goo blog サービス終了のお知らせ 

療養型で安定、でも右下がり

2006年11月04日 22時24分09秒 | 母の介護
7月に急性型から療養型に転院して4ヶ月が過ぎた。
やはり病院のせいか、病状が急変することは1度もなく、安定した生活を送ってます。
2週間に1回だが、神奈川に戻ってくると顔を見に行きます。2週間に1回だから、母の長いスパンでの変化が姉や妻より見えるように思います。大きな波は来ないのですが、僕の眼には肉体的にも精神的にも右下がりのように見えます。いえいえそんな急変ではないです。姉や妻にはわからん程度です。
今日あって来ました。だまって病室に入っても、「あらっ兄ちゃん。ありがとう。」とまずかえってきます。これを聞くとほっとします。
表の散歩(母は車椅子)も行けました。初対面の反応もありました。元気な母でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母 退院と新入院

2006年07月11日 07時48分07秒 | 母の介護
母が「療養型病院」に入院した。
今の病院には2種あって、患者によって使いわける仕組みになってるようだ。
ひとつは「急性期対応の病院」で短期間で病気を治し、健康を回復する目的の病院。もうひとつは「療養型の病院」で、あるレベルの病気を持ってることが定常状態の患者を預かり、介護というより、病気のケアを主目的で入院する病院。「養護老人施設」には病気ケアの機能がないので、病院ではないのですね。
母はこれまで家で療養、症状の悪化で急性期病院に入院を繰り返してきた。面倒を看てきた姉も「また発熱して、救急車で入院」という繰り返しに疲れてもきたようだ。主治医からも「家で看るのはもう難しいかな」と指導され、今回の新入院に踏み切った。これで母は家に戻ってくることはないのだろう。療養型病院と急性期病院を往復することになるのだろう。
新入院を始めたばかり、いい点、悪い点いろいろ出てくるだろう。今のうちの環境ではいい選択だったと考えてる。みんなががんばって、みんなが譲歩しないとうまくいかないのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の母

2006年04月12日 10時37分36秒 | 母の介護
今はまた入院してます。今年にはいって、退院-入院-退院-入院と変遷してきた。通算日数は病院が9割だろう。最新の退院から入院までの自宅滞在日数は1週間。
 悪性リュウマチが体を少しづつ傷めてることはあっても、これが入退院の原因ではないのです。母はのどの機能(空気を吸った時は気管へ、食物が来た時は食道へと仕分ける機能)が著しく低下してるのです。食物、水を誤って気管、肺に入れてしまうのです(医学用語で「誤嚥」)。それが炎症をおこし、急な発熱で周りは何もできなくなり、病院に連れて行くことになるのです。病院では炎症を抑えるために点滴と酸素だけの生活を2週間位続けて、炎症値が下がると退院します。
 これを避けるために、医者は「いろう」処置を薦めます。胸から食堂に管を通し、食物は全てここから胃に入れる。こうすれば、誤嚥はなくなります。ただ「口で物を食する」ことはしなくなります。
 半年前にこれを薦められたけど、「かわいそう」の感情だけで拒否しました。事態がここまで来ると、もう1度家族で考えようとなりました。
 母にもすこしは我慢してくれるよう頼まなければなりません。介護する人、介護される人の共倒れだけは避けなければなりません。
 僕が「非情」になることも必要と考えるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母を映画に

