

白州から戻って見たら、あの山桃 下からバッサリ切られてたんです。この1件では思うとこ、考えるとこがいろいろあって、まだ「自分としての正解」はどうなのか結論が出てません。
カラス公害がひどくなって、数日で、かつ(日頃この公園の美化に協力してるを自負してる)僕が居ない間に「切ってしまった」という事実が僕を重くしてます。
この近所で今回のカラス公害を市の公園課に訴えた住民がいらっしゃるのでしょう。公園課は「これはひどい、切りましょう」と即結論したのでしょうね。僕が一番「?」を感じてるのはここなんです。「結論ありき」じゃなかったろうけど、有無を言わさず「害が出るなら切りましょう」と真っ直ぐに結論する「公」が気持ち悪いのです。議論もしなかったろう。「公園の植栽とは」なんて考えもしない。遊びに来る幼稚園、保育園児の「日陰は」も考えなかった。住民の声の聴衆もやってない。
「事なかれ主義」に走りすぎではなかったか? 「あの木は残してほしい、カラスの害はなんとかしてほしいけど」「あれだけの木 40年や50年はかかってるでしょう」と考える住民だっていたはず。
僕はこっち派です。確かにこの季節一時はカラスが害をもたらすかもしれない。でもこの10日2週間ほどの事、そこだけ我慢すればいいんじゃないか。「害が出るから切捨てろ」は公の思考回路じゃないと思うのです。大袈裟に「民主主義」を持ち出すつもりはないが、結局公は市民の調整をおこたってはいけないのだと想うのです。それと市民も一時の害で日ごろのメリットを見捨てる文化は間違いじゃないかな。
左の写真見てください。奥の木は切り倒してません。枝を強く伐採してます。山桃もこうすべきだった、こうしてほしかった と考えるのです。
思いを発展させて。 「公」が事の判断において「白か黒か」の二分法で考えてはいけないのです。住民の折衷案を作り、みんなが譲り合って生活する状況を作り出すのが「公」です。そういう「公」の基本理念が消滅し、二者択一的に決めて行く世相。道徳観も薄れるし、譲り合いも無くなる。声の大きい方が勝っていくようでは分断の助長です。個が好き勝手をやり出す。危うい方向にいるのと違いますかね。