母が発病して1年が経つ。半年は入退院を繰り返していた。夜中の発熱、不整脈、救急車、朝まで点滴を受けて帰ってくるケース、そのまま入院したケース、いろいろあった。6月17日の退院以降、決められた通院以外病院には行っていない。
6月の退院の時、病院から「胃ろう処置(胃に管を通し、食物をそこから入れる)をしたうえで、専門医院に移し、介護する方法も選択肢です」とまで言われた。それには姉が強く反対し、「家で看るから、このまま帰したい」旨を伝えた。
その母が担当の先生はじめ、介護事務所の担当の方も驚くほどの回復をしてきた。要介護度は今最高の5ですが、先日の再認定では4か、さらに3に落ちるでしょうと言われてる。ここまで回復した母にはびっくりするだけだ。
姉が24時間つきっきりの介護を続けてくれたことが一番大きいことだったと思う。でももうひとつ母自身が病気を受入れられたことも大きかったと思う。
母は人並みはずれた「強い女」です。終戦の時、北朝鮮からの引揚げ経験を持ってます。その時、乳飲み子の長男と死に別れ、病弱の父を引き連れ、自分は丸坊主になって男装して帰還してきました。その後無一文から今の家庭を築いてきた人生です。
不治の病を宣告された時「なんで私がこんな病気にさせられなきゃならんの?」と捉え、半年パニックしてたようです。「あきらめ」られなかったのです。何かに向かって「恨んで」いたようです。その精神的不安定が肉体的不安定に繋がっていたのです。
姉の献身的介護を受ける中で徐々に「あきらめる」ことができるようになっていったのでしょう。あきらめられれば、後は「強さ」がプラスに効いてきます。「じゃ、分かった。直らないならこの体のままどうしたら楽しめるか」と考えるようになったのでしょう。寝たまま体の各部を動かすことから始め、ベットから車椅子に自分で移ることをやりだし、ベット横のトイレに一人で移り、用を足すまでになってます。デイサービスにも積極的に行き、そこで教わる「墨絵」に興味をもって臨んでます。家で練習するようにもなってます。
肉体的病を患っても精神的に弱くならなければ大丈夫。精神的に弱くなったら、病もますます進み、直るものも直らなくなるものでしょう。そして、精神的に弱くしない方法は「周りの人の見守る心」なのでしょうね。世の中の全部がとは言いませんが、周りの人の対応の仕方でもっと健康になれる病人、老人は多くいるのでしょう。
この母の回復に僕も裏でささえられたと自負する気持ちが少しあります。
6月の退院の時、病院から「胃ろう処置(胃に管を通し、食物をそこから入れる)をしたうえで、専門医院に移し、介護する方法も選択肢です」とまで言われた。それには姉が強く反対し、「家で看るから、このまま帰したい」旨を伝えた。
その母が担当の先生はじめ、介護事務所の担当の方も驚くほどの回復をしてきた。要介護度は今最高の5ですが、先日の再認定では4か、さらに3に落ちるでしょうと言われてる。ここまで回復した母にはびっくりするだけだ。
姉が24時間つきっきりの介護を続けてくれたことが一番大きいことだったと思う。でももうひとつ母自身が病気を受入れられたことも大きかったと思う。
母は人並みはずれた「強い女」です。終戦の時、北朝鮮からの引揚げ経験を持ってます。その時、乳飲み子の長男と死に別れ、病弱の父を引き連れ、自分は丸坊主になって男装して帰還してきました。その後無一文から今の家庭を築いてきた人生です。
不治の病を宣告された時「なんで私がこんな病気にさせられなきゃならんの?」と捉え、半年パニックしてたようです。「あきらめ」られなかったのです。何かに向かって「恨んで」いたようです。その精神的不安定が肉体的不安定に繋がっていたのです。
姉の献身的介護を受ける中で徐々に「あきらめる」ことができるようになっていったのでしょう。あきらめられれば、後は「強さ」がプラスに効いてきます。「じゃ、分かった。直らないならこの体のままどうしたら楽しめるか」と考えるようになったのでしょう。寝たまま体の各部を動かすことから始め、ベットから車椅子に自分で移ることをやりだし、ベット横のトイレに一人で移り、用を足すまでになってます。デイサービスにも積極的に行き、そこで教わる「墨絵」に興味をもって臨んでます。家で練習するようにもなってます。
肉体的病を患っても精神的に弱くならなければ大丈夫。精神的に弱くなったら、病もますます進み、直るものも直らなくなるものでしょう。そして、精神的に弱くしない方法は「周りの人の見守る心」なのでしょうね。世の中の全部がとは言いませんが、周りの人の対応の仕方でもっと健康になれる病人、老人は多くいるのでしょう。
この母の回復に僕も裏でささえられたと自負する気持ちが少しあります。