今回も3月の徳島蒸機最終日の記事まで時間稼ぎに前回の続きを。Nの瀬戸編成は今日も全く手つかずでした。先ず中洲の写真
写真の反対側は福島川だと思います。1970(昭和45)年8月の撮影。
最初の写真のすぐ近く、中洲と末広を結ぶ橋(新福島橋?)のたもとです。ダンプの走る道はかちどき橋の北詰めに出ます。練炭や豆炭を扱う品川燃料があった辺りです。
謎の写真デス。一連のネガの中にあったので中洲か末広だと思うのですが記憶がありません。銅像の後ろは学校の体育館でしょうか。
末広に渡って直ぐの所。対岸は県庁の先、万代町・昭和町あたりでしょうか。少し先には漁船の着いている水産関係の岸壁もあり捨てられる雑魚を目当てにいつもトンビが飛んでいました。末広に通い始めた頃にはこの辺から淡路島の福良を結ぶ「福徳フェリー」も発着していました。
対岸は津田になります。今はもうないと思いますが当時小さな造船所があり鋲打ちの音が響いていました。写真の左側が新町川と園瀬川の合流地点です。
出航する徳島フェリーの連続写真です。
運ばれてきた材木を筏に組んでいるところ。貯木は筏にして川に置いておくのが一番良いそうで助任川や田宮川は貯木場となっていました。沖の方に津田の松林が見えます。下の写真で中央に写っている白い船のタイプを古い人は「機帆船」と呼んでいたと思います。この頃もちろん帆走設備はありませんが木造の船は未だ現役でした。レーダーもない「海上トラック」が紀伊水道を行き来していました。
船から川に降ろした材木を今度はクレーンでトラックに積み替えています。福島の辺りは製材所や仏壇・家具を作る工場が多く冬になると塗装を乾燥させるストーブから引火してよく火事があった記憶があります。クレーンといえばこんなのがいました↓
ナンバープレートがないので据置クレーンとして使われていたようですがアームを収納するために運転台が半分しかありません。
末広港の貨物船。300トンくらいでしょうか、このくらいの船を自家用船にして瀬戸内海をのんびり廻っていたいなあと当時から思っていました。
こちらも末広港。小さい頃、徳島港といえば中洲のことでしたがこの頃は末広になっていました。ところが去年久しぶりに船で帰省してみると沖の洲(の更に先)にコンテナ岸壁が出来ていて驚いたものです。
次回はやはり「鉄」の話題にします
ホバークラフトの水しぶきでずくずくになった記憶もw
沖洲突堤では、水中翼船を飽きずに見たり、オーシャンフェリーの入港時の旋回を眺めたり、阪神フェリーなどが通って潮をかぶった記憶が・・・
懐かしく思います・・・(--;)
「中州の石屋さん」ですか、
石屋さんの記憶はありませんが
電電公社の官舎があったのは覚えています。
結構近くにお住まいだったのでは・・・
ウチは銭湯は徳島本町(名前忘れました、
徳島温泉だったかいな・)でしたが、
港湯にも何回か行ったことがあります。
ほんま、懐かしわ。