子育て(3)

2005年07月21日 09時21分27秒 | 国を憂う
子供も育て方(3)                   2005.02.04

 (1)で3歳から6歳時に親の愛と社会性が重要だと言った。(2)ではその後は親の我慢が重要とつづけた。もうひとつ重要な事があったので書く。

 それは「自分の命、他人の命」を考えさせることである。
 自分の命は2人の親、4人の祖父母、8人の曾祖父母、永い先祖の営みの結果として存在してることを理解させることです。その意味で親が親戚付き合いを大事にする姿勢、先祖のお墓を大事にする姿を機会あるごとに見せることでしょう。私は父の兄弟が集まる席(主に毎夏の墓参りだった)にほとんど参加させられた。また母の兄弟が集まる席には物心ついた頃から顔を出してきた。父方では長男の長男として、母方では長女の長男として、どちらも「従兄弟会の長」役をやらされてきたようだし、自ら進んでやってきた。私はそう言う中で自分の命は自分1人のものにあらずを身につけていったように思う。縁者が病で苦しんでいる姿、周りの努力も甲斐なくなくなられた方、そして葬儀への参列。お世話になった方の葬儀は悲しいことだけれども、命の大切さを理解するには最高の機会でもある。
 私事だがこんなことがあった。私の家のお墓は福井県芦原温泉近くの国道沿いの田んぼの中にある。高校生の息子が修学旅行で石川から福井を回って帰ってきた時、「うちのお墓の横を通ったよ」と言った。私は心が暖かくなったし、「この子は大丈夫だ」と確信した。父方の墓参りによく連れていったが、そのことが彼の中に「人の命」を考えさせてきたと理解した。
 こういう経験とその経験の中で「人の命の尊さ」を考えた子は決して人を殺せる人にはならないだろう。    
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子育て(2)

2005年07月21日 09時12分55秒 | 国を憂う
子供の育て方(2)          2005.01.26

 (1)で子育てで大事な時期とその時の親の考え方を書いた。その後はどうすればいいかを書かないと子育てが完結しない。

 私は「小学校以降はなにもしないこと」が子育ての基本だと考えてます。しいて言えば「社会でいろいろ経験し、考え、学んで行くことを応援してやること」と「非社会的行いについてはキチンと注意すること」 この2つでしょう。
 子供は育つ力をもってることを信じてやりましょう。非社会的な人間に成ろうなんて考える子は絶対にいないはずです。非社会的行いについてもその子が考えている時に「それはだめ」と怒ってはいけないのです。そっちの方にちょっと踏み出しても、ギリギリのところまで親は我慢すべきです。経験してやっとわかるという子もいるのですよ。そして注意をすると決めたら話し合いをすることです。怒鳴ったり、暴力はだめです。「僕はこう考えるけど、君はどう思う」と話しかけるのです。
怒らずに、我慢することが親の仕事です。
さて問題は既に非社会的領域にはいってしまった子供に対してですが、その場合は社会的更正機関にお願いするしかないでしょう。それにしても親の考え方を1度でいいからきちんと話してやりましょう。後は「早く直して、帰ってこい」と激励するのです。ここでも親は我慢です。親がこういう姿勢をとり続けていれば、子供はいつかわかります。その時を待てばいいのです。
(高齢になってからかもしれないし、親が死んだ時かもしれないが)

親が持ってる「良し悪し」の判断基準はその人の経験から作られています。個人的なものだし、その時代にあったものでしかないのです。20年後にはそんなもの通用しません。そんな価値観を振り回しても反発されることはあっても納得するはずがありません。
私も我慢できず、思わず手を出したことがあります。ふり返ってみて、そのことがいい結果にはならなかったし、自分の中に「オレは未熟だ」の後悔が常に残ったのを思いだします。  
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子育て(1)

2005年07月21日 09時08分27秒 | 国を憂う
子供の育て方(1)          2005.01.26

 たった3人を育てただけで、生意気なことかもしれないが、最近の世相を見るにつけ、考えないではいられない。
 集団で1人を虐める、ゆすって金をせしめる、性経験の低年齢化、もっと進んで小学生が友達を殺す、こういうふうに凶悪化していく流れと、引きこもる、登校拒否など自分の世界に閉じこもろうとする流れがあるようだ。いずれにせよ「何かによってゆがんだ自己」が表面化してるいるのだろう。
 ゆがませる原因はなんだろうか。子供が生活する社会環境の問題もある。しかしこの点を説明できるほど知識がないので言及しない。
 親の育て方についてちょっと言いたい。
 正確な知識があるわけではないが、私の経験から察するに、子供の自己が形成されるのは3歳から6歳くらいの間だと思う。この期間にきちんと育てれば、後はほっといてもゆがむことはないと確信している。この頃に自己が形成され、根付き、のびる方向が決定される。さらにこの期間には前半と後半があり、前半は親の愛情から学び、後半は幼稚園など社会から学ぶものと思う。前半抜きの後半はなりたたない。しっかりした前半を終了して後半に移るのでなければならない。
 前半では親の愛情を通して、周りが自分を愛してくれてる、自分が生きることを望まれている、自分は生きなければならない という感情、イメージを植え付けるだけでいい。後半では自分が生きるのと同時に周りも生きること、生きるうえで周りとの協調が必要なこと、時には我慢が必要なこと、生きてることに感謝することを教えてやりたい。
 我が子のことをふり返ると、前半期は私達夫婦はもちろん親戚、御近所の方も含めて「かわいい、かわいい」とやったもんだ。スキンシップの時間も多かったと思う。やれる時は私も風呂に入れてやった。土日はできるだけいっしょに遊んでやった。それだけだったように思う。後半期は3人とも同じ幼稚園に行かせた。評判がよかったのでそこに決めたのだが、彼等にとってすばらしい経験をさせてくれた園だった。子供にいい環境、その子にあった環境を探し、与えるのは親の仕事としてだいじなことでもある。
 子供を育てることは決して難しいことではないと思う。要は3歳から6歳の時期にだいじにしてやればいい。食事も与えず、折檻し、さらに殺してしまう。そしてそれを「しつけ」だと言う。「自分達2人の生活に邪魔になった」と言う。そういう親の方に生きる権利がないのです。
 
