩波の「図書」12月号)を読んで、野生復帰事業の或る一面を興味深く思いました。

田んぼを荒らすトキは、農家にとっては害鳥です。著者は2007年、トキと共生可能な地域社会の条件を研究する文系チームのリーダーを依頼され、佐渡島の人々の思いが錯綜してトラブルを抱える多くの地域で、当事者として活動してきたそうです。その活動とは、合意形成プロセスの構築であった、と。

キーワードは「談義」でした。閉校の小学校が「談義所」と名付けられました。
・・・談義による合意形成は、票決を行わないという点で、熟議民主主義とも異なっている。・・民主的談義は、地域社会の重要な課題を現場で切実に感じることのできる人々の直接的な話し合いによる問題解決の方法であり、この方法を通じて実践される民主主義の理念である。

この方法によって、トキの野生復帰の重点地区新穂潟上を流れる天王川の上流と下流の対立を解決し、さらに、天王川最下流に位置する加茂湖をめぐる行政と漁協の対立の解決にも成功した。

票決を行わないということは、多数者による支配を行わないということですね。柄谷行人が、デモクラシーを超えるものとして提起している イソノミア=無支配 を想起しました。古代ギリシャのイオニアで行われていたというイソノミアですが、現代日本においても、限られた場で条件が満たされれば、ある程度、実現可能なのかも知れないという、希望を感じさせられました。

桑子敏雄はこんなことも書いています。
人間は、個人として、組織において、あるいは地域社会や国家において、永遠に対立・紛争から逃れることはできない。人間が幸福であるためには、この対立・紛争と不断に戦わなければならない。この仕事は人間の本質のうちに存在する。合意形成のプロジェクト・マネジメント技術を人間にとって必要不可欠とするのは、人間にとって平和とは平和への不断の努力以外にないと考えるからである。

桑子俊雄にとって「平和のために戦う」とは、戦争することではありません。合意形成のために談義することなのです。平和への脅威が急迫する昨今、示唆に富む一文ではないでしょうか。


「篆刻と師走の茶会」のことなど

2012-12-22 17:21:32 | 八郷の自然と風景

冬至の昨日は公民館図書室へ行って、フランクル著「夜と霧」(池田香代子訳)の貸出予約をしました。応対の職員が着物姿の私を見て「いつもと感じが違いますね。着物はいいですねぇ。」とニッコリしてくれて、私もニッコリ。

公民館を出て、こんこんギャラリーへ行きました。愛車での移動です。小さなギャラリーなので、創作家や居合わせた方と会話を楽しみながらゆっくりと時間を過ごすことが出来ます。今回は「篆刻と師走の茶会」という名目で、ささやかな茶席も用意されていて、篆刻作家の瀬川敦子さんが薄茶を点ててくださいました。美味しいお菓子付きで200円でした。瀬川さんの着物姿は本当に素敵です。篆刻作品ももちろん素敵です!

知人から戴いていた柚子で、昨夜は柚子風呂にしました。昨日は亡父の祥月命日でもありました。当庭に咲いている冬菊と実南天を小さな仏壇に供えました。身体の故障や、勉強好きなのに進学出来なかったことや、妻の横暴など、辛いことが多い人生だったと思いますが、晩年はいわゆる「ほとけさまのように」穏やかだった父でした。

Dscn3026今日の窓の外は冷たい雨です。すぐそばの南天の実をヒヨドリがついばんでいたので、カメラを構えたのですが、素早く逃げられてしまいました。メジロやシジュウカラやエナガなどが小群を成して、ひっきりなしに鳴きながら、枝から枝へ移っていきます。ジョウビタキやツグミは一羽ずつ、鋭い声を発して中空を突っ切ったりします。警戒心の強いアオジは、藪の中へサッと飛び込みます。冬鳥たちは厳しい季節の中、餌を求めて懸命です。その姿がみな、とても美しく見えるのは何故でしょう・・


あるかなきかの風に

2012-12-19 17:19:33 | 八郷の自然と風景

Dscn3020冬晴の中、あるかなきかの風に、木の葉がハラハラと舞いおりていきます。1ヶ月ほど前の、抗い切れないかのように落ちていった木の葉たちとは違う姿です。

枯れ尽くして重さをほぼ無くし、花びらのように軽やかな舞いです。私の命も、最後はあんなふうに舞いおりていければ、いいかも知れない、と思ってしまった自分が意外でした。
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真木悠介著「時間の比較社会学」 その8

2012-12-18 06:56:52 | 

結章のタイトルは「ニヒリズムからの解放」です。

この章で最も心を打たれたのは、引用された詩「天の魚」(石牟礼道子)の一節(うち2箇所を以下に引用しました)です。この詩人について、私はこれまで仄聞はしても、その印象の重さを異様に感じ、敬遠してきたのですが、今回はその不可思議な感性の深淵に引き込まれました。

