

今週は暖かい。11月中旬の暖かさらしい。午前10時の今外気温8℃ある。おかげで年1回の「まじめな」掃除がつらくない。むしろ「よし、ここをこうやって・・・」と張り切るから単純なものだ。
昨日は2階をしっかりやり、1階の高い所も溜まったほこりを払っておしまい。今日は1階をしっかりやる。普段は動かさない物も移動して、ほこりを払い、拭き掃除をやらにゃ。 そうやっても2時間もあれば終わっちゃうから気楽なものだ。
暖かいんだけど、夜は冷えるからストーブは点いてるし(昼も小さい火で火種をキープ)、湯たんぽも今シーズン初めて使ってる。気持のいい「年の瀬」っていうのかな。
今モズが2匹来て、落ち葉の中で餌さがしをしてる。綺麗な鳥だ。想像以上に大きい鳥ですよ。
さて掃除始めっか。

当然僕は何もしてない。一昨日かみさんが1日がかりでここまでやった。
黄色い皮を削って、細かく切る。これが大変な作業みたいだったな。かみさんはブツブツ言ってた。「小さい実だから手間がかかる」だって。そうでしょうね。包丁を上手く使えない僕では無理だと思った。
黄色い皮と中のミカン部分の間にある白いスポンジみたいな部分は削って捨ててるようです。残ったミカン部分はその袋、種も全部細かく切った黄色い皮と一緒に煮てましたね。
昨日親戚の寄り合いがあって、その場で自作の柚ソースを配りたかったようで一昨日は必至でやってました。「何かのために今日しかない」となって動き出すのはかみさんの得意技です。
写真の量でもうちだけじゃ消化できない。今週ご近所に配ると言ってる。それもいいでしょう。それでもまだ半分100個ほどが手つかずで段ボールに入ってる。いつ、何になるのだろう。
2回目の第九も終わってしまった。目標は半分ほどの達成だったかな。やはり第九は興奮して、舞い上がるね。
第一興奮 目の前にお客さんがいて、こっちを見てる。
第二興奮 マエストロが汗してオケ、合唱団をのせようとする。
第三興奮 オケが抑揚つけて美しいメロディーを奏でる。
第四興奮 ベートーベンの精神性が伝わってくる。
第五興奮 隣のおじさんが興奮で頑張りだす。
最終興奮 1~5に負けてられるか で自分が興奮する。
冷静な気分で歌ってほしいなんて作曲者は考えてなかった。「友よ、舞い上がって歌え」が第九の主題では?
公演前のGP(本番同等の最終練習)風景。ここに客がいて、オケは黒づくめで、整然としてる。それが本番時。ご想像を。
第一楽章から登壇し椅子に座って出番を待つスタイルの公演になった。前回の座間は第2楽章の後でソリストと一緒に登壇だったが。
新ホールが小さい故に2,3楽章の間の短時間では100人の入場が不可能 というのが理由じゃないだろうか。おかげでこっちは退屈な、でも緊張感を漂わせながら小一時間じっといしてなきゃいけない。歌う前の大いなる苦痛でした。それに3楽章は「子守歌」みたいに美しい旋律。第九地獄でした。
11時に集合してちょっと声出しをやってからGPに臨ぞんだのだが、この時突然「楽譜はこっちの手でこう持って入場」なんて言い出した。「えっ聞いてないよ」「楽譜は持っても持たなくてもいい」と言ってたじゃないの。僕は自分の楽譜(自分のは座間で仕込まれた時の注意書きいっぱいのもの。今回のはそれともちがってた)さえ持って行かなかった。持ってこなかった人が僕をいれて3人いた。正規の楽譜の表紙だけカラーコピーして、当日のプログラムに貼り付けて持ち込んだ。歌ってる時も「こうもって開いてください」というからプログラムをひらいてた。ぼくの隣の紳士も同じだった。彼はこれから年内にまだ3回歌うらしく、「他では楽譜無しが当たり前ですよ」と言ってた。僕もそう思う。
GPが終わって、ホール前に出てみると今日の客が長蛇の列。ラッキーなことにチケットを買ってくれた知人には1人を除いて皆さんにあえた。励まされながらも、「楽しんでください」とだけ挨拶をしておいた。普段着で「このおっさんだれだい?」という印象与えておいて、舞台を見た時「えっ、あの人さっきの彼?」というこの不連続、段差を演出するのって面白いなと思ってるんです。
