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京都へ納骨

2007年06月07日 10時53分15秒 | 母の死
5日、6日の1泊2日で京都本願寺へ母の納骨に行ってきた。
うちの宗派は浄土真宗のお東 3月にお墓のある福井の寺に納骨して、今回は本山への分納骨でした。両親ともそんなに信心深かったわけではありませんが、「こういうこともしておいたら」と勧められて「やっておこう」となったわけです。人の死の後始末、そこにある宗教的習慣はめんどうなものです。親鸞上人のお墓が東山清水寺の北側にあり(東大谷祖廟)、そこに全国から納骨に来るのです。
93歳の父は歩くことが不自由で、京都まで行こうとなると車でなければ行けません。乗用車をレンタルして、往復1000kmを1人で運転してきました。行きに岡崎で父の弟夫婦を訪ね、京都では父の弟夫婦、妹家族にお世話になり、父にとっては久しぶりの兄弟訪問でもあったわけです。この歳にもなると、1回1回が「これが最後かも」と思うところもあるのでしょうか。
父もさすがに疲れたようでした。でも本山への納骨も済ませ、兄弟にも挨拶ができたことで満足した2日間になったようです。
僕も疲れました。日月は家族旅行、火水で京都往復の4日間でしたからね。日常以外の雑用はまとめてやってしまおうとの考えでこうなったわけです。中身の濃い4日間になりました。
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母の納骨済ませてきました。

2007年04月02日 22時40分11秒 | 母の死
3月31日、4月1日 一泊二日で母の納骨に行ってきました。
僕の両親は北陸福井市の出身で、お墓も芦原温泉の近くにあります。
93歳の父を連れて行くには車しかなく、レンタカーを借りて、7人同乗で往復してきました。

朝5時に出発し、11時に芦原温泉に到着。行きはスムースでしたね。
2時から法要、納骨。母がその人生の前半40年を過ごした土地です。葬儀にはお呼びしなかった方達にもおいでいただき、あたたかく送ってやれました。
6時からは芦原温泉で親戚、関係者との宴席。盛んに昔語りをしていただきました。

さすがに疲れたようで、僕は9時過ぎにはバタンキューでした。

翌日は午前中私用を済ませ、午後1時過ぎに福井を出ました。
帰りはたいへんでした。名古屋近辺で事故渋滞。厚木近辺では事故と花見帰りが重なった超渋滞。御殿場から厚木まで2.5時間ですよ。ただただ疲れました。
運転は娘と交代でやりましたが、運悪く渋滞の区間は僕の担当ということでした。

1月7日の死から始まったあわただしい3ヶ月でしたが、あっというまに過ぎましたね。これで一段落です。
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母と僕のくされ縁

2007年01月14日 23時10分03秒 | 母の死
今回の母の死で僕は母との変な「くされ縁」を強く思います。
2年半前元気だった母が突然「悪性リュウマチ」を発症した時は僕が前の会社を辞めようと決心した時でした。
そして会社を辞めた時はリュウマチが進行し、入退院を繰り返すようになってました。僕は神が与えてくれた「親孝行」の時間と考え、新しい仕事につくのをのばしました。母の状態が安定するまで、そして介護体制ができるまでしばらく母の近くにいようと決心したのです。
そして今回です。昨年1年間続けた仕事をちょうど辞め、次の仕事につく前の充電期間に起きた母の死と葬儀。
ここまでうまく時を狙われては母の意図が働いたと考えてもおかしくないでしょう。
僕はラッキーなのかもしれない。暇な時にこんな機会を与えられたのだから。

