みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

信田さよ子著 「家族と国家は共謀する」

2021-06-26 14:20:31 | 
「最も身近な家族ほど、暴力的な存在はない」

冒頭の言葉に私たちが衝撃を受けるのは、「家族は愛情で結ばれた共同体」という思い込みがあるからだろう。本書を読み進めると、そんな「常識」こそが被害者を苦しめてきた現実だと実感することになる。




東京新聞の読書欄に目が吸い寄せられた。このことこそ、長年にわたって私に鬱屈した心情を強いた元凶を告発する言辞だから。

それでも「家族は良いもの」という固定観念は社会にはびこる。だからDVや虐待の被害者の多くは訴えを信じてもらえず、今も口を封じられる状態が続く。

そんな実態が「国家の暴力と似ている」と信田さんは思った。きっかけは、戦時中に軍内部のリンチなどで心を病み、送還された日本軍兵士の調査研究書を読んだことだった。兵士らの存在は国によって隠された。「死をも恐れぬ」という軍隊イデオロギーに反したからだ。


もちろん、家族は愛情によって結ばれているという面もあり得る。しかしそれは、あくまでも一面に過ぎない。「その構成員に労働を強いる暴力装置」という面も大いにある。児童虐待も介護虐待もある。性犯罪もある。

家庭内の弱者にとって、家庭とは「逃れられない日常的な暴力装置」だということを、多くの人々に気付いてほしいと思う。


捩花の季節

2021-06-21 14:40:51 | 八郷の自然と風景


当庭にも捩花が咲き始めた。花穂の下方から上方へ花の数が増えてくるにつれて、俯いている先端が真直ぐに空へ向かうようになる。小さくひっそりと慎ましいようでいて華やかさも感じる、妙に印象の強い野草だ。野道や広場などでこの花に出会うと、誰しも足を止めたくなるだろう。

丈の低い草が生えている広場などでよく見掛ける。草木が生い茂った藪や薄暗い林床などは苦手で、逆に管理が行き届き過ぎているようなところも苦手で、中途半端に管理された野原などがお好みらしい。

当庭では数年前に初めて顔を出してくれた。それから毎年、この季節になると同じ場所から花穂を伸ばしてくれる。ラン科の多年草らしい。

          去年の夢捨てし辺りや捩り花

良寛さん  その10《法華と『法華経』》

2021-06-19 15:25:40 | 社会・経済
口を開くも法華を謗り 口を杜ずるも法華を謗る
法華 云何んが讃ぜん 合掌して曰く 南無妙法華


これは、良寛さん著「法華讃」の冒頭で「開口」と題した部分である。
そもそも「法華」とは何か? 解説文を書いた竹村牧男氏は「諸法実相」のことだという。悟りの世界でもあるという。私なりに言えば、存在や世界や宇宙、すなわちあらゆるものの真実、のようなものだと思う。

法華、それは言葉では言い表せないから、口を開いても口を杜じても法華を謗ることになるのだ。

竹村牧男氏の現代語訳は次のようになっている。

口を開いて『法華経』を讃嘆すれば『法華経』を謗ることになり、口を閉じて『法華経』について何も言わないとしても『法華経』を謗ることになる。さあ、『法華経』をどう讃嘆すべきであろうか。自ら代って答えよう、合掌して言う、南無妙法華。

氏は、法華=『法華経』と解釈されている。しかし、良寛さんが『法華讃』全体で一貫して説かれていることからすれば、法華=法華経はあり得ない。良寛さんが讃嘆しているのは法華であり、『法華経』など不要で、足蹴にしていい対象であり、弄ぶ対象なのだ。




良寛さん  その9《竜宮と地獄》

2021-06-14 10:07:23 | 仏教


提婆達多(ダイバダッタ)はお釈迦様に背いた極悪人だとされているが、法華経は「提婆達多品」で、この極悪人さえ成仏した、と説いている。 
また、女人は成仏できないと言われていたが、龍宮で法華経を説いた文殊菩薩によれば、8歳の童女も速やかに成仏したという。

悪人成仏説と女人成仏説は、多くの人々が仏教を受け入れていく機縁となった。さもありなんと思うし、この「提婆達多品」は、法華経の中でも特に親しまれ有難がられてきたのではないかと思う。

この有難い筈の提婆達多品について、良寛さんは「法華讃」で何と言っているのか。

  (牛頭・馬頭は、地獄の獄卒のこと。)

火宅においてすでに大白牛車に乗っているというのと同じで、地獄の中にも、娑婆世界の中にも、自性清浄の涅槃の世界がある、ということになろう。(牧村竹村牧男氏の解説より) 龍宮での文殊菩薩の説法など不要、というわけだ。

仏の相好(=身体的特徴)を具えていない者は、誰一人いない。とも書かれている。誰もがこの娑婆世界にいながらにして仏になりうる、ということを、良寛さんは力説している。

大千界の人 帰去来(かえりなんいざ) ともおっしゃっている。陶淵明の「帰去来の辞」を想起するけれど、良寛さんが言っているのは 自己そのものに帰るべき(竹村牧男氏の解説より) ということだ。

当記事の「その8」で、良寛さんは他力のようにも見えるけれども、実は「自力の極致」と書いたが、それはいわゆる「苦行」ではない。
しかし、自己そのものに帰るということは、簡単なようでいて如何に難しいことか!
そして、仏の本願にお任せするという他力本願(=自己を無くすということ)も、簡単なようでいてどんなに難しいことか!




良寛さん  その8(自力の極致)

2021-06-04 19:11:12 | 仏教
                 
人はみな、煩悩が燃え盛る火宅の内にいるようなものだ。しかし、その人を救わんがために火宅の外へ導くのは無意味だ、と良寛さんは『法華讃』で言う。
煩悩の真っ只中にいながらにして、人は救われることが出来る、と良寛さんは言っているのだろうか・・・ そうだとすれば、これは、煩悩具足の衆生=悪人こそが救われる、と親鸞聖人が説く「悪人正機」と同じではないか・・・ 

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死を離れることあるべからざるを、憐みたまひて願(=『大無量寿経』の説く仏の本願)を起こしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力を頼みたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、(親鸞聖人は)仰せ候ひき。(『歎異抄』より)

私たちは煩悩の渦中にあるけれども、「全ての人を必ず救う」という仏(=阿弥陀仏)の本願によって救われるのだ、と親鸞聖人は説いている。仏の本願は、荒海に漂う私たちを救ってくれる大船だ、と。「他力本願」といわれる所以である。(なお、「他力」とは、「他人の力」ではなくて「仏の力」という意味です。念のため。)

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。(親鸞聖人の主著『教行信証』の序より)

ところが良寛さんは、火宅の内なる人は、既に大白牛車(=人を救うことができる方法)に乗って運転している、という。消防車を運転しているようなものだから、自ら操作して、燃え盛る煩悩の火を消せば救われる、ということかと思う。



まさに「自力」の極致というべき説だと思う。

クモキリソウ

2021-06-01 18:17:22 | 八郷の自然と風景
近くの林縁でクモキリソウと再会した。犬の散歩を兼ねて逢瀬を楽しんでいる。木洩れ日も届きかねる薄暗いところだ。この付近で初めて出会ったのは15年ぐらい前だったと思う。その姿が消えてから10年ぐらい経過している。

     

ラン科だが、花は小さくて1センチにも満たない。地味で目立たず、色は白に近い薄緑。よく見ると妙な形をしている。クモキリソウという名前の由来は、蜘蛛散草(クモチリソウ)の音が変化した、という説があるという。確かに、小さな蜘蛛の子を散らしたようにも見える。葉が2枚だけで向き合っている姿も妙な感じがする。

場所によっては群生していることもあるらしいが、一本だけの姿の方がこの花らしいのではないかと思う。

          一山の謎の徴や蜘蛛散草