そうこうして本番がスタートしたのですが、やはり3楽章までの小一時間は長かったね。やることはベートーベンを聞き込みに行くか、観客観察するかなんです。前者をマジでやってると眠くなる。ついつい後者で暇潰し。真ん中前列から7,8番目の最高席にお座りのご婦人お2人 3楽章ではもう抵抗できなかったのでしょうね。天井見て、口開けて寝てました。これを発見した時は思わず吹き出しそうに。我慢しましたよ。観てたかみさんが「笑ってたでしょう」と僕を観察してた。理由を話すと「合唱団でも寝てる人いたわよ」だって。えっそんな不謹慎なやつがいたの。まずいね。品が下がるじゃないか。
歌い終わって何回かのカーテンコールもやって、お客さんも席を立ちだした。とたんに客席から舞台に向かって、おそらく合唱団員の関係者でしょう、手を振るのですよ。何人もがです。この時は「さすがに田舎の第九」だなと思いました。
田舎であってもこれだけのオケを構成でき、これだけの合唱を作れたという実績と企画できる人がいて、力があるということは証明できた。オケが60人位いたかな。実際今回の主催団体の団員は10名ほどだそうです。要は助っ人の寄せ集めオケだったのですが、ここまではできたことが大きいと思います。合唱団も初めて見る方が数名いらっしゃいました。いいんです、これを続けていって、少しづつ人を増やし、力をつけて行けばいいのですから。やらなきゃ始まらないんです。
疑問も簡単に。 「この近辺、第九をやる団体が多いのですが、今の小さい単位でやっていくのがいいのか、もう少し大きい単位で(合併してということだが)やった方がいいのか」 ここはいろんな議論があるのだろう。
終了後簡単な打上げがあった。ソリストさん、オケの人、合唱団の人 いろいろ話ができた。ここで今回の公演の実態がいろいろ解ったのだが、それゆえにだろうおもしろい話が聞けた。オケのロシア人女性 茅ヶ崎在住、日本は永い。日本語問題なし。ロシアでは第九をほとんどやらない。自分も初めて第九を弾いた。ステキ。自分は第2楽章が気に入ったと感想。今回ロシア人が5人いました。別のオケ助っ人 大学4年生 教授から話をもらった。「行け」でもなく「手伝ってやってくれ」でもない。「こんな演奏場所があるがどうだ」と話しがくるんだそうです。自分たちも学校だけの授業じゃ足りないのが解ってる。だからこういう場を武者修行と思って参加するんだそうです。そこで知り合う人達からたくさん学べるんだそうです。卒業しても演奏で食べていくなんて絶対無理。演奏の指導者(家庭教師みたいな小さいやつ)で食い扶持を得ながら、今回のような武者修行の場を見つけて勉強していく。そんな道を考えてるとのこと。楽器演奏も声楽もたいへんな世界ですね。
帰りの電車でバリトンソロの大槻さんと一緒になった。話してるうちに家が近いらしいということになって驚き。夜道を2人で歩いて、僕の家はこの道の右側奥から2つめだよ。あっ 木の門がある家ですか? うんあそこ。じゃ君の家を確認しておこうとさらに一緒に。彼の家の前まで言って、えっここかよ。やたら近いじゃん。中学はここから? そうです。じゃ鶴中? そうです。 今何歳? 30です。 そうか、うちの子供達も鶴中なんだが、いっしょじゃないんだ。うちの3人が先輩だな。 こんな所帯じみた話まで進んだ2人でした。ほんとに近い。直線距離で150mないですよ。いや~奇遇でした。
今朝朝飯食ってるところに前のマンションのおばさんがやってきて(今日は資源回収日で資源を出しにきたついで)「昨日は良かったわよ。感激しちゃったわ。涙出ちゃってさ」だって。 そんなに感動していただいたんならチケットを売りつけた僕としては嬉しいかぎり。近所にまだ数人のおば様たちにも売ったんだが、どんな感想も持ってくれたのやら。今朝一番にこの感激ならいい話がかえってくるのかな。
これはこれで続けていく努力を関係者にお願いしたい。「来い」と言えば「また参加しますよ」。新春8日に正式の合唱団打上げ会が予定されてる。その場で3/10の公演内容がしらされるとのこと。
ぼくとしては座間でも大和でもいいんです。おもしろそうなプログラムに参加して、新しい歌を覚えたいのです。早く決めないともう歌予定がなくなってるのです。
第一興奮 目の前にお客さんがいて、こっちを見てる。
第二興奮 マエストロが汗してオケ、合唱団をのせようとする。
第三興奮 オケが抑揚つけて美しいメロディーを奏でる。
第四興奮 ベートーベンの精神性が伝わってくる。
第五興奮 隣のおじさんが興奮で頑張りだす。
最終興奮 1~5に負けてられるか で自分が興奮する。
冷静な気分で歌ってほしいなんて作曲者は考えてなかった。「友よ、舞い上がって歌え」が第九の主題では?