もっと遡りましょう。僕が小学校5年からの4年間のことです。それまでは一家4人福井で生活してました。高度成長の時代。父が東京に職を得、母、姉、僕の3人が福井に残りました。いずれ東京に出ると決めながらも子供が中学生になってから転校させるという方針があったようです。もう一つは教職にあった母が一定年数を勤めるという目標もあったようです。理由はともかく、父が東京に出た後すぐに姉が東京に出ます。これが僕が5年生、姉が中2の時でした。それから4年間僕は母と2人で福井で生活したのです。
ようやく子供時期を終了し、大人の入口に入ろうとしてる時期に僕は父の影響を受けることなく、母の価値観の下で育ったのです。良い悪いは別にして、今の僕の性格の基本的な部分はこの時期母からしつけられたものだと以前から思ってきたのです。
ここまでくると、これは「くされ縁」でしょう。もっというと「最後まで母の意図の中で動かされた」のかもしれません。
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香典

2007年01月13日 11時37分04秒 | 母の死
今回の葬儀(しきるのは初体験)では「あくまでも質素に」と考えたので、一般の方からの香典は全てお断りしました。
「香典は御遠慮願います」の掲示を出したのですが、いらっしゃった方の8割強は素直に理解してくれました。この割合は予想以上で自分でもどう理解したらいいのかまだまとまってません。2割弱の方はもってこられましたが、その内の半分の方はお断りするのに苦労しました。返そうとする僕に「これは私の故人に対する気持ち。だめ。」と固辞するのです。苦労はしましたが、1件も頂くことなく済ませました。

さて「香典」ってなんでしょうね。
生前お世話になった故人に対して「お世話になりました。」という気持ちを形にしたものでしょうね。その昔はこの気持ちを「苦役」(葬儀のお手伝い)で表現したのでは。「苦役」部分を葬儀屋が受け持つようになって、何か「物」になったでしょう。その「物」もありあまる時代になって、「金」でしか表しようがなくなった状態が今の香典ではないのか。
当事者側からみると、「ほんとに送ってくれる気持ち」で故人と「昔語り」をしてくれればいいんじゃないだろうか。

今回の葬儀でこんなことも考えました。

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葬儀のかたち

2007年01月12日 23時39分05秒 | 母の死
母の死が事実となった時、葬儀をどうするかを考えた。
実は2年前母がリュウマチを発症した時、僕が前の会社を辞めて暇してた時期でもあり、いざという時のために簡単な計画はしたんです。葬儀屋と話もしました。
そんなこともあり、そんなにあせらなかったですね。その時のメモを見返しながら、時間の流れにあわせて、どう進行するか、進行させるかのイメージはできました。

葬儀のかたちは母の希望、家族の希望がありました。
 ・自宅でやる。
 ・親族だけで静かに送ってやる。
 ・一般の方からの香典等はいただかない。
これが基本でした。

こう決めても、ご近所をまったく無視するのは失礼だろうし、母も(母と)もう一度話しをしたい方がいらっしゃると考えました。通夜まで日にちがあったので、式以外の時間でしたらいつでも来てやってくださいの主旨で門に掲示を出しました。
お見えになった方達と母の前で昔話ができたことは母はもちろん、僕にとっても有意義でした。毎日来てくださる方もあり、あらためて母のしてきたことの大きさを認識しました。
通夜 親族だけで送ってやりました。20人前後と考えてたのですが、思わぬ人まで来ていただき、30人にもなってしまいました。狭いうちがごったがえしてました。にぎやかなことが好きな母にはぴったりかなとも思えました。
告別式 親族10数人で送ってやりました。
夜伽 うちの親族内の習慣だと思いますが、夜伽は酒と花札がつきものです。お線香のお守りをしながら、酒を飲み、花札(福井流)をやるという明るいものなのです。母の母が正月子や孫を集めて、にぎやかにやるのが好きで、我々孫まで花札を教えられたのです。親世代を相手にお年玉を元手にしてかけ勝負をしたのです。そのおばあちゃんが亡くなった時にこの習慣が始まったように記憶してます。今回もその前例を守り、母の前で明るく夜伽をやりました。

うち側のわがままを通した葬儀でしたが、終わってみて、母にふさわしい送り方をしてやれたと思ってます。
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母が亡くなった日

