みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

「私のいのち」という倒錯

2017-01-27 09:54:18 | 哲学
『アンジャリ』第26号(2013.12月発行 親鸞仏教センター)を読む機会を得て、大場健(1946~)の一文『「おかげ」を被ることと、いのちを所有すること』に目が留まりました。

「いのちの働きによって・いのちがよりよく働くために、一人称の形式での意識の統合が生じ・機能している」

しかし、「私のいのち」「私の人生」という語り口には、「所有」の観念が色濃くにじみでており、そこには何かしら底深い倒錯が秘められている。

いのちの私有化は、己れの死への恐怖を歪つにしているのかも知れない・・・

いかに研ぎ澄まされた自己意識も、その成り立ちからしてすでに、他に対して在ることの意識であり、いかに孤独の日々であろうと、現実の空腹感は、分業・協業への参与なしには満たされない。

共同体に固有の相互依存システムとしての<贈与#返礼>サイクルと比較すると、

(交換)市場に依存しているということは、膨大な数の他人に依存していることに他ならない。

市場への持続的な参与こそが、他人に依存することなき「自立」を可能にする、という神話は揺らぎそうもない。しかし、その神話が語る「自立」を謳歌するためにも、「売り」になるものを市場に出さねばならない。ここにおいて、「私の」いのちは、「売れる」ものを携えて市場に赴くための原資とされ、その原資を運用する経営へと視野は限定されていく。こうしていのちの私有化に拍車がかかる~

現代人の自立意識の倒錯は、災害等で都会的システムが瓦解すれば一挙に露わになるのだけれど、それでも「神話」は揺らがないようです。

真冬の常陸風土記の丘

2017-01-17 22:24:49 | 俳句
俳句の会で常陸風土記の丘へ行きました。平年並みの気温らしいけれど、あまりに厳しい寒さが数日間続いた後なので、日差しが有難く感じられます。入口の長屋門には、餅花。紅白の大きめの餅がびっしりと木の枝に刺してあり、私たちを歓迎しているかのようでした。

丘の木々も池の蓮も一面の枯れ色。でもよく見ると、草々の間をアオジが チッ チッと小声を発しながら飛び移っていたり、蠟梅の蕾が膨らんでいたり。空の向こうからは鷹がゆっくりと舞いながら飛んできました。私たちの頭上では高度を下げて旋回してくれました。ノスリのようです。

          誇らかに双紋展げ鷹の舞

          鷹やがて上りつめたる空の青

御食事処「曲屋」(江戸時代後期の築)で早めの昼食にしました。炉を囲んだ席に座って、皆で語り合いながらお蕎麦やうどんを戴きました。私は「韋駄天そば」(800円)。走るのがとても速いというダチョウの肉が入っているので「韋駄天」の名が付けられたメニューなんですね。初めての食体験でしたが、さっぱりした肉でありながら味は濃い、という印象で、なかなか美味しかったですよ。麺の量が沢山でしたが、ほぼ完食しました。拍子木の形に切られた真っ白の山芋が2本、丼に差すように入っていたのは、ダチョウの尾のイメージ? 面白い盛り付けでした。

美の由来&「自我の起源」

2017-01-10 11:08:36 | 
ものごとの価値の本質として「真善美」ということが取沙汰される。しかし科学が進歩すればするほど「真」は遠のいていくのではないか。「善」なんて偉そうに見えるけれど、対極の筈の悪とコロコロ入れ替わっていいかげんなものだ。では「美」はどうだろう。

若い頃の私は、「真」こそ最高の価値で、「美」なんて捉えどころがなく、あやふやなものだと思っていた。ところが・・齢を重ねた今、私もずいぶん変わったものだと思う。

野鳥たちの飛び交う姿と奏でる声、野の草花の細緻な形と色彩、村一面に広がる植田、野良仕事にいそしむ人々と農屋敷の佇まい、晩秋の雑木林の光と影、夕暮れの山際の、刻々と変わっていく空の色・・・ これらの風景の中に在るとき、吾が身に生起する「美しい!」という心情。この心情こそ、なによりも確かなものではないか、という思い。そしてこの「美しい!」という心情が、一体、何に由来するものであるかが分からない不可思議。



人間という動物は、一人ひとりが「個体」として自己閉鎖しているけれど、同時に、嗅覚的、視覚的、聴覚的な信号を介して他の生きものたちとの共生系をつくっている・・・確かにそうですね。

わたしたちは他の個体からも、時には異種の生成子(=遺伝子)たち、動物や植物からさえ、いつも働きかけられている。それらと共にあることに歓びを感じ、時にはそれらのためにさえ行動することに歓びを感ずるように作られている、と真木悠介は語る。(「自我の起源 愛とエゴイズムの動物社会学P.141」)

クジャクやゴクラクチョウにとって美であるような彩色が、人間にとっても「美しい」と感じられることは、本当に驚くべきことである。(P.145)

クジャクの雄の美しい羽根はクジャクという種の繁殖に有用な小道具で、クジャクの雌に対してのみ働きかければ十分の筈だけれど、それに止まらず、異種の人間にも働きかけている不思議。

森や草原やコミューンや都市の空間でわれわれの身体が体験しているあの形容することのできない泡立ちは、同種や異種のフェロモンやアロモンやカイロモンたち、視覚的、聴覚的なその等価物たちの力にさらされてあることの恍惚、他なるものたちの力の磁場に作用され、呼びかけられ、誘惑され、浸透されてあることの戦慄の如きものである。(P.148)

この「恍惚」をもたらすものこそ、不可思議な「美」の由来だったのでしょうか。そして、必ず死ぬ存在であることの反照によって、美は愈々その輝きを増すのでしょうか。

人間は個(多細胞から成る個体)であることの宿命として必ず死ぬ。しかも性的な個であるから、同じ遺伝子型の個体を決して残さない。死は真に徹底した死となる。(P.70) 真木悠介の突き刺してくる言葉から逃れたくなってしまう弱い私です。  










杖を頼りに

2017-01-02 16:45:58 | 暮らし
きのうの元日は村のお社へ初詣。年末に購入した杖を初使用しました。腰背痛で歩行が辛い状態のため、お社まで辿り着けるか不安でしたが、杖の効能は予想以上で、無事にお詣りを済ませました。

亡娘の祥月命日の今日はお墓参り。電車の駅から墓地までの歩行がやはり不安でしたが、ヨタヨタしながらも杖の効能に頼って45分ほどで到着できました。



朝からの曇り空が明るくなって、温かな日差が満ちてきました。持参した当庭の実万両と水仙を供え、線香を焚き、手を合わせました。亡娘の亡父と亡祖父母も一緒のお墓です。私はこのお墓には納骨されない身だけれど、あの世は一つだから、みんな一緒になるのだろうか・・・