公演前のGP(本番同等の最終練習)風景。ここに客がいて、オケは黒づくめで、整然としてる。それが本番時。ご想像を。
第一楽章から登壇し椅子に座って出番を待つスタイルの公演になった。前回の座間は第2楽章の後でソリストと一緒に登壇だったが。
新ホールが小さい故に2,3楽章の間の短時間では100人の入場が不可能 というのが理由じゃないだろうか。おかげでこっちは退屈な、でも緊張感を漂わせながら小一時間じっといしてなきゃいけない。歌う前の大いなる苦痛でした。それに3楽章は「子守歌」みたいに美しい旋律。第九地獄でした。
11時に集合してちょっと声出しをやってからGPに臨ぞんだのだが、この時突然「楽譜はこっちの手でこう持って入場」なんて言い出した。「えっ聞いてないよ」「楽譜は持っても持たなくてもいい」と言ってたじゃないの。僕は自分の楽譜(自分のは座間で仕込まれた時の注意書きいっぱいのもの。今回のはそれともちがってた)さえ持って行かなかった。持ってこなかった人が僕をいれて3人いた。正規の楽譜の表紙だけカラーコピーして、当日のプログラムに貼り付けて持ち込んだ。歌ってる時も「こうもって開いてください」というからプログラムをひらいてた。ぼくの隣の紳士も同じだった。彼はこれから年内にまだ3回歌うらしく、「他では楽譜無しが当たり前ですよ」と言ってた。僕もそう思う。
GPが終わって、ホール前に出てみると今日の客が長蛇の列。ラッキーなことにチケットを買ってくれた知人には1人を除いて皆さんにあえた。励まされながらも、「楽しんでください」とだけ挨拶をしておいた。普段着で「このおっさんだれだい?」という印象与えておいて、舞台を見た時「えっ、あの人さっきの彼?」というこの不連続、段差を演出するのって面白いなと思ってるんです。
そうこうして本番がスタートしたのですが、やはり3楽章までの小一時間は長かったね。やることはベートーベンを聞き込みに行くか、観客観察するかなんです。前者をマジでやってると眠くなる。ついつい後者で暇潰し。真ん中前列から7,8番目の最高席にお座りのご婦人お2人 3楽章ではもう抵抗できなかったのでしょうね。天井見て、口開けて寝てました。これを発見した時は思わず吹き出しそうに。我慢しましたよ。観てたかみさんが「笑ってたでしょう」と僕を観察してた。理由を話すと「合唱団でも寝てる人いたわよ」だって。えっそんな不謹慎なやつがいたの。まずいね。品が下がるじゃないか。
歌い終わって何回かのカーテンコールもやって、お客さんも席を立ちだした。とたんに客席から舞台に向かって、おそらく合唱団員の関係者でしょう、手を振るのですよ。何人もがです。この時は「さすがに田舎の第九」だなと思いました。
田舎であってもこれだけのオケを構成でき、これだけの合唱を作れたという実績と企画できる人がいて、力があるということは証明できた。オケが60人位いたかな。実際今回の主催団体の団員は10名ほどだそうです。要は助っ人の寄せ集めオケだったのですが、ここまではできたことが大きいと思います。合唱団も初めて見る方が数名いらっしゃいました。いいんです、これを続けていって、少しづつ人を増やし、力をつけて行けばいいのですから。やらなきゃ始まらないんです。
疑問も簡単に。 「この近辺、第九をやる団体が多いのですが、今の小さい単位でやっていくのがいいのか、もう少し大きい単位で(合併してということだが)やった方がいいのか」 ここはいろんな議論があるのだろう。
終了後簡単な打上げがあった。ソリストさん、オケの人、合唱団の人 いろいろ話ができた。ここで今回の公演の実態がいろいろ解ったのだが、それゆえにだろうおもしろい話が聞けた。オケのロシア人女性 茅ヶ崎在住、日本は永い。日本語問題なし。ロシアでは第九をほとんどやらない。自分も初めて第九を弾いた。ステキ。自分は第2楽章が気に入ったと感想。今回ロシア人が5人いました。別のオケ助っ人 大学4年生 教授から話をもらった。「行け」でもなく「手伝ってやってくれ」でもない。「こんな演奏場所があるがどうだ」と話しがくるんだそうです。自分たちも学校だけの授業じゃ足りないのが解ってる。だからこういう場を武者修行と思って参加するんだそうです。そこで知り合う人達からたくさん学べるんだそうです。卒業しても演奏で食べていくなんて絶対無理。演奏の指導者(家庭教師みたいな小さいやつ)で食い扶持を得ながら、今回のような武者修行の場を見つけて勉強していく。そんな道を考えてるとのこと。楽器演奏も声楽もたいへんな世界ですね。
