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人に優しい線と色

2005年06月30日 08時25分24秒 | 国を憂う
人に優しい線と色                 2005.02.14

 人間は生活効率を優先するあまり、自分達に優しくない線と色で自分達の環境を悪化させてきた。
都会は定規で測ったような直線と計算され尽くした曲線ばかりだ。色の面から見ると、優しくない色とは言わないが、所詮優しくない形にどんな色をもってきても優しくはならないだろう。
 ぼくはある時、この優しくない線に囲まれてることに気づいた。この感覚は一旦気づくともう解消することはなく、益々嫌気が膨らむ感覚らしい。
 山に登りに行く。遠くの稜線の優しさ。北アルプスの切り立った壁でもその線は力強く、優しい。木々が持ってる線はなんと暖かみがあることか。あの線の上に緑、黄色、赤、時には枯れた茶色までが目に優しい。せせらぎを見る。刻々形を変化させるが、同じ形にはならない。できた泡までが渦を巻いてる。
 薪ストーブを眺める。炎の形は絶妙だ。あの炎色が暖かさを感じさせる色なんだけれど、あの色が濃淡を付けながら、形を変化させる。あの変化具合があるから炎は暖かく感じるということが解かる。この優しい暖かみが石油ストーブでは味わえない肌への優しさを演出する。
 定規で測ったような直線と計算され尽くした曲線のなんと冷たいことか。余裕かない。変化がない。変化してもそれは計算された変化、人間が作った変化でしかない。死んだ構造物の集まり。そんな環境で健全な精神構造の人間が育つはずがない。

 現代人の心がすさんでいるのはこんな環境が起因してないだろうか。

 私は山小屋に行く。あたりまえだが、見なれた線、色の集まりだ。全てが生物の線ではない。しかし、圧倒的に生物の線、色が私を包む。見飽きることは決してない。心が静かに、ゆっくりと定着していくのを感じる。自分は生きてる人間であることを自覚しながら。
 私はそんな環境で生活したい。その中に居続けた場合、都会から帰ってきた時に感じる心の変化を楽しむことは出来ないだろう。鈍感になってきたら、感じたくなったら、ちょっと都会の空気を吸ってくればいい。
 ブナの幹は水の流れる音が聞こえるという。聞こえるはずはないのだが、あの線、色が水の流れを人間に感じさせるのだ。高層ビルに耳を着けても冷たいだけで、何も聞こえない。聞こえても鉄骨のきしむ音くらいだろう。
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現代日本人の不幸

2005年06月30日 06時22分00秒 | 国を憂う
現代日本人の不幸       2005.01.21

 毎日のように殺人事件が報道される。しかも低年齢化、衝動的、悪質化してる。施設の支配人が金庫の合鍵をいかがわしい人に貸与する。偽造紙幣、詐欺、通り魔。「携帯はマナーモードに」との放送の下で携帯を使う。それを注意すると暴力沙汰にあう。
 なんという社会なんだろうか。「夢を持って生きる」どころか「恐怖感を持って、遠慮して生きる」社会だ。
 何が悪いの、何が原因なのだろうか。
「社会に規範を示す立場の人達が社会から信頼をうしなうような行動を平然としてること」なのではないか。
「法律で罰っせられない範囲でうまく世渡りしてること」を一般の人は見抜いているのに。
「やってはいけないこと」「やらなければいけないこと」 社会で生きていくうえで最も大事な規範は小さい頃から先輩を見ることで、あるいは友人と付き合う中で身につけるしかないはずなのに、そういう環境がなくなってしまったのだ。

 大人が今規範を取り戻さないと、世の中悪くなる一方ではないか。

 今の利権にしがみつくな。
 周りの考え方に耳をかたむけろ。
 謙虚になれ。
 清貧であれ。
 周りに生かされてる自分に気づけ。
 感謝しろ。
 感動しろ。
 涙を堂々と流せ。

「多様な価値観の社会だ」と突き放す前に、今の自分を静かに見つめなおそうよ。
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もう一つの人生と母の病気