  生死のあわいにあればなつかしく候
  みなみなまぼろしのえにしなり

  ひともわれもいのちの臨終(いまわ) 
  かくばかりかなしきゆえに 
  けむり立つ雪炎の海をゆくごとくなれど 

  われよりふかく死なんとする鳥の眸(め)に遭えり

真木悠介はこの詩に、生きられる刻(とき)と、出会われるものや他者へのかぎりなく深い共感 を見ています。

・・・われわれの現在の時が、未来に期待されている結果のうちにしかその意味を見出せないほどに貧しく空疎となるのは、われわれが人間として自然を疎外し、個我として他者を疎外し、言い換えれば現在の時にそれ自体としての充足を与える一切の根拠を疎外し、・・存在のうちに交響する能力を疎外しているからだ。

時間がニヒリズムの元凶であるのではない。ニヒリズムが元凶としての時間を存立せしめる。

そして著者は断言します。・・われわれを死の恐怖と生の虚無から解放するのは、存在に向って開かれた・・共時性の感覚でしかありえない と。その解放のためには、・・現実に取り結ぶ関係の質を解き放ってゆくこと すなわち、・・これまでのいわゆる「社会変革」のイメージとははるかに異質の、しかし同様に実践的な、ひとつの人間学的な解放 を追求しなければならない、と。

本書の結語は、高らかな意志に満ちた宣言です。

人生が完結して充足しうる時間の構造を取り戻し得たときに初めて、われわれの時代のタブー、近代の自我の根柢を吹き抜けるあの不吉な影から、われわれは最終的に自由となるだろう。

希望の灯となるべき宣言ですが、人生が 完結する とはどういうことなのか、残念ながら実感を以てイメージ出来ません。私には打ち消せない懐疑です。<完結して充足しうる時間の構造を、人生が取り戻し得たとき>と読むならば、分からないでもないのですが。 前章の末尾には、未来がある具体性のうちに完結する像を結ぶ・・・という文節があり、同様の趣旨のようですが、私にはやはり意味不鮮明です。もしかしたら著者は、<生の虚無>からの解放だけでなく、<死の恐怖>からも解放される形を整えるために、急遽、形式的な(と私には思われる)文言を持ち出してしまったのでしょうか。<死の恐怖>については、本書の始点と終点でしか語っていないにも拘らず、です。

そもそも<死の恐怖>は、哲学や社会学を含めた科学では解決できない問題でしょうから、期待する読者は自らの愚昧を嗤うべきなのでしょう。ですからこのことは脇に置いて言えば、本書が展開する世界のめくるめくような豊饒と透徹した論理と漲る情感との出会いは、遅すぎましたが、それでも私には幸せな一つの事件でした。真木悠介に深謝!


冬菊の季節

2012-12-16 17:25:32 | 八郷の自然と風景

愛車を駆って、近所の方と共に投票所へ。希望が全く沸かない選挙ですが、とにもかくにも自分の考えにほぼ一致する候補者と党へ1票を入れました。

Dscn3008当庵横の雑木林は、もう葉を落とし尽くしてきました。でも今日は珍しく温かな日和です。庭の冬菊は寒さが好きですかDscn2986
ら、拍子抜けしているかも知れません。

先月孵ったヒヨコ2羽は、元気に育っています。雄の白い烏骨鶏キンタロウと雌の矮鶏ウララのハーフです。羽はウララの色を引き継いで茶系です。人間の成長段階で言えば、もう10代にさしかかったぐらいで、ヒDscn3004_2
ヨコというよりも中雛(ちゅうびな)という感じですね。可愛い表情を撮りたいのですが、カメラを構えると必死で逃げるし、成鶏たちが匿うし、なかなか

午後は落葉を集めて、堆肥にするために米ぬかを混ぜ水を掛けて踏み込みました。出来るときに少しずつ作業しています。来シーズンも、この落葉堆肥を使った野菜作りが無事に出来ますように。


アイノコ

2012-12-12 19:24:34 | 社会

茶道の大先生は大らかな方で、稽古中の世間話をお許しくださることもあります。今日は、「炭付花月」と「濃茶付花月」をしながら、太平洋戦争の戦時中と戦後間もないころの話になりました。

米軍による本土空襲の話も出ました。先輩の一人は、空襲警報が鳴って母親が娘(先輩)に防空頭巾を被せて避難しようとしたが、その頭巾の前後が逆に被せられていて、母親は「娘の顔が無くなった!」と驚いた・・と。一同、いったんは大笑いしたけれど、すぐ真顔に戻り、今だから笑えるけれど、その時はねぇ・・と、シーンとなりました。

私は戦後の食糧難の話をしました。乏しい食品を巡って姉兄と争ったこと、近隣の男の子たちが米軍(占領軍)のシープを追ってチョコレートなどをせがんでいたこと。高級パンパン(娼婦)と呼ばれる方が近所に住んでいて、米軍人らしき男が通ってきていたこと、二人の間にはアイノコ(混血児)が生まれていたこと。