帰りの電車でバリトンソロの大槻さんと一緒になった。話してるうちに家が近いらしいということになって驚き。夜道を2人で歩いて、僕の家はこの道の右側奥から2つめだよ。あっ 木の門がある家ですか? うんあそこ。じゃ君の家を確認しておこうとさらに一緒に。彼の家の前まで言って、えっここかよ。やたら近いじゃん。中学はここから? そうです。じゃ鶴中? そうです。 今何歳? 30です。 そうか、うちの子供達も鶴中なんだが、いっしょじゃないんだ。うちの3人が先輩だな。 こんな所帯じみた話まで進んだ2人でした。ほんとに近い。直線距離で150mないですよ。いや~奇遇でした。
今朝朝飯食ってるところに前のマンションのおばさんがやってきて(今日は資源回収日で資源を出しにきたついで)「昨日は良かったわよ。感激しちゃったわ。涙出ちゃってさ」だって。 そんなに感動していただいたんならチケットを売りつけた僕としては嬉しいかぎり。近所にまだ数人のおば様たちにも売ったんだが、どんな感想も持ってくれたのやら。今朝一番にこの感激ならいい話がかえってくるのかな。
これはこれで続けていく努力を関係者にお願いしたい。「来い」と言えば「また参加しますよ」。新春8日に正式の合唱団打上げ会が予定されてる。その場で3/10の公演内容がしらされるとのこと。
ぼくとしては座間でも大和でもいいんです。おもしろそうなプログラムに参加して、新しい歌を覚えたいのです。早く決めないともう歌予定がなくなってるのです。
さてさて 本番の朝だ。
3年前に初めて歌った朝はもうちょっと緊張感があったように思うのだが、今日はぜんぜん無し。「練習以上に歌えるわけなし、練習以下の歌になるわけなし」が人生訓。それとここ数年舞台に立って演技もやってきたから人前に立つことに対する緊張感みたいなのはなくなってる。うれしいことだが、ズボラになることは警戒しないとと思う。自分の性格の中にそんなところがあるのは解ってる。
今日もいつものように朝散歩に行ってきた。第4楽章の最後のおさらいをしながら。やはり元気出てくるな。
舞台上でエネルギーを感じる事、感じたエネルギーを観客に伝える事 を考えながら歌おう。
もうひとつ、興奮してがなるんじゃなく、口の中を大きく開けて響くバリトンで歌うことを心がけよう。
冷静に合唱したい。
3年前に初めて歌った朝はもうちょっと緊張感があったように思うのだが、今日はぜんぜん無し。「練習以上に歌えるわけなし、練習以下の歌になるわけなし」が人生訓。それとここ数年舞台に立って演技もやってきたから人前に立つことに対する緊張感みたいなのはなくなってる。うれしいことだが、ズボラになることは警戒しないとと思う。自分の性格の中にそんなところがあるのは解ってる。
今日もいつものように朝散歩に行ってきた。第4楽章の最後のおさらいをしながら。やはり元気出てくるな。
舞台上でエネルギーを感じる事、感じたエネルギーを観客に伝える事 を考えながら歌おう。
もうひとつ、興奮してがなるんじゃなく、口の中を大きく開けて響くバリトンで歌うことを心がけよう。
冷静に合唱したい。
昨日の朝日の朝刊
「放射性廃棄物のドラム缶 雑然」と題して恐ろしい事実を報道してる。僕は知らなかった。
2年前に廃止が決まり、解体作業が進められてる茨城県にある『東海再処理施設』の状況だ。この施設は発電施設ではない。「使用済み燃料再処理工場」で、例の使用済み燃料からプルトニウムを取り出し、将来高速増殖炉で燃料として使うための処理をする工場だ。1981年から稼働し、原発10基分の1140トンの燃料を処理してきた実績がある。小さいながらも事故も起こしてるらしい。運営主体はあの「もんじゅ」と同じ「日本原子力研究開発機構」だそうだ。
当然処理後に放射性廃棄物が出てきたが、この管理がなんともずさんなものだと報告してる。廃棄物(主に燃料を棒状にしてた被覆管らしいが)はドラム缶に入れて大きいプールで水の中に沈められてる。このプールに収納したやり方はワイヤに吊ってプールの上に運び、ワイヤを切って沈めたんだそうです。当然整然とは積まれてないですね。ドラム缶の変形もあるでしょうね。そんなドラム缶が800個沈んでるようです。水面の放射線量は「一般的年間被爆限度の3倍を1時間で浴びる量」だったらしいです。
しかもです、この施設にはこのドラム缶を取り出す設備が無いそうです。入れる時に投げ捨てる手しかなかったんだから、ある訳ないですよね。
どうやってドラム缶を取り出すのかは決まってないらしいですよ。
このプール以外にも「高レベル放射性廃液400立方メートル」「ガラス個化体250本」「アスファルト固化体 ドラム缶3万本」などがあるそうです。プールの管理レベルから推測するにこれらも素晴らしく(?)管理され、アンダーコントロールなのでしょう。
さらにさらに、万にひとつこれらか安全に運び出せ、安全な形に処理できたとして、それを持って行く場所は今はないのです。「地下300mより深いところに10万年埋める」ってあの話ですよ。
