良寛さんの自筆歌集『ふるさと』には、こんな歌があるという。
~黒坂山のふもとに宿りて~
あしびきの黒坂山の木の間より洩りくる月の影のさやけさ
ようやく越後に辿りついた。山の木々のしじまを漏れくる月かげが美しい。
差し込んでくる光は、何にたとえればよろしいか。永年捨てていた故郷の土が、眼前に迫っているのに。誰だって、心ときめかせないではおれないはずなのに、良寛は、いささかも興奮していない。かなしみも、よろこびも、一切心の奥にとじこめてしずかに木の間をこぼれくる月光の下の故郷を見ている。(水上勉著「良寛」より)
お釈迦様は29歳のとき出家されたが、苦行を重ねても真の悟りを得ることが出来なかった。痩せ衰えたお釈迦様は、己が心身を苦行から解放されて、村娘スジャータの布施(乳粥)を受けられた。体力と智慧の力を回復され、菩提樹下での悟りを得られた。35歳のときだったと伝えられている。
良寛さんをお釈迦様になぞらえて語るのは唐突かも知れないけれど、円通寺を出た後の諸国行脚は、飢饉の時代でもあり、まさに「苦行」だったろうと思う。既に31歳のとき、円通寺の国仙和尚から、悟ったことを証明する「印可の偈」を付与されていたそうだが、黒坂山のふもとで詠まれた歌の「月の影のさやけさ」が、あまりに深い印象を与えるので、真の悟りを得られたのは、この帰郷のときだったのではないか、と私は憶測してしまうのだ。
帰郷した良寛さんの貧しいながらも清らかな生活を可能とするためには、粗末ながらも雨風雪を避けられる小庵が必要だ。身を養うための食糧と身に纏う衣服も、粗末であっても最低限のものは必要だ。そして、文芸のための筆・硯・紙も欲しい。
それらを快く布施してくれる人々が、故郷の越後には確かにいたのだった。
人々の心も、風景も、生まれ育った地ならではの風土があった。
この地でこそ良寛さんは、本来的な御自分でいられたのではないか、大好きな文芸にも熱中していそしまれたのではないか、と思う。
~黒坂山のふもとに宿りて~
あしびきの黒坂山の木の間より洩りくる月の影のさやけさ
ようやく越後に辿りついた。山の木々のしじまを漏れくる月かげが美しい。
差し込んでくる光は、何にたとえればよろしいか。永年捨てていた故郷の土が、眼前に迫っているのに。誰だって、心ときめかせないではおれないはずなのに、良寛は、いささかも興奮していない。かなしみも、よろこびも、一切心の奥にとじこめてしずかに木の間をこぼれくる月光の下の故郷を見ている。(水上勉著「良寛」より)
お釈迦様は29歳のとき出家されたが、苦行を重ねても真の悟りを得ることが出来なかった。痩せ衰えたお釈迦様は、己が心身を苦行から解放されて、村娘スジャータの布施(乳粥)を受けられた。体力と智慧の力を回復され、菩提樹下での悟りを得られた。35歳のときだったと伝えられている。
良寛さんをお釈迦様になぞらえて語るのは唐突かも知れないけれど、円通寺を出た後の諸国行脚は、飢饉の時代でもあり、まさに「苦行」だったろうと思う。既に31歳のとき、円通寺の国仙和尚から、悟ったことを証明する「印可の偈」を付与されていたそうだが、黒坂山のふもとで詠まれた歌の「月の影のさやけさ」が、あまりに深い印象を与えるので、真の悟りを得られたのは、この帰郷のときだったのではないか、と私は憶測してしまうのだ。
帰郷した良寛さんの貧しいながらも清らかな生活を可能とするためには、粗末ながらも雨風雪を避けられる小庵が必要だ。身を養うための食糧と身に纏う衣服も、粗末であっても最低限のものは必要だ。そして、文芸のための筆・硯・紙も欲しい。
それらを快く布施してくれる人々が、故郷の越後には確かにいたのだった。
人々の心も、風景も、生まれ育った地ならではの風土があった。
この地でこそ良寛さんは、本来的な御自分でいられたのではないか、大好きな文芸にも熱中していそしまれたのではないか、と思う。