goo blog サービス終了のお知らせ 

終戦の日

2022年08月15日 16時37分30秒 | つれづれなるままに
テレビ点けたら「戦没者追悼式」をやってた。天皇陛下のお言葉が流れてた。
ウクライナでまさにリアルな戦争がいつ終わるとも無く続いてる、安倍さんが銃撃されて「国葬」だという、その銃撃事件があらぬ方向に発展して「政治と怪しい宗教団体」の関係があらわになってきてる、トランプさんは法律違反容疑で家宅捜索を受けてる、各地で長雨被害が起こってる、コロナは相変わらずだ。それでも3年ぶりの帰省だと国民はうかれてる。
こんな世相の中、僕の中にも「冷静になって、考えてみよう」の気分がある時に、この整然とした雰囲気の追悼式、天皇のお言葉 やはりどこか「聞いてみたいな」の興味がわいた。
でも聞き終わって、大きな違和感があった。それはウクライナの状況が脳裏に映像で存在してる今、「戦争で亡くなった人は310万人」と告げられ、単に「悲しい気持ちで追悼」できるのか、「追悼すれば」いいのか、「見なきゃいけない所を見てない、