これはこれで実に怖い話です。今プールの中でドラム缶に穴が開いたらどうするんだろう? 穴が開く前にチェルノ同様「怪物のような石棺」で覆うってことになるのかな。
この事実から一般論へ。 たかだか50年60年前なのにこんなずさんきわまりない決断をして進めてきたのが原発政策だったということ。類似の問題はごろごろしてるんじゃないですか。見えてないだけ、見せないようにしてるだけ。
「人間はおろか」だということを肝に銘ずる事実だと思います。
「放射性廃棄物のドラム缶 雑然」と題して恐ろしい事実を報道してる。僕は知らなかった。
2年前に廃止が決まり、解体作業が進められてる茨城県にある『東海再処理施設』の状況だ。この施設は発電施設ではない。「使用済み燃料再処理工場」で、例の使用済み燃料からプルトニウムを取り出し、将来高速増殖炉で燃料として使うための処理をする工場だ。1981年から稼働し、原発10基分の1140トンの燃料を処理してきた実績がある。小さいながらも事故も起こしてるらしい。運営主体はあの「もんじゅ」と同じ「日本原子力研究開発機構」だそうだ。
当然処理後に放射性廃棄物が出てきたが、この管理がなんともずさんなものだと報告してる。廃棄物(主に燃料を棒状にしてた被覆管らしいが)はドラム缶に入れて大きいプールで水の中に沈められてる。このプールに収納したやり方はワイヤに吊ってプールの上に運び、ワイヤを切って沈めたんだそうです。当然整然とは積まれてないですね。ドラム缶の変形もあるでしょうね。そんなドラム缶が800個沈んでるようです。水面の放射線量は「一般的年間被爆限度の3倍を1時間で浴びる量」だったらしいです。
しかもです、この施設にはこのドラム缶を取り出す設備が無いそうです。入れる時に投げ捨てる手しかなかったんだから、ある訳ないですよね。
どうやってドラム缶を取り出すのかは決まってないらしいですよ。
このプール以外にも「高レベル放射性廃液400立方メートル」「ガラス個化体250本」「アスファルト固化体 ドラム缶3万本」などがあるそうです。プールの管理レベルから推測するにこれらも素晴らしく(?)管理され、アンダーコントロールなのでしょう。
さらにさらに、万にひとつこれらか安全に運び出せ、安全な形に処理できたとして、それを持って行く場所は今はないのです。「地下300mより深いところに10万年埋める」ってあの話ですよ。
これはこれで実に怖い話です。今プールの中でドラム缶に穴が開いたらどうするんだろう? 穴が開く前にチェルノ同様「怪物のような石棺」で覆うってことになるのかな。
この事実から一般論へ。 たかだか50年60年前なのにこんなずさんきわまりない決断をして進めてきたのが原発政策だったということ。類似の問題はごろごろしてるんじゃないですか。見えてないだけ、見せないようにしてるだけ。
「人間はおろか」だということを肝に銘ずる事実だと思います。
いつからそれが始まったのかなんて定義できるものではない。あれなんかその具体的な事象だなと思い出せるのは「英国のEU離脱」「米国のトランプ当選」。「とんでもない状況だ」「これから世の中どうなるんだ」と悲観的な評論もある。確かに「驚くに値する」結果と見た。(さらに思いだしたので追記。あの「9.11」も同じ事象だろう)
ただ冷静に考えてみよう。僕は単に「これまで社会がある状況がいいとしてその状況に急ぎ過ぎた、行き過ぎた」ことに対する揺り戻しだと考えてます。おそらく目指した方向は間違ってはいないんです。でも今生きてる人間には消化できないところまで行き過ぎちゃった。だからちょっと戻そうとする力が大きくなって、それをいわゆる「ポピュリズム」とか「排他主義」とかいかにも悲惨な世界に向かってるかのような表現がされてるんだと解釈してます。
EUも将来の共同社会への膨大な社会実験なのです。EUの指導者達にはごく普通の、想定内の社会変化なんだろうけど、一般人にとっては着いて行けない変化にまでなってた。米国も「グローバル化」がベスト解として、その他を全否定してやってきた。が、ふっと足元を見たら国内産業が相当傷んできてた。その点では日本のTPPもそんな領域の話なのかもしれない。「時期尚早」「10年早い」みたいな意味で。
ちょっと抽象的な話だが、こんなグラフを想像してください。右肩上がりの直線が有ります。右肩上がりとしたのはそれが何となく「成長」だの「進歩」を連想させるからです。人間社会(文化)の成長ってこの線のように真っすぐに進むものではなく、この線の上に下に振れながら進行するというのが僕の持論です。「成長させるが故の行き過ぎ、誤り」を調整する力が社会には備わっていて、それが働いた結果として上下に振動するんだと考えてます。