2007年01月12日 00時19分40秒 | 母の死
1月7日の僕、実は山梨に帰ろうとしていたのです。
もう2週間以上も山梨をあけていて心配なのと、海外旅行でぼけた上に、新年でぼけ、怠惰になってる自分を感じだしてました。ホームシックも強くなってきたんですね。11日に新宿で新年会が設定されたこと、母も悪いなりに落ち着いていたので、ここで3日ほど山の様子を見てきたいと朝考えたのです。ただ1つ問題がありました。数日前からの大雪です。友人からのNET情報では積雪20cm、ノーマルタイヤでは無理と言ってきてました。
それでも10時頃家をでました。神奈川は快晴で暖かく、これなら山の融雪も進んで、車入れるだろうと考えながら・・・。

妻から第1報があったのは11時半頃です。まだ中央高速に入る前でした。
「カルピスをあげたら、誤嚥して、苦しそうなの」でした。「先生に診てもらって。だいじょうぶだよ。先生に診てもらったらまた電話して」と返事して、山梨に向かいました。
2報があったのは勝沼のインターを出ようとしてた時でした。「何か変。今までと違う。すぐ帰ってきて」でした。妻の声に普通でない状況を感じ、料金所を出る、ユーターンして、東京方面に入りなおしました。
実は笹子トンネルを抜けてから雪模様に変化し、めざす白州もまた雪が降り出したというニュースは聞いてました。不安を感じながらも、ここまで来たんだから行こうと運転してました。高速を勝沼で降りようか昭和まで行こうかも悩んでました。安く行こうの判断だけで勝沼で降りたのです。まさに料金所にさしかからんとした時の電話でした。
帰りの道でいろんな状況を考えました。「妻の早とちり」から「母の死」まで。相模湖で高速を降りるころには「だめかもしれない」が結論になってました。
でも不思議なことに運転を急ぐことはなかったです。急ぐあまり事故やったらいけない と考えてました。

1時50分ころ病院に着き、母を見た瞬間に状況が理解できました。うろたえることはなかったです。
今振り返れば、医師は家人が「長男が来ますから」と訴えたので、最終宣告をしなかっただけで、母の本当の死は12時過ぎだったと思われます。冷たい母でした。医師と形式的な瞳孔確認をし、心臓が停止してることを説明されて、お決まりの文言を聞かされました。
俺がうろたえてはいけない、まず何をしなければいけないんだ と考える僕がいました。

母が死をもって僕をつれもどしたのかもしれません。あのまま白州に向かっていたら、立ち往生を余儀なくされたかも知れないくらいの大雪でしたからね。
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母が亡くなった。

2007年01月11日 22時23分27秒 | 母の死
1月7日母が亡くなった。享年82歳、死因は「広範囲脳梗塞」だった。
2年半前にリュウマチを発症し、その後誤嚥からくる突発的発熱で入退院を繰返した。
昨年7月の退院時に自宅での介護をあきらめ、療養型の病院に入れた。
この時、母はリュウマチに加え、不整脈(心房細動)、肺の機能不全と消化器系以外に何らかの病を持つ体になっていた。
11月末初めて脳梗塞を発症した。この時はほんとに軽微で、後遺症も残らないほどの初体験だった。ただ医師からは「運がよかったですね。部位が悪いと命とりですよ」と説明があった。ある程度危険を覚悟した。
12月末に2回目を発症した。今回は口にろれつがまわらない後遺症が残った。しかし、1回目同様軽微な発症で済んだ。軽微とはいえ、脳梗塞は発症後1週間から2週間は安静が必要で、病院から出る食事以外を止められた。母は消化器系がしっかりしていて、空腹を覚えると同時に他に楽しみとてないので、「おいしい物が食べたい」をしきりに訴えた。この点は看る側もつらかった。
そんな状態でも年を越せ、あと数日でおいしい物を口にできると思ってた7日の昼に広範囲の脳梗塞を起こし、あっという間に、苦しむこともなく、美しい死に顔で亡くなった。
10日通夜、11日告別式を自宅にて行い、今は白骨となり、自宅に戻っている。

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