2006年01月29日 07時15分39秒 | 母の介護
「三丁目の夕日」を見た話を前回載せました。実は翌日また見たのです。
あの日夕食を父母、姉、私達夫婦の5人でいっしょしました。そこで見てきた映画の話になり、「行こうか」となり、僕も「母に見せてやりたい。山梨に戻るのが半日遅れてもいいか」と決めたのです。
翌日朝一番で「最後のハローワーク」に出頭し、10:50開始に間に合わせました。
切符売り場で母が車椅子のまま見るのか、一般席でみるのかを聞かれ、何年ぶりかの映画を見るのに見にくい場所はないでしょう。僕が抱っこして運べばいいので、最後列の真ん中の席をお願いしました。
母と姉は1枚のタオルをやりとりして、目をふいてました。2人で「よかった。いい映画があったらまた連れてきて」と言ったのには大満足でした。
私は昨日の今日です。次に来る涙場面を予測して涙がフライングです。
父は「泣くことなんかなかったよ」でした。
92歳ではしょうがないのかもしれないけど、泣けない父はちょっとショックでした。実はあれから10日たった今も「泣けない父」の92年間を考えてます。
少年時代に周りから受ける「愛」の薄かったことが父の不幸の始まりではないか。回りにほどこす「愛」を理解できず、ほどこし方も解からず人生を過ごす。ほどこした「愛」を解かってくれない人には「ほどこしてあげよう」との気持ちもなくなっていく。
母の60数年の苦労も見えるような気がする。
今回の映画を通して、母をもっと大事にしてあげようと思うようになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の回復(2) 体調が良くなって入院

2005年12月03日 09時22分37秒 | 母の介護
先日定期通院で母が主治医のところに行った。
最近再開した書道で「有難う」と書き、それを主治医へのお土産だと言って、持って行った。先生はたいへん喜ばれ、その場で写真を撮るはで、たいへん喜ばれたようだ。
その時こう言われた。
・おかあさんが今度ここに入院してくるときは、もっと悪くなって戻ってくると想像してた。
・ここまで元気になり、やる気もあるんだったら、入院して、リハビリやろう。

僕はおもしろいと思う。病院って「悪くなって入るところ」としか考えてなかった。でも「良くなったから入院する」ケースもあるんですね。4週間の入院だそうです。

うれしいことで、家じゅうが「やらせよう。やるよね。がんばれ、がんばれ。」ですが、急に言われるとたいへんなこともあるんです。
いつから入院と決まっていないのですが、急に明後日からおいでといわれることを予想して、お願いしてる介護支援の日程調整、やっと慣れたデイサービスのキャンセル、姉、私、私の妻の予定調整等々。特に今回は16日に家じゅうで温泉(1泊2日、民営介護施設)に行く計画がしてありました。それをキャンセルしたりと。
でもこんな仕事もうれしい気持ちでパキパキとかたずけました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の回復

2005年11月27日 16時23分45秒 | 母の介護
母が発病して1年が経つ。半年は入退院を繰り返していた。夜中の発熱、不整脈、救急車、朝まで点滴を受けて帰ってくるケース、そのまま入院したケース、いろいろあった。6月17日の退院以降、決められた通院以外病院には行っていない。
6月の退院の時、病院から「胃ろう処置(胃に管を通し、食物をそこから入れる)をしたうえで、専門医院に移し、介護する方法も選択肢です」とまで言われた。それには姉が強く反対し、「家で看るから、このまま帰したい」旨を伝えた。
その母が担当の先生はじめ、介護事務所の担当の方も驚くほどの回復をしてきた。要介護度は今最高の5ですが、先日の再認定では4か、さらに3に落ちるでしょうと言われてる。ここまで回復した母にはびっくりするだけだ。
姉が24時間つきっきりの介護を続けてくれたことが一番大きいことだったと思う。でももうひとつ母自身が病気を受入れられたことも大きかったと思う。
母は人並みはずれた「強い女」です。終戦の時、北朝鮮からの引揚げ経験を持ってます。その時、乳飲み子の長男と死に別れ、病弱の父を引き連れ、自分は丸坊主になって男装して帰還してきました。その後無一文から今の家庭を築いてきた人生です。
不治の病を宣告された時「なんで私がこんな病気にさせられなきゃならんの?」と捉え、半年パニックしてたようです。「あきらめ」られなかったのです。何かに向かって「恨んで」いたようです。その精神的不安定が肉体的不安定に繋がっていたのです。
姉の献身的介護を受ける中で徐々に「あきらめる」ことができるようになっていったのでしょう。あきらめられれば、後は「強さ」がプラスに効いてきます。「じゃ、分かった。直らないならこの体のままどうしたら楽しめるか」と考えるようになったのでしょう。寝たまま体の各部を動かすことから始め、ベットから車椅子に自分で移ることをやりだし、ベット横のトイレに一人で移り、用を足すまでになってます。デイサービスにも積極的に行き、そこで教わる「墨絵」に興味をもって臨んでます。家で練習するようにもなってます。
肉体的病を患っても精神的に弱くならなければ大丈夫。精神的に弱くなったら、病もますます進み、直るものも直らなくなるものでしょう。そして、精神的に弱くしない方法は「周りの人の見守る心」なのでしょうね。世の中の全部がとは言いませんが、周りの人の対応の仕方でもっと健康になれる病人、老人は多くいるのでしょう。
この母の回復に僕も裏でささえられたと自負する気持ちが少しあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の母