ここ数年世界中で見る現象はそろそろ逆向きの力が必要な転換点にさしかかったことの証だと見てます。では今転換を迫られてる「あゆみ」はいつ頃からのものか? 僕は第二次大戦後がそのスタートだと考えます。もう一度書いて置きます。「そこにある価値観が間違ってるんじゃない。負けたのでもありません。このあたりで一度整理をして、すっきりさせて再スタートしては」なんです。 こうなるのが必然なのです。
「トランプさんが何しだすか大変不安だ」という見方もあるでしょう。僕は心配してません。戦後70年で人間が作り上げてきた(間違ってるところも多々あるが)システムはそんな「軟」なものじゃないと見てます。人間1人がでっぱって変えられるものではなくなってますよ。やってごらんなさい。やった本人が排斥される位には堅固ですよ。そういう堅固さがあるからなかなか変化できないとも言えるのでしょうが。
むしろ「トランプ効果」を考えてます。70年続けてきた中で無理してきたところ、隠してきた汚いところ、正当化してきた矛盾 そんな沈殿物を世の中ひっかきまわすことでもう一度浮遊させ、美しく見せてきた水を真の濁り水として見える化してくれると期待してるのです。
ある期間不安定にはなります。でも通らなきゃならん道なんです。それはこれまで70年歩んできた道の反動なんですから。この道の先に今までより面白くて楽しい世界があると信じましょう。
ただ冷静に考えてみよう。僕は単に「これまで社会がある状況がいいとしてその状況に急ぎ過ぎた、行き過ぎた」ことに対する揺り戻しだと考えてます。おそらく目指した方向は間違ってはいないんです。でも今生きてる人間には消化できないところまで行き過ぎちゃった。だからちょっと戻そうとする力が大きくなって、それをいわゆる「ポピュリズム」とか「排他主義」とかいかにも悲惨な世界に向かってるかのような表現がされてるんだと解釈してます。
EUも将来の共同社会への膨大な社会実験なのです。EUの指導者達にはごく普通の、想定内の社会変化なんだろうけど、一般人にとっては着いて行けない変化にまでなってた。米国も「グローバル化」がベスト解として、その他を全否定してやってきた。が、ふっと足元を見たら国内産業が相当傷んできてた。その点では日本のTPPもそんな領域の話なのかもしれない。「時期尚早」「10年早い」みたいな意味で。
ちょっと抽象的な話だが、こんなグラフを想像してください。右肩上がりの直線が有ります。右肩上がりとしたのはそれが何となく「成長」だの「進歩」を連想させるからです。人間社会(文化)の成長ってこの線のように真っすぐに進むものではなく、この線の上に下に振れながら進行するというのが僕の持論です。「成長させるが故の行き過ぎ、誤り」を調整する力が社会には備わっていて、それが働いた結果として上下に振動するんだと考えてます。
ここ数年世界中で見る現象はそろそろ逆向きの力が必要な転換点にさしかかったことの証だと見てます。では今転換を迫られてる「あゆみ」はいつ頃からのものか? 僕は第二次大戦後がそのスタートだと考えます。もう一度書いて置きます。「そこにある価値観が間違ってるんじゃない。負けたのでもありません。このあたりで一度整理をして、すっきりさせて再スタートしては」なんです。 こうなるのが必然なのです。
「トランプさんが何しだすか大変不安だ」という見方もあるでしょう。僕は心配してません。戦後70年で人間が作り上げてきた(間違ってるところも多々あるが)システムはそんな「軟」なものじゃないと見てます。人間1人がでっぱって変えられるものではなくなってますよ。やってごらんなさい。やった本人が排斥される位には堅固ですよ。そういう堅固さがあるからなかなか変化できないとも言えるのでしょうが。
むしろ「トランプ効果」を考えてます。70年続けてきた中で無理してきたところ、隠してきた汚いところ、正当化してきた矛盾 そんな沈殿物を世の中ひっかきまわすことでもう一度浮遊させ、美しく見せてきた水を真の濁り水として見える化してくれると期待してるのです。
ある期間不安定にはなります。でも通らなきゃならん道なんです。それはこれまで70年歩んできた道の反動なんですから。この道の先に今までより面白くて楽しい世界があると信じましょう。
税制の審議の中で「配偶者控除」がとりざたされた。結局「平成30年1月から配偶者の年収が103万円を150万に引き上げようか」で審議は終わったようだ。
「実に中途半端な議論、仮の結論」だと思えてしょうがない。
「もっと働きたい妻が103万で働くのを止める。これでは今の、将来の社会に整合しないのでは」という問題意識で議論が始まったと記憶するが、それを「150万にすればいいじゃん」が回答? 103万が問題なら150万だってすぐ問題になるのが見え見えじゃないですか。