2005年06月27日 18時12分59秒 | 母の介護
退職に至った経緯は「退職と求職」を読んでいただきたい。
ともかく、昨年(2004年)6月会社に辞める意志を伝え、10ヶ月後の今年4月末で辞めたのだが、この間に当初の計画を変更しなければならない事態となった。
昨年10月母が突然悪性リウマチを発症し、介護の必要な体になってしまったのだ。リウマチにも2種類あって、どんと悪くなって、ある状態で進行が止まるタイプと、進行が止まらないタイプとだ。母は後者、いまだに関節の変形が止まってない。3,4ヶ月で体の自由がなくなり、半年で自分の足で立てなくなった。今は寝てるか、車椅子に座っているかだ。
父90歳と母80歳は私のマンションの前の一軒家(僕の実家)で2人暮らしをしてました。近くに僕の家族がいたので、それなりに安心感は持っていたと思う。また姉が、未婚の一人暮らしですが、電車で30分位のところで暮らしてます。
母が倒れてから、姉が面倒を看ることになり、実家に移り住んで、介護にあたってる。
さて、こんな家族環境になってしまったわけですが、「僕は夢があって、会社辞めたんだから」と一人かってが出来るだろうか。僕は特に悩むことなく、「よし、しばらくは母の面倒をみよう。自分の夢はそれからでもいいだろう」と決めました。退職時をみはからったかのように、母が重病で倒れる。これは何かの縁です。僕に介護の時間を用意してくれたとも考えられるでしょう。それを振り切るのはきっと後悔に繋がると考えたのです。
リウマチは命を縮める病気ではないようで、今後いつ頃、どんな家族環境になるか予測がつきません。なった状態に対応しながら、自分の次の一歩を決めたいと今は考えてるのです。
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退職と求職

2005年06月23日 07時16分01秒 | プロフィール
プロフィールにも書きましたが、今年2005年4月に32年勤めた会社を退職しました。
僕もこれから20~25年を生きることになるだろうが、何もしないで余生を送るなんてできそうにもない。ならば積極的にもう1つの自分を生きるために行動した方がいいのではと考えて、55才で辞めたのです。
子供3人が皆社会人になったということも後押ししました。
7,8年前に山小屋で週末を過ごすようになってから、自然と触れ合っていると時の経つのを忘れて楽しめる自分を発見してました。何ができるだろうとか、何がしたいんだろうとか思案することなく、「自然と触れ合う」「自然を生かす」「自然を再生する」そんな場所に自分を置きたいと考えるようにもなってました。
ふりかえれば、「会社辞めてもう一つの自分を」との思いと、「自然を」との思いは関係なく、別々に大きくなっていったようです。たまたまこの時期に2つの思いが重なり、風船大だったものが、アドバルーン大になり、浮上したということです。
もうひとつ、自然に興味を持ったときから、「自然の荒廃」を心配するようにもなりました。毎年発生する大雨→土砂災害、その原因が人工針葉樹林の野放しにあることを知りました。安い外材におされて、成り立たなくなった日本の林業が裏にあることも知りました。このあたりに僕のやること、やれることがあるのではないか。そんなふうに考えているのです。
地元の森林組合に「仕事をさせてくれ」と申し込みましたが、「仕事がない」と断られました。荒れていること、手入れが必要なことはわかってるのだが、その資金がどこからも出てこないのです。
いずれは国なり地方自治体が予算をつける時が来ると考えてます。今は森や木のことを勉強しようとちょっと方針変更です。
木を扱う仕事ならなんでもやろう。造林、造園なにやっても勉強になるはず とも考えてます。

こんな僕に役立ちそうな情報をお持ちの方、情報をください。仕事場でしたら山梨県北杜市近辺が希望です。
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資格と人間関係 

