みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

良寛さん  その5《真の悟り》

2021-04-28 18:41:27 | 仏教
良寛さんの自筆歌集『ふるさと』には、こんな歌があるという。

       ~黒坂山のふもとに宿りて~

     あしびきの黒坂山の木の間より洩りくる月の影のさやけさ


ようやく越後に辿りついた。山の木々のしじまを漏れくる月かげが美しい。
差し込んでくる光は、何にたとえればよろしいか。永年捨てていた故郷の土が、眼前に迫っているのに。誰だって、心ときめかせないではおれないはずなのに、良寛は、いささかも興奮していない。かなしみも、よろこびも、一切心の奥にとじこめてしずかに木の間をこぼれくる月光の下の故郷を見ている。
(水上勉著「良寛」より)

お釈迦様は29歳のとき出家されたが、苦行を重ねても真の悟りを得ることが出来なかった。痩せ衰えたお釈迦様は、己が心身を苦行から解放されて、村娘スジャータの布施(乳粥)を受けられた。体力と智慧の力を回復され、菩提樹下での悟りを得られた。35歳のときだったと伝えられている。

良寛さんをお釈迦様になぞらえて語るのは唐突かも知れないけれど、円通寺を出た後の諸国行脚は、飢饉の時代でもあり、まさに「苦行」だったろうと思う。既に31歳のとき、円通寺の国仙和尚から、悟ったことを証明する「印可の偈」を付与されていたそうだが、黒坂山のふもとで詠まれた歌の「月の影のさやけさ」が、あまりに深い印象を与えるので、真の悟りを得られたのは、この帰郷のときだったのではないか、と私は憶測してしまうのだ。

帰郷した良寛さんの貧しいながらも清らかな生活を可能とするためには、粗末ながらも雨風雪を避けられる小庵が必要だ。身を養うための食糧と身に纏う衣服も、粗末であっても最低限のものは必要だ。そして、文芸のための筆・硯・紙も欲しい。
それらを快く布施してくれる人々が、故郷の越後には確かにいたのだった。

人々の心も、風景も、生まれ育った地ならではの風土があった。
この地でこそ良寛さんは、本来的な御自分でいられたのではないか、大好きな文芸にも熱中していそしまれたのではないか、と思う。









良寛さん  その4《文芸への野心》

2021-04-18 13:37:54 | 仏教
良寛さんは何故、越後へ帰郷されたのか? 水上勉が著書「良寛」で、第二の理由として指摘しているのは、「文芸への野心」だ。



(良寛の父=以南は)俳句や歌が大好きで、一日とて風流事から離れなかった父の行動は子供じぶんから見てもいる。良寛が円通寺を出て急につくりはじめた和歌はその血である。漢詩は、大森子陽塾で、さらに、光照寺、円通寺での修行の寸暇を見て、研鑽した楽しみの一つだ。

水上勉(1919~2004)は、十歳で禅寺に預けられた経歴がある小説家だから、自身に引き寄せて良寛を論じているのではないか、と私は疑ってみた。
しかし、良寛さんは約500種もの漢詩と約1400種もの和歌を遺されており、しかもその多くが珠玉の作品だというのだから、確かにに文芸を志向し文芸作家となられたのだ。

中国の祖師や居士たちも、真の禅境を伽藍には求めず、日々作務や典座の中に求めておられた。わが始祖道元さまも、六祖慧能を尊敬され、百丈を尊敬され、一日作さざれば一日喰わず、只管打座の生活といいながら、日々畑づくりにいそしまれた。

不幸なことに自分(=良寛さん)には乞食する力はあるが、農家に生まれなかったので百姓は苦手である。
人がやらなかったということを探せば、早くから父がゆかせてくれた大森子陽塾での漢詩勉強と、和歌をつくることぐらいである。

禅境を詩歌であらわせぬものか。そう考えてくると、静安な生活が何より必要となる。それにはどこにいるより、故郷へ帰ることだ。


上記の水上勉の言説については、百姓の仕事と文芸とを同列に論ずる違和感を覚える。伽藍には座せずとも、百姓仕事には自力修行の精神が宿っていることを想像できる。これに対して文芸は、修行の要素が無いとは言えないが、己れの精神の自由な発露があってこその創作だろう。「禅境を詩歌で」表わすのも、その一環だ。

「農家に生まれなかったので百姓は苦手である」というのは言い訳じみている。要するに良寛さんは生来、百姓仕事は嫌いだが、文芸には夢中になれる人なのだ。

良寛さんと手毬をついたり、かくれんぼをして遊んだのは、貧農の子たちではない筈だ。たとえ小さな子供でも、貧農にとっては貴重な労働力だから、遊ぶ余裕はなかっただろう。帰郷した良寛さんの日常生活を支援し、ときには食事に招いて文芸談義や禅談義が出来るような、名主レベルの旧家や富裕な商人や士族階級等の「文化人」の家庭の子供たちだったのだと思う。

良寛さん  その3《帰郷の理由》

2021-04-17 13:00:21 | 仏教
良寛さんは何故、越後へ戻られたのか?

越後の何処かの寺院に納まられた訳ではもちろん無い。良寛さんは、葬式仏教に堕した寺院の現実を痛罵しているのだ。
かと言って、冬の豪雪が厳しい越後で自力修業を更に積まれたとか、布教に邁進されたとかいう様子もない。

水上勉は著書「良寛」で、二つの理由を推測されている。

その一は、「越後は穀倉地帯」だということだ。
飢饉が相次ぐ時代だったとはいえ、他の地域に比べればマシだっただろう。それに、やはり出雲崎は故郷だ。「どこか破れ庵に住めば、知人や友人もいる。いざという時は救助を求められる。

私は最初に読んだとき、この理由は意外に思われた。あまりに合理的、現実的過ぎるから。しかし、次第に腑に落ちてきた。
そもそも「帰郷」というのは、「出家」の趣旨を真っ向うから否定する行為だ。が、良寛さんは、そんな既成の「掟」のようなものから、己が精神を解放することが出来たのだ。


海を越えて

2021-04-17 12:29:41 | 社会
太平洋の西端に位置する小さな属国のトップが、はるばる海を越えて東に位置する宗主大国へ、お伺いを立てに行った。
その会談内容が相当にキナ臭いものだったことが分かり、ゾッとしている。

宗主大国は、おのれの傷を最小限にしたい。属国をおだてたりけしかけたりして、大陸へ斬り込ませる算段だ。
属国の小列島に勝ち目はない。
いざとなれば宗主大国は、さっさと東へ引き上げるだろう。

この国が辛うじて全滅を免れたとしても、
矢折れ刃尽きた後には、怖ろしい現実が襲うのではないか。
ウィグルどころではない、収容所列島と化すのではないか・・・

そんな怖ろしい事態を避けるには、戦争の火蓋を絶対に切らないことだ。
日本国憲法第9条を死守することだ。

チューリップ

2021-04-10 11:49:57 | 菜園
自家用菜園の一隅に球根を埋めていたチューリップが咲いた。



洋花はあまり好まない私だけど、さすがにチューリップは可愛いと思う。
後悔、悲哀、憎悪、憤怒、恐怖、不安…等々、この私の心の底に渦巻き、折に触れて立ち上がってくる暗い炎、その炎を花たちは暫し忘れさせてくれる。