もっと本質論で議論してもらわないと国民にはしっくりこないだろうし、議論に注目する動機もわいてこないというものだ。(それが現為政者の狙いなんだろうけど)
そこで僕の考えをまとめ、読んでもらうのもいいかなとこの記事を書きだした。
ぼくの結論は「配偶者控除はもう辞めましょう」です。
何らかで稼いで生活する。生活上で経費ってあるよねで「基礎控除」がある。高齢者、障害者を扶養するので「扶養控除」がある。配偶者がいなくて子供を育てる人には「寡婦・寡夫控除」がある。
では「配偶者控除」は? 「妻の家事も負担(経費)でしょう」となって始まった控除なんでしょう。「夫は社会に出て稼ぐ、妻は家庭をきりもりする」という一昔前の社会ではそれなりの効果、価値があったものと否定はしない。しかし世の中変わりましたよ。「妻だって働きたいわ、キャリア身に着けたいわ。子育てだって夫婦共同で。」となれば「配偶者控除」の存在理由が不明確になってきてる。不明確になった制度を残すのは全体をいびつにするのは常。ここを考えないとこの問題は解決しないはず。
今別途必要な控除概念は「子供を育ててる」ことに対する控除ではないだろうか。子供を産み、育ててる夫婦は社会貢献大であるにもかかわらず、そこを社会的評価してないのではないか。
配偶者控除を止めて増える税金を「育児控除」にまわしてはどうかと考えてるのです。
(追記) 本文でうまく織り込めなかったので。
「主婦の家事を負担(経費)」と考えたスタートが間違ってたと思うのです。
どんな形式であれ万民 家事無しでは生きられない。人間が生きる以上家事付きのはず。
夫婦で生きても、2人分をどう折半してやりくってるかでしょう。
となると、家事は万民共通の負担。
それを主婦においてのみ経費とみなしたこと、かつ多く稼いだら「経費が減った」としたことが
そもそもの誤りだったと思うのです。
「実に中途半端な議論、仮の結論」だと思えてしょうがない。
「もっと働きたい妻が103万で働くのを止める。これでは今の、将来の社会に整合しないのでは」という問題意識で議論が始まったと記憶するが、それを「150万にすればいいじゃん」が回答? 103万が問題なら150万だってすぐ問題になるのが見え見えじゃないですか。
もっと本質論で議論してもらわないと国民にはしっくりこないだろうし、議論に注目する動機もわいてこないというものだ。(それが現為政者の狙いなんだろうけど)
そこで僕の考えをまとめ、読んでもらうのもいいかなとこの記事を書きだした。
ぼくの結論は「配偶者控除はもう辞めましょう」です。
何らかで稼いで生活する。生活上で経費ってあるよねで「基礎控除」がある。高齢者、障害者を扶養するので「扶養控除」がある。配偶者がいなくて子供を育てる人には「寡婦・寡夫控除」がある。
では「配偶者控除」は? 「妻の家事も負担(経費)でしょう」となって始まった控除なんでしょう。「夫は社会に出て稼ぐ、妻は家庭をきりもりする」という一昔前の社会ではそれなりの効果、価値があったものと否定はしない。しかし世の中変わりましたよ。「妻だって働きたいわ、キャリア身に着けたいわ。子育てだって夫婦共同で。」となれば「配偶者控除」の存在理由が不明確になってきてる。不明確になった制度を残すのは全体をいびつにするのは常。ここを考えないとこの問題は解決しないはず。
今別途必要な控除概念は「子供を育ててる」ことに対する控除ではないだろうか。子供を産み、育ててる夫婦は社会貢献大であるにもかかわらず、そこを社会的評価してないのではないか。
配偶者控除を止めて増える税金を「育児控除」にまわしてはどうかと考えてるのです。
(追記) 本文でうまく織り込めなかったので。
「主婦の家事を負担(経費)」と考えたスタートが間違ってたと思うのです。
どんな形式であれ万民 家事無しでは生きられない。人間が生きる以上家事付きのはず。
夫婦で生きても、2人分をどう折半してやりくってるかでしょう。
となると、家事は万民共通の負担。
それを主婦においてのみ経費とみなしたこと、かつ多く稼いだら「経費が減った」としたことが
そもそもの誤りだったと思うのです。
「高速増殖炉」の研究を続けると政府は決めたらしい。これには「反対」の声をあげよう。
国民をバカにしてる方針と言わざるを得ない。
20年も30年も無理やりひっぱってきて、もうひっぱりきれないとなって辞めた「もんじゅ」だったんじゃないの。
しかも「もんじゅ」は原型炉、次は一歩進めて「実証炉」へと進めるらしい。解らん。
( 「実験炉」 → 「原型炉」 → 「実証炉」 → 「実用炉」 )
原型炉で何を研究して、何が解ったのか? 20年運転もせず、ただただ維持費用だけ無駄遣いした炉だったのでしょう?