2005年06月22日 08時16分50秒 | 国を憂う
資格と人間関係               2005.01.28

 東京近郊の私鉄駅員の方が「サービス介護士」の資格講習を受けたとのニュースを見た。日ごろから「今の日本どこかおかしくないか」と考える癖に火がついた。

 今の日本 人間関係にアナログさが薄くなって、デジタルさが増幅している。温かみが消えて行き、冷たい関係しか成り立たなくなってると危惧してる。

 今回の講習会、そして資格は体が弱い人、不自由な人がなんらかのサービスを受けたい時、それを介護する資格のようだ。
 こんなことまで資格化されると、資格のない人は手出しできなくなるのではないか。資格のない人が介護に手を出した。無事済めばいいが、相手が怪我を負う結果になった時、周りから「君は資格がないじゃないか」とせめられるでしょう。無免許運転と同じです。法的にも責めを受けるでしょう。
こういう結果にもなりかねないとしたら、だれが介護の手をさしのべますか?
 一事が万事、こういうことが今の日本の中で増幅されてるように思える。人間本来の感情を押し殺して、グッと我慢しなければならない。これは抑圧といってもいいのだろう。
 こういう社会、日本、日本人はどこへ行こうとしてるのだろう。

 僕はアナログさを取り戻せる地をもとめて旅にでるだけだ。
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煙草

2005年06月22日 08時02分56秒 | つれづれなるままに
煙草                 2005.02.08

 僕は54歳で煙草を吸ってる。巷では「百害あって一利無し」と酷評されてる。自分でも「利の有る行為ではないな」と解かってる。でもやめないんですよね。

 僕の煙草遍歴をふり返ってみよう。初めて吸ったのは高校時代、確か部室だったと思う。わが母校の自由な雰囲気の中、何やってもいいや、大人のまねでもと口にした。部活の友人からもらったと記憶してる。ちょっとまじめな気持ちで吸い出したのが浪人時代。深夜1時、2時に雨戸を開け、真っ暗な庭に向かって、プーっとやった時の心地よさは格別だった。自分が偉くなったような気がしたもんだ。でも月に1本か2本だったと思う。大学に入ったら「吸うのがあたりまえ」とうそぶいて、堂々と吸い出した。
そういえば、親父が煙草を止めたのがこの頃だった。僕に対して行動したというのではなく、胃潰瘍の悪化、手術の怖さから止めたようだが。親父はその後30年吸ってない。大学時代、酒飲んで、議論して、講義の後の、パチンコしながら、麻雀しながら、喫茶店で珈琲飲みながら、煙草吸うために学生してたようなもんだ。
 1973年に会社に入ったが、煙草を止めようとは考えなかった。自席に灰皿をおいて、煙に包まれて、考えてるようなかっこうをしてる。仕事をしてる気分になれたし、仕事できる人間に見えるんじゃないかな なんて考えてた。
 ところが入社10年目頃だったと思う。その年の2月に風邪をひいた。煙草が吸えなかったし、吸いたいと思えない程調子が悪かった。そんな日が3,4日続いて、風邪が治った。この日が2月19日僕の誕生日だったのでよく覚えている。「4日吸わないでいられたじゃん。このまま止めるか」と止めちゃった。
今考えるに、いとも簡単に止められた。それから4,5年やめてましたかね。どうして再開したかはさだかではないのだが、仕事でいらいらすることがあったのでしょう。ちょっと1本があれよあれよというまに1日1箱に。吸い出したらこんなもんでしょう。
 そして1998年の夏です。十二指腸に穴があき、腹膜炎の併発。夜中に死ぬかと思うほどの腹痛。そのまま緊急手術、入院。さいわい臓器を切らずに処置いただき、2週間の入院後、会社に復帰。当然煙草はやめますわね。あの痛い思いは二度としたくないと考えるのが普通です。3,4ヶ月はやめてたように思います。またまたちょっと1本から始まって、数日で1日1箱ペースに。かみさんから「またあの苦しみしたいんだ」といやみを言われると、「もうならんよ。薬も飲んでるし」と強がってる僕でした。
 人間は弱いもんだなとつくづく思います。僕だけではないでしょう。
 これから田舎暮らしを始めようとしてるが、あんないい空気の中で、わざわざ汚い空気を体に入れることはないのにとも考える。
 解かっているけど、止められない。なんなんでしょうね。
 煙草を吸う時間があるからいけないんだよ。
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北原照久氏のこと

