第一章 懺悔道の哲学的意義
田辺元にとっての懺悔は、反省や後悔に止まらない「自己の突破」です。
・・自己を立てて置いて懺悔を行ずるということはできぬ。何となれば、懺悔は自己の行でありながら、自己を突破し自己を放棄する行だからである。
自己の知を恃む実存に対して真摯な言葉の矢を放ち、真の「自由」に言及しています。
実存が自己の存在を自己自身から自発的に決断することに根拠附けられたものと規定せられる限り、それは絶対者の自由と媒介的なる自由を享有すると同時に、自己の相対性を忘れて自ら絶対者そのものたらんと僭する傾向をも蔵する。
・・自己を放棄し自己に死する実存のみ、真に実存として自由に生きることができるのである。
「自己に死する」という表現は、精神のみならず肉体の死をも想起させて、私には違和感があります。しかし著者にとっては、懺悔を「死」に匹敵するほどに徹底的な行として読者に伝えるために選ばれた言葉なのでしょう。
しかし何という不可思議であろう。私をかかる自己放棄へと促す力は、同時に私を回復し、一度否定せられた私の存在性を再び肯定に返す力なのである。
自己の放棄・否定から肯定への不可思議な転換を、著者は感動を以て語っています。私が長年憧れ(と言ってもイイ加減な憧れですが)ながら為し得ない転換です。
そして田辺は、愚者凡夫の哲学は懺悔道としてのみ路を通ずる・・と言うのです。
すでに古代において哲学者の典型なるソクラテスは、その無知の知の反語を以て懺悔の途を歩んだのである。
哲学は・・理性に対する信頼、知の自信、に伴って発達したものである。しかし・懐疑は哲学の始終を通してこれに伴う。それが・・理性そのものの本性に根ざす限界に由来するものなることを明にしたのが、カントの理性批判における先験弁証論である・・。
彼(カント)は古き形而上学の二律背反を免れるために、認識を被制約的相対界としての現象界に限り、・・絶対者の認識を意図する形而上学は、これを学的認識として承認しないことにした。これがいわゆる学としての形而上学の否定である。しかしそれと同時に、我々の理性が・・無制約者を思惟し、・・対象概念として定立することを避けることができないとした。それがいわゆる「自然素質としての形而上学」に外ならない。
形而上学を認識批判に依って(「自然素質としての形而上学」として)主観化したカントの考えたように、主観を客観の先験的根拠としてこれに対立せしめ、一方的に前者の形式的自立性を以て後者を確立することはできぬ。・・それぞれ自らを他によって媒介せしめることを通じ自らを媒介するという弁証法的関係を保つのである。これは・・行的現実の構造であり、また歴史の構造に外ならない。
・・ただに科学批判としての理論理性の批判のみならず、実践理性の批判もまた・・二律背反に陥ることを暴露し、理性批判は全面的崩壊の危機に瀕する・・。これが私の絶対批判と呼ぶものに外ならない。
哲学は・・理性に対する信頼、知の自信、に伴って発達したものである にも拘らず、理性は絶対批判に曝されなければならない、という著者の論理の徹底的な弁証法に、息を呑む思いが致します。
科学が宗教に通じ、知が信に転ぜられて、かえって「知るために信ずる(アンセルムス 10331-109 の言葉)」立場が展開せられるのは、正に哲学の復興に外ならない。
田辺元にとって科学と宗教との垣根なぞは、有って無きが如しのようです。