原発を運用する以上、そこから出てくる「使用済核燃料」をどうするのかが大きくて、未解決の問題。今は「使用済核燃料」からプルトニウムを取り出してそれを「高速増殖炉」(?)で燃してさらに発電する。そうすることで放射性廃棄物を減らすんだと定義してる。「高速増殖炉」無しでは原発燃料サイクルが回らないのが日本の原発政策。(これで放射性廃棄物の問題が全て解決するはずはないだろうが)
これまでに一般原子炉から出てきた「使用済核燃料」を再処理(国内設備または海外に委託して)し、プルトニウムを48トン、原子爆弾6000発分をすでに保有してる状態だ。「高速増殖炉」をあきらめたとは言えないのだろう。
だからといって、今度の方針を「良し」とはできない。まだまだ無駄金を注込む気ですか。そんな金どこから出すの?
ちょっと考えよ。今まで「もんじゅ」で使った無駄金はたしてどこから出てたの? その一部は我々の電気料金に化けて負担させられてたはず。どさくさまぎれの中で20年も膨大な無駄を我々は負担してきたのですよ。
もう辞めよう、こんな無駄。
100歩譲るとして、「何年までにここまでの成果が出なかったら中止する」の厳しい条件を明確にして始めるべきだ。
世耕、茂木この2人嫌いだな。言葉を「操り」過ぎる。それとどこに目線があるんだ? 上のA君だけ見てるんだろう?
国民をバカにしてる方針と言わざるを得ない。
20年も30年も無理やりひっぱってきて、もうひっぱりきれないとなって辞めた「もんじゅ」だったんじゃないの。
しかも「もんじゅ」は原型炉、次は一歩進めて「実証炉」へと進めるらしい。解らん。
( 「実験炉」 → 「原型炉」 → 「実証炉」 → 「実用炉」 )
原型炉で何を研究して、何が解ったのか? 20年運転もせず、ただただ維持費用だけ無駄遣いした炉だったのでしょう?
原発を運用する以上、そこから出てくる「使用済核燃料」をどうするのかが大きくて、未解決の問題。今は「使用済核燃料」からプルトニウムを取り出してそれを「高速増殖炉」(?)で燃してさらに発電する。そうすることで放射性廃棄物を減らすんだと定義してる。「高速増殖炉」無しでは原発燃料サイクルが回らないのが日本の原発政策。(これで放射性廃棄物の問題が全て解決するはずはないだろうが)
これまでに一般原子炉から出てきた「使用済核燃料」を再処理(国内設備または海外に委託して)し、プルトニウムを48トン、原子爆弾6000発分をすでに保有してる状態だ。「高速増殖炉」をあきらめたとは言えないのだろう。
だからといって、今度の方針を「良し」とはできない。まだまだ無駄金を注込む気ですか。そんな金どこから出すの?
ちょっと考えよ。今まで「もんじゅ」で使った無駄金はたしてどこから出てたの? その一部は我々の電気料金に化けて負担させられてたはず。どさくさまぎれの中で20年も膨大な無駄を我々は負担してきたのですよ。
もう辞めよう、こんな無駄。
100歩譲るとして、「何年までにここまでの成果が出なかったら中止する」の厳しい条件を明確にして始めるべきだ。
世耕、茂木この2人嫌いだな。言葉を「操り」過ぎる。それとどこに目線があるんだ? 上のA君だけ見てるんだろう?