2005年06月21日 21時53分11秒 | つれづれなるままに
北原照久氏のこと            2005.02.01

 NHKのラジオ番組で「ブリキおもちゃ収集家」北原照久氏の生い立ちを本人の話で聞いた。
 驚いた。氏のすばらしさはもちろん、氏を育てたお母さんのすばらしさに感激させられた。明るい未来を想像できない今の日本、その原因の一つが教育だと考える私には「まさにこれだ。今の日本に欠けてるものは」と共感せずにはいられなかった。
 氏は小学校、中学校時代 大変な不良だったらしい。あげくのはては中学退学までいったようだ。その氏が高校である先生にめぐりあった。大変ほめ上手な先生で「北原 やればできるじゃないか」が口癖だったらしい。
 小、中学と勉強はまったくしなかった氏は当然高校にはいっても学年800人中ダントツのびりだったようです。高校1年の春アルファベットが1つも書けなかったそうです。今の彼を見て、過去にこんな時代があったなど信じられないのだが。
 その彼が「ほめ上手な先生」にめぐり会って、人生が変わったらしい。先生が誉めるから、先生にまた誉められたくて勉強を始めた。当然中学レベルからの復習でしょうし、独学しかなかったでしょう。「うれしくて、楽しくて、やった」と氏はおっしゃる。結局3年後卒業時には800人抜きの主席卒業だったようだ。
「勉強は教えるものではなく、やりたくなってやるもの」
「子供はベースがちゃんとしてれば曲がらない」
「見守っていれば、いつか気がつく」
「気がつくまで待ってやること」 と考える私の哲学通りだ。
 氏はベースがしっかりしてた。それを植え付けたのは彼の母だったらしい。
 母はそんな彼をしかったことがなかったようです。
「照チャンだいじょうぶよ。貴方は優しいし、だいち煙草を吸わないじゃない」と誉めたそうです。「他に誉めるところがなかったですからね」と氏は言うのだが。
「親は愛情と我慢で教育する」が私の信条。「すてきなお母さん」に感動です。
 ある時、野に咲く雑草を踏まずに避けた彼をお母さんは「お花を大事にする照チャンはすばらしい」と誉めたそうです。
 氏は「お母さんを裏切ることはできない」と今まで煙草を吸ったことはないそうですし、植物への愛着も並以上だそうです。彼は自分の誕生日はお母さんにプレゼントする日と決めてるそうで、もう何年も欠かさず、続けてるようです。
 日本の全親が北原さんのお母さんのような人だったら、全教員が「誉め上手」だったら、今日本を覆ってる暗雲など一気に消え去るのにと考えた放送だった。
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32年間の会社人を辞めました。

2005年06月21日 20時23分31秒 | プロフィール
私事ですが、4月末日をもって㈱○○○○を退職しました。

 1973年に入社し、IT技術を駆使して、業務の効率化を進めてきた32年でした。 業務ソフトの作成から始まり(まだパンチカードの時代でした)、システム開発をやり、全国への普及活動もやりました。最後の6,7年は普及させたシステムから上がってくる情報を使って、利益管理、リスク管理を担当させていただきました。まさに日本の企業がIT化してきた過程をそのまま実践してきた私です。

10年程前から自然の中にいる事が好きになり、そんな場所がほしくなり、7年前に山梨県白州町に小屋を持ちました。小屋での生活を楽しむ中、当然のことですが、ここで生活したいと考えるようになりました。

これからの20年、25年の人生を考えた時、定年までのこの5年がたいへん貴重な時間に思えます。いずれ田舎暮らしをするなら、一刻も早く、まだ力のあるうちに始めようと考えたのです。

今年で子供3人も皆巣立ちました。「よし始めるぞ」と決心したのです。自然を活かす仕事を今探してます。まだ見つかってません。厳しさを実感してます。「どうにかなるさ」と軽く考えるようにしてます。

在職中は公私にわたり大変お世話になりました。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
小淵沢、韮崎あたりに来ることがありましたら、寄ってください。
但し事前にTel、Mail等で要確認です。
諸般の事情で年内は神奈川におります。

                   平成17年5月
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学力低下と教育

2005年06月21日 13時50分17秒 | 国を憂う
学力低下と教育            2005.01.28

 世界的機関が最近世界中の小学生を対象に学力調査を実施し、その結果を公表した。
 数年前の同じ調査との比較についても公表された。

 日本の小学生は前回より順位を落としたこと、文章の解釈力が劣っているなど指摘された。

 これに対して、文科省は数年前から進めてきた「ゆとり」路線を見直す、主要教科の時間を増やす と言い出した。

 なんとスケールの小さいことか。こんな発想しかできない「えらい人」に「教育」を語らせるのはマイナスはあっても、プラスはないと言える。

 そもそも今回の学力調査はいわゆる学力の調査であって、学力の低いことは悪いことではないはずだ。学力は低いが絵をかかせるとおもしろいとか、ボールを投げると100m投げるとか、走らせるとオリンピック級だとか そんな能力もその人の、わが国の個性としてあっていいはずだ。「学力の高いこと」が唯一無二の価値観としてきたこれまでのわが国。
その結果がどうだ。義務教育についていけず、学校に来なくなった子、そこをスタートに若年層が悪い方向に向かっている例は毎日ニュースにあがっているではないか。
 こういう現実を直視せず、学力がさがったから、上がる教育をと短絡的に結論をだしていいの。今の日本社会の暗い流れをますます本流化させるだけだと思う。

 「個性の尊重」がキーワードだと思う。その子が興味を持っていることをそのまま伸ばしてやればいいではないですか。当然「学力」での優劣などなくなる。「それでは社会人として最低必要な基礎学力すら身につかないのでは」と反論される方には「こういう環境で育ててやれば、必要となった時、自ら探求しますよ」といいたいし、「押し付けて教えるのではない、自ら求めたということが大事でしょう」といいたい。その時は今のシステムよりはるかに身につくことでしょう。

 こういう教育を実現するために小、中、高とも教科選択型にしてはどうだろうか。当然教員の資格も今とは一変させねばならない。例を1つ。NHKが放送してる「課外授業」という番組。子供が全員生き生きとしてる。いろんな先生がいて、興味のあることならなんでも教えてくれる。料理を教えてくれる、鋸の使い方を教えてくれる、生物の育て方をおしえてくれる、当然算数や社会科もある。
「小学生には選択する力がない」と心配されるかたには、「その子もいつか自分の人生を自分で選択しなければならないでしょう」と言いたい。最初は自分で選べず、友人についていくだけという子もいるだろう。それでもいいのですよ。
 こういうシステムのよさをもうひとつ。教員がもっと勉強するようになることです。今の先生は「マニュアル型」だといえる。生身の人間を教えるのです、マニュアルなんてあるのがおかしいのに、教育の現場に立たないえらい人達が考案したマニュアルにそってオウムのようにしゃべってる。こういう先生はいられなくなるでしょうね。子供が慕いませんから。

 わが国の教育にこんな提案を持ってる私です。
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山登り

2005年06月21日 13時44分35秒 | 山紀行
山登り                 2005.02.08

 山登りが趣味だ。趣味と言えるレベルがわからないが、山から下りてきた後の温泉で「来月はどこに行こうかな」なんて考えるのだから、趣味といってもいいのだろう。
 山に登り始めたのが大学生の頃。丹沢の表尾根にちょくちょく行くようになったのが始まりだろう。その頃は自分の体力を測りにいくような山行で、いつも同じコースを歩いてた。「前より楽に塔が岳まで行けた」とか「今日はバカ尾根の下りでまいった」とかの感想しかもてなかった。バリエーションルートを探すわけでもなく、趣味とは言えないレベルだったろう。
 この頃、ひまにまかせて登山の本を読むようになったことは今に繋がる出来事だったかもしれない。ヒマラヤ8000m峰が登られていく紀行文を読み漁って、自分がその主人公であるような興奮を覚えてた。世界の山名や世界的登山家の名前も覚えた。しかし、自分の山行は別段進化することなく学生時代を終了し、社会人になった。
 確か入社した年の初秋だと思うが、周りの先輩が穂高に行く計画を始めた。なんで自分がそこに参加するようになったかはさだかでない。おそらく僕のことだから、山の事で知ったかぶりした会話を日頃してたのだろう。「あいつも山に興味ありそうだから、入れてやれ」くらいでメンバーになったのだろう。この山行は僕にとって初めての本格的登山で、泣きたい位辛かったのを覚えている。河童橋から岳沢小屋までの登り。小雨の中、30kg(確かではないが、おそらくそれ位)ほどのリュックをしょって、プロについて行かねばならん登山は苦しいだけだった。先輩が短パンで傘をさして、先頭を漂々と登る姿が憎かった。岳沢小屋に着いたときは達成感より、ほんとに泣きたかった。テントで寝て、翌日前穂、奥穂と登って、下山。岳沢からはまた思い荷物をしょっての下山だった。
 次に訪れた山行の機会は入社3年目。穂高を短パンで登った先輩とネパールへヒマラヤをみに行こうと計画を始めた事だった。1年後の5月の連休に有休をくっつけてヒマラヤトレッキング。仲間を募り、我々で団体を組んで行こうと始めた。計画を練ってる段階で私の結婚が決まり、この山行が我々の新婚旅行を兼ねる結果になるのだが。ポカラからゴラパ二峠までをトレッキングしてきた。マチャプチャリ、アンナプルナ、ダウラギリがすごかった。
 1977年にこんな体験をしたことは驚異的なことだったはずだが、僕としては山にのめり込んでいくきっかけにはならなかった。これからしばらくは子育てとクラブ活動としての野球にはまってて、山どころではなかった。
 40歳で野球の現役を引退すると、体を動かす機会が少なくなったこと、子供も手がかからなくなり、自由になる時間が増えたことで、空いた時間の消化手段が必要になった。なんとなく奥さんと2人で山に行くようになったのはこの頃からではないだろうか。丹沢もいろんなルートから歩いた。
車にテント道具を積んで登山道入り口の駐車場に行き、その日は車の後ろにテントを張って寝、翌朝早く山に入る山行を繰り返していた。この頃八ヶ岳を歩き回った。鳥海山、月山はこの頃の思い出の山だ。白馬、杓子、白馬鑓へは長女を連れていった。アイゼンを買おうと決めた山だ。北岳には次女を連れていった。これでわが国の1,2,3位の山に登ったことになる。
家族で白山にもいった。雨にたたられ、全員ずぶ濡れで逃げ帰った。雨具の重要性を思い知らされ、ゴアの雨具を買うことにした。飯豊に行ったのもこの頃だ。あそこも雨だったな。ログのペンションを見学がてら、唐松五竜も歩いた。新宿から夜行で行った燕岳・大天井・蝶が岳、北アルプスの稜線がきれいだったな。
 この当たりから「趣味の山」になったようだ。一方でゴルフに対して興味をなくし、やらなくなった。もうひとつ、里山での小屋暮らしを夢見始めたのは必然だったようだ。
 1998年に待望の小屋を白州にもった。M夫婦、Y夫婦という山友達ができ、小屋を基点にますます山に行くようになった。Yさんから催促されるように毎月山行予定を作るようになる。毎年1月の雪山も恒例になった。白州を基点にすると、北アルプス、八ヶ岳、中央アルプスがグランドになった。八ヶ岳は北の蓼科から南の清里まで繋がってしまった。5月の立山、日本にもこんなスケールの山があるんだと感激。夏の空木、嵐で小屋が飛ぶかと心配した。爺が岳・鹿島槍、雨飾山、火打・妙高、燧ヶ岳・尾瀬、会社の登山クラブでも那須、安達太良、谷川等も行った。
 日本狭しとよく行ったもんだ。日本百名山も40数山登ってきたことになる。
 今どうしても行きたい山が2つある。
 ひとつは甲斐駒ケ岳。僕の友人的山だ。白州の小屋の裏に聳えてる。なぜ友人かというと、これまで4度計画するも登らせてくれない山なのです。1回目は1998年、小屋を持った年です。記念登山とばかりにM夫婦、Y夫婦と計画したのですが、実行2週間前に突然の大病。緊急手術、入院。これでは行けない。その後毎年のように計画するのですが、天候に恵まれず登ってません。
 あとひとつは槍ヶ岳。山を趣味にしてる日本人なら登って見たい山ですよね。
 まだまだ生きたい山はある。剣岳、利尻岳、上州から関越の山もいい。
山は逃げていかないし、なくならない。心配は自分の体力がなくなることだ。人が2日で行くところを3日でいけばいのです。これからは時間があるのだから。まだまだマイペースで山を楽しみたいもんだ。
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