「親の背中を見て子は育つ」という言葉があったが、今の親に自信をもってこれを言える人がどれだけいるだろうか。だれでも見せたくない部分があるだろう。そこは見せないようにすればいいわけで、なにも完璧を求めてるわけではない。見せない努力も愛情でしょう。

 幼児を持ってる、これから持とうとしている若いご夫婦へ。 
 「力を抜いて、簡単に考えて、がんばってください。」     
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梅雨の大雨と水害

2005年07月05日 09時47分49秒 | 森をとり戻せ
ここ10年ほど毎年のように大雨による土砂崩れ、洪水の被害が発生している。
10年20年前はこんなに頻繁には発生してなかったように思うのだが。
短時間に集中的に降る雨の量が増えたのだろうか。今はそんなことはないと結論しておくが、僕の研究テーマですね。
雨の量に変化がないとすれば、雨に降られた地表側に何らかの変化が起きてると考えるのが妥当ですね。
治水関係者、林業関係者が数年前から唱えてることのコピーですが、やはり「山が荒れている」からと考えるのが一番納得できるわけです。
戦後木材の需要を背景に造林事業が全国の山林で行なわれた。当然植林されたのは建築用材としての杉、檜類です。これらが常緑針葉樹だったことが今日の悲劇の始まりでした。植林後30~40年で切り出し、建築用に出荷しようとの計画でしたが、最近の10数年は外国からの安価な輸入材にその販路を奪われた。売れなければ、金が入らない。金がないから、山林のメンテナンスもやらなくなる。植林された杉、檜はだれも手をかけなくなったのです。
杉花粉が問題になり出した時期と山林の歴史とが附合するでしょう。花粉だけではないのです。もっと深刻な問題を産んできたのです。落ち葉は地中の微生物、みみずなどが分解し、新しい土になります。常緑針葉樹は葉を落としません。だからその林では新しい土はできないのです。もう一つ、年中日があたりませんから下草が生えることがありません。要するに放置された常緑針葉樹林ではその地表がどんどんやせていくのです。そこに雨が来ると、土が流れるのは当然です。生きてた木も根こそぎ流れます。
皆さん、テレビの報道映像をよく観察してください。山が土砂崩れで下の国道、鉄道を押し流した現場で土砂といっしょに流れでた木が何の木か。流れ出るときに表皮を剥かれた白肌のまっすぐな木ですよ。杉、檜に違いありません。崩れた山を見てください。崩れた箇所はほとんどが針葉樹林部ですよ。
今年流れなかった林でも、根元の土は間違いなく流れてます。そしていずれ流れるのです。これが今の日本の山林です。この状況をなんとかしないと、今後ますます土砂災害が増加すると想像するのは簡単でしょう。
僕は「被害が出てから復旧で使う金」と「被害が出る前にメンテナンスに使う金」とを額で比較します。
僕はこういう考え方が一般化するよう努力します。
僕は「こなら」「クヌギ」の苗をたくさん育てます。植林する時が来ると信じて。
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ディープインパクト

2005年07月05日 08時42分22秒 | 国を憂う
7月4日 米国が彗星に銅の塊を打ち込み、宇宙のなぞ、銀河系誕生の秘密を探るべく、実験を行なった。
僕は「科学の勝利」とか「すごい技術」などと単純に賞賛できない、不気味な感じでこの報道を聞いた。
銅塊を打ち込まれる直前の彗星が大写しになったとき、数十年前初めてみた地球の像を思い出した。あの映像では陸と海は認識できたが、そこに生きる50億の人は全く認識できなかった。今回の彗星も何もない、ただの鉱物の塊のように見える。しかし、生物がいないといいきれるのか。いるとしたら、空から悪魔が落ちてきた、この世の終り事件になってるだろう。
地球上の科学者の横暴ではないのか?「科学の進歩のため」と称して、好き勝手をやってるといえないか?自然の摂理を逸脱した行為ではないのか?
かりに、あの彗星には生物は生存せず、迷惑をかける実験ではないとしよう。では今の地球上で今回の実験は必要十分なことだったのだろうか? 必要な実験だったというのはほんの一部のすぐれた科学者だけでしょう。一般の人にとってはどうでもいいこと、つまり、やらなくてもいいことだったはず。
一方時期を同じくして、英国でサミットが開催され、今年のテーマは「アフリカの経済的危機をいかに救済するか」だそうだ。NHKは中部アフリカの悲惨な現状を報道してた。今の我々地球は今回の実験をやれるほど十分に安定してないのだ。
今回の米国の実験報道を見て、一部の大国、科学者の傲慢と横暴を見た僕です。
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