その金髪の女の子は私より2歳ぐらい年下で、棄てられていた小犬が弱っているのを、可哀想だと涙ぐみながら介抱(といっても子供ですから介抱になっていなかったのですが)するような、心が綺麗で純粋な子でした。しかし当時はアイノコへの差別意識が強かったためか、一緒に遊んでいたのは私だけでした。私も独りになりがちな子でしたので、相性が良かったのでしょう。

当時のことは、ひとまわり余り齢若の仲間にとっては、聞き慣れない話だったようです。「語り部」なんて他人事だと思っていましたが、こんな私のこんな話でも、後世に伝えておいたほうが良いのかも・・と感じました。なんとかして再度の戦争の愚を犯さないためにも。

皆の前では話せなかったことがあります。アイノコと仲良しだった私も、やがて周囲の差別意識に染められて、その子を疎んずるようになりました。やがて、7~8歳ぐらいの時だったでしょうか、その子が久しぶりに我が家を訪ねてきました。「父親がいるアメリカへ行くことになりました」という挨拶でした。西洋人形のように美しい容姿に、バレリーナのような青く美しい衣装を身に付けていましたが、私は差別意識の鎧のままに冷淡な返事だけして、彼女を玄関の中へさえ入れませんでした。思い出すたびに、自分の冷酷な本性がおぞましく、悔恨仕切れない苦痛を感じます。蒼い湖のようだった彼女の眸。


真木悠介著「時間の比較社会学」 その7

2012-12-09 06:23:57 | 

第5章 近代社会の時間意識ー(Ⅱ)時間の物象化 は次の3節で構成されています。
 1 内的な合唱と外的な合唱
 2 時計化された生ー時間の物神化
 3 時間のニヒリズムー時間意識の疎外と物象化

近代社会は貨幣システムと時間システムに 現実の生活を依存し、・・客体化された時間が過去へも未来へも延びて、・・現代人の生活の枠組みをなしている・・・

確かに私達の生活そして人生は、この通りですね。

貨幣システムにおいては、商品価値が再生産にとっての<社会的必要労働時間>という抽象化された時間の尺度へ還元されていることを踏まえた上で、著者は語り続けます。

そもそも資本はその本性上時間との闘いである。・・そしてこの資本の論理が、この「奴隷」たちのさらに支配下にある労働者とその予備軍、およびその家族たちの生活時間の、すべてに浸透してゆく・・・

 ・・・抽象化され、それゆえに無限化された時間の意識は、翻ってまた、我々の生の時間を、無限に短いものとして感受させる。

ここで著者は再び、あの敬虔なパスカルの恐怖を引用します。すなわち「この世の生の時間は一瞬に過ぎないということ、死の状態は、それがいかなる性質のものであるにせよ、永遠であるということ・・・」、それは、幾何学の精神」の抽象する時間の意識と、「繊細の精神」の実存する自我の意識との矛盾である、と。

・・・ひとつの共同態とそれを取り巻く自然の固有性に対する「(執着、すなわちプルーストのいう)深い信仰」からの解放ということが、・・実は執着の個我自身への凝集に他ならない・・・

無限の中で個我へ凝集した意識が立ち竦む現在~私自身の心の風景が見えてくるような感じがします。

抽象的に無限化する時間意識と自我の絶対性との矛盾ー<死の恐怖>と<生の虚無>とは、近代理性のこの矛盾の表現に他ならない。

本書の頁の大半を使って<生の虚無>の由来を圧倒的な論法で語ってきた著者が、その始点と終点で<死の恐怖>を持ち出し、<生の虚無>と同列に言及していることに、私は共感と違和感が相半ばしています。

・・・我々の人生が、完結して充足しうる構造を喪い・・無限性にかつ(餓)える有限性としての実存の非条理の直視ということだけが、一切の自己欺瞞を斥ける近代的自我の最後の到達点となる。

では<時間のニヒリズム>は必然なのか? 著者は反証を仄めかして、本章を結んでいます。


山県大弐の辞世の歌

2012-12-07 20:28:46 | 俳句

Dscn2938俳句の会で、八郷の泰寧寺を吟行しました。曹洞宗の寺で、境内には尊王倒幕論者として知られた山県大弐(1725~1767)の墓があります。謀反の嫌疑で斬首された大弐ですが、儒学、兵学、医術を修めたほか、音楽、天文学などの著書もあり、一大思想家だったと言えそうです。漢詩や和歌の素養もあって、墓脇に掲示された辞世の歌

   曇るとも何かうらみむ月こよひ 
      はれを待つべき身にしあらねば

を目にして、時代を超え思想を超えて迫ってくる気概に、暫し立ち尽くしました。

気温は低いけれど快い日差しがあり、枯田の向こうの筑波山が楚々とした風情に見えます。明日は12月8日。この麗しく平和な風景が続くことを願っているのですが・・・
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