2005年09月06日 22時00分49秒 | 母の介護
ここ1ヶ月で大変元気になり喜んでます。「喜ぶ」を通りこして「驚いて」ます。
6月退院の際に主治医から言われた今後の悲惨な状況、家で介護をはじめてた当初の心配がうそのようです。
生活は寝てるか車椅子に座ってるかしかないのですが、座ってる時間が長くなりました。床から自力で起き上がれるようにもなりました。夜中寝られない時など自分なりのリハビリ体操をやってます。そんな努力がよかったのかも・・・。食事は1人前しっかり食べます。父より量が多い位です。最初は自分の手では食べられませんでした。そこを怒りながらスプーンを使うよう勧めてきました。「かわいそうで見てられない」という姉と何度か喧嘩もしました。それが今は金属製のスプーンでほとんど自力で食べてます。
先日習字を母に勧めました。自分も書いたりして。母自身書ける自分に驚いていたようす。そんな母をみて、訪問看護の看護士さんが「花という字を書いて、名前を入れて下さい。」と希望したようです。今日夕方その字ができてました。自分の印も押してありました。母がやる気になってくれたことがうれしいです。
木曜日にに病院へ連れていきます。主治医に「どうだ。元気だろう。」と誇らしげに話す母を見てきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一つの人生と母の病気

2005年06月27日 18時12分59秒 | 母の介護
退職に至った経緯は「退職と求職」を読んでいただきたい。
ともかく、昨年(2004年)6月会社に辞める意志を伝え、10ヶ月後の今年4月末で辞めたのだが、この間に当初の計画を変更しなければならない事態となった。
昨年10月母が突然悪性リウマチを発症し、介護の必要な体になってしまったのだ。リウマチにも2種類あって、どんと悪くなって、ある状態で進行が止まるタイプと、進行が止まらないタイプとだ。母は後者、いまだに関節の変形が止まってない。3,4ヶ月で体の自由がなくなり、半年で自分の足で立てなくなった。今は寝てるか、車椅子に座っているかだ。
父90歳と母80歳は私のマンションの前の一軒家(僕の実家)で2人暮らしをしてました。近くに僕の家族がいたので、それなりに安心感は持っていたと思う。また姉が、未婚の一人暮らしですが、電車で30分位のところで暮らしてます。
母が倒れてから、姉が面倒を看ることになり、実家に移り住んで、介護にあたってる。
さて、こんな家族環境になってしまったわけですが、「僕は夢があって、会社辞めたんだから」と一人かってが出来るだろうか。僕は特に悩むことなく、「よし、しばらくは母の面倒をみよう。自分の夢はそれからでもいいだろう」と決めました。退職時をみはからったかのように、母が重病で倒れる。これは何かの縁です。僕に介護の時間を用意してくれたとも考えられるでしょう。それを振り切るのはきっと後悔に繋がると考えたのです。
リウマチは命を縮める病気ではないようで、今後いつ頃、どんな家族環境になるか予測がつきません。なった状態に対応しながら、自分の次の一歩を決めたいと今は考えてるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする