みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

常陸国の出雲大社

2016-03-27 22:05:04 | 俳句
俳句の会で笠間市福原の出雲大社へ行きました。島根県の出雲大社の分霊を祀ったのが平成4年。ネット情報によれば、平成26年に「常陸国出雲大社」と改称して、単立の宗教法人となったようですが、どういう事情でそうなったのか、私には分かりません。それはともかく、名前のとおり大きな神社で、とてつもなく太い注連縄は迫力があります。



拝殿前の彼岸桜が五分咲きぐらい。花冷えというほどには寒くないものの、麗らかというほどには暖かくない日和でした。若い人たちが次々に訪れて境内は賑わっていました。縁結びの神様として、それなりに?慕われているのですね。

本殿の裏側は静かな林で、樹木葬のためのスペースが広がっていました。樹木葬がかなり普及してきているのを感じました。鶯も鳴いていました。かんざしのような花穂を一杯に垂らした大樹が目立ちました。焦げ茶色で紫がかった花穂です。図鑑等で調べた結果、「榛の木」(ハンノキ ハリノキとも言う)かな? ちょっと確信が持てないけれど・・・

          一樹にて天蓋焦がし榛の花


ダイサギ&野鳥63種

2016-03-23 06:23:46 | 野鳥
飼犬ユキとの散歩で、最近は裏山を抜けて隣村まで足を延ばすことが多くなった。隣村にも顔馴染みの人が出来てきて、その風景にも親近感が増してきている。「風景」には主観的な性格が濃い、と今更ながら思う。

有機無農薬栽培で知人が丹精されている畑の間を過ぎると、低い土手下から向こうは広々とした田んぼの風景だ。この季節になると、田起こしの耕運機を駆っているところもある。冬季は一面の大枯田だった。



田んぼの間の、畦道と言うには広めの草道をユキと共に行くと、4~5間ほどの幅の用水路にぶつかる。この辺りに来ると、傍らから大きな白鷺が舞い上がることが多い。向こうの田んぼにいったん舞い降りると、いつまでも動かない。

水田でよく見かけるコサギよりもずっと大型だ。脚が黒いからチュウサギでもない。ダイサギだ。水田に比べればそれなりの深さがある水路で採餌している様子からも、ダイサギと判断できる。夏鳥と言われるが、越冬する個体もあるらしい。

図鑑等によれば、ダイサギ には ダイダイサギ と 亜種チュウダイサギ の2種がある、というからややこしい。大きさが ダイダイサギ>アオサギ>亜種チュウダイサギ らしいので、隣村のダイサギは 亜種チュウダイサギ と判断しました。

田んぼが広がる風景の向こうに、じっといつまでも動かないダイサギの姿は、まるで孤高の聖者のようだ。

八郷で出会った野鳥は(鳴声のみの出会いで未視認を含む)全部で63種、次の通りです。(素人判断ですので、間違いがあったらお赦しを!)

スズメ ホオジロ カシラダカ ミヤマホオジロ ヒバリ アオジ クロジ ノゴマ ルリビタキ ジョウビタキ サンコウチョウ カワラヒワ ウソ イカル ムクドリ エナガ シジュウカラ ヤマガラ メジロ ツグミ シロハラ アカハラ トラツグミ ウグイス オオヨシキリ センダイムシクイ エゾムシクイ メボソムシクイ セッカ キクイタダキ ツバメ サンショウクイ モズ ヒヨドリ ハクセキレイ セグロセキレイ  コゲラ アカゲラ アオゲラ  カワセミ ツツドリ ホトトギス カッコウ キジバト カケス ハシボソガラス ハジブトガラス タシギ ヒクイナ ケリ カルガモ ハシボソミズナギドリ コサギ ダイサギ アマサギ アオサギ ゴイサギ コジュケイ キジ フクロウ オオタカ ノスリ サシバ

野良仕事三昧

2016-03-20 17:05:36 | 菜園
些細ながら気になる体の不調が絶えなくて、憂鬱になりがちだった。でも温かい日が続いてきたから、そうも言っていられない。気持を入れ替えた。今日は久しぶりに野良仕事三昧。

まずは草取り。冬の間にしっかり根を張った草との闘いは力仕事だ。一挙に終わらせるのは私には到底無理。毎日少しずつ目標のエリアを定めてやるしかない。そして目標達成の充実感を味わうのだ。草たちには申し訳ないけれど。抜いた草の一部は、根土ごと鶏舎に入れる。鶏たちは大喜びで啄む。

人参、小松菜、春菊、チンゲン菜の種を蒔いた。人参は大好きなので、夏蒔きだけでなく春も蒔く。青菜類は少しずつ日にちをずらして蒔く。リスク分散と収穫期間を長くしたいため。

裏山から菜園の支柱用に篠竹を刈ってきた。篠竹林の中で丈夫そうなのを選び、根元で伐り、小枝を払い、10本ほどを束ねて運び込み、手頃な長さに切り揃える。10年余りの経験で、不器用な私でもさすがに少しは要領が良くなったかと思う。

作業に集中していると、体の不調のことも暫し忘れる。ウグイス、シジュウカラ、キジ、メジロ 等々、野鳥たちの囀りも賑やかになってきました。

野仏の祈り

2016-03-15 22:12:01 | 俳句
風は冷たいけれど明るい日差を有難く受けながら、俳句の会で片野の浄土寺へ行きました。会の先師が寺苑内の墓地に眠っています。心に染む俳句を作られ、人に優しく、ユーモア精神も豊かな師でした。皆で花を手向け、お線香を焚いて合掌し、師を偲びました。傍らの墓誌を見て、ご逝去から既に5年を経過したことに気付き、今さらながら時の流れの速さに呆然・・

浄土寺のすぐ近くの農地の一角にこじんまりとした梅林があります。満開を過ぎていましたが、まだまだ綺麗です。

少しばかり歩くと、恋瀬川の岸辺です。オオイヌノフグリ、ナズナ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウ 等々、小さな春の草花が色々、一面に咲いています。光安寺橋からの風景は、ほのかに霞がかって静かです。


光安寺橋を渡ってすぐの下流側左岸に、文政年間の虚無僧塚が保存されています。市指定文化財です。同時代のものと思われる野仏も一緒です。風化し切って目鼻口は失っていますが、余分なものを全て捨てて合掌する仏心を顕しているように見えて、暫らくの間、その前を離れることが出来ませんでした。


          野仏の面なき祈り彼岸西風

「甚八」の昼食会

2016-03-13 14:06:54 | 
同じ齢頃の女友達と4人一緒に昼食会。とりとめもない雑談の中に、さりげなく大事な話を織り込み合いながら。「甚八」のメニューは値段もお手頃、味もお手頃、量は多め。首都圏在住の一人は、注文したモツ煮込みのボリュームに驚いていた。ちくわ天も意外に?美味しそう。天ぷらうどんを注文した私は、食べ切れないだろう・・と思ったけれど、お喋りしているうちにいつの間にか完食!

           
    


追悼式のお言葉

2016-03-12 14:32:20 | 社会
昨日の大震災追悼式における天皇陛下のお言葉は、既にラジオで一部を耳にしていましたが、朝刊に掲載された全文を読んで、しみじみと深く染み入る内容だったことを知りました。以下に特に心を打たれた箇所を抜粋します。

地震、津波に続き、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染 のため、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。事態の改善のために努力が続けられていますが、今なお、自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。

・・被災地で、また避難先で、今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。特に、年々高齢化していく被災者をはじめとし、私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人 も多くいるのではないかと心に掛かります。

これに引き換え、アベの式辞たるや、なんと薄っぺらなことか! 人々の苦しみのの字も言わず、放射能汚染のの字も言わず。


「私」の生態系

2016-03-08 05:53:24 | 健康・病気
「人は独りでは生きていけない」と題する山本太郎氏(1964~ 国際保健学)(あの素敵な国会議員と同じ名前だけれど別人)の記事を、岩波書店の「図書」3月号で読んだ。「ひょうそ」という細菌感染症で怖ろしい思いをし、抗生物質のおかげで何とか完治しつつある私は、真剣に読まずにいられなかった。

・・「私」は、実は「私」に常在する細菌とともに「私」を構成している・・ 「私」はマイクロバイオータと呼ばれる常在細菌叢(じょうざいさいきんそう)との相互作用を通して、生理機構や免疫を作動させ、私たちヒトをかたち作る。そのマイクロバイオータが今、大きな攪乱に見舞われている。抗生物質の過剰使用や帝王切開の乱用、伝統的食生活の変化によって。

帝王切開の乱用問題は知らなかった。新生児は経腟分娩によって母親の常在細菌を受け継ぐのだという。

近代医学は、とりわけ感染症において、病原体の「存在」を同定し、病原体の「存在」を排除することによって、その存在意義を示してきた。しかしマイクロバイオータの多様性の喪失や中枢細菌の喪失が突きつける問題は、ある種の「不在」が、病気を引き起こす可能性を指摘する。

抗生物質の使用がいけないわけではない。・・その過剰使用が問題なのである。・・耐性菌を生み出すだけでなく、感染症や免疫性疾患に罹患しやすくなるという、まさに「抗生物質の冬」の時代をもたらすことになる。

耐性菌の問題は一応承知していたけれども、抗生物質が感染症への感受性を飛躍的に高める、とは知らなかった。怖ろしいことだ。

ヒトに常在する細菌は・・祖母から母、母から娘、娘から孫へと受け継がれてきた。長い進化の過程で、私たちヒトは役に立つ細菌を選択してきた。・・自然というマクロの生態系のなかでも、あるいは、人体という小さなミクロの生態系の中でも、人は独りでは生きていけない・・

そして、一度失われた種や細菌は、再び回復することはないという。やがて遠からぬ未来に、ヒト自体もそうなるのだろう・・・

虚偽意識を撃つ

2016-03-06 19:57:04 | 仏教
日本の名僧⑧信の念仏者 親鸞 (2004年第1刷 吉川弘文館)を、図書館から借りて読んだ。共同執筆の8名が各章を分担されているが、読むに値いすると思ったのは、第8章「現代と親鸞」だった。



執筆者は加来雄之(かくたけし 1955~)。心の扉を叩き、心へ光を届けようとする言葉を感じた。以下、抜粋する。

人間のチエは欲望するチエである。欲望のチエは、その奥底に自己中心性(我執)と自己肯定(無明)を構造として潜在している。・・近代において、そのチエは、経験科学を中心とした合理主義精神を獲得したことで、すべてをモノ化(機械化・物象化)する力を歪に発達させたのである。モノ化する力は、経済中心という欲望の濁流となって自然環境と他者関係を破壊し、思想・文化の対立という憎しみの火となって世界を焼き尽くそうとしている。

現代の危機は、誇張でも修辞でもなく、規模においても質においても人類の危機である。

近代は・・宗教そのものの存立基盤を「虚偽意識」ではないかと問うたのである。・・宗教を虚偽意識として撃つということは、人間のもっとも深い虚偽意識を撃つことである。そして宗教に巣くう虚偽意識を撃つことは、人間存在に真に応える宗教を根底から問いなおす機縁となるのである。

阿弥陀とはなにか。原語にはサンスクリット語のアミタ(無限)が想定され、語義的にはアミターユス(かぎりない寿)とアミターバ(かぎりない光)という内容をもつ。「今、ここにあることのかぎりない深さ」「存在の満足」(今村仁司)、「<在る>ことの不思議」(古東哲明)を象徴的にあらわす名である。

アミダは・・存在の深さを忘却しているものに、みずからの生きる現実を虚偽システム(五濁悪世)としてとらえることを促し、存在の深さを想起させる願い(本願)をもってはたらきかけること(摂取不捨)を「阿弥陀仏」と名付けて探求してきた伝統、それが浄土教である。・・親鸞は第1に、この阿弥陀の伝統に立つ念仏者である。

「人間のチエ」は念仏であっても対象化しモノ化する。その結果、念仏の教えが教義となり、やがてイデオロギーと変容する。・・『歎異抄』が「無義をもって義とす」という「(親鸞の)おおせ」によって世俗的言説と宗教的言説との質の差異を問い直されなければならないと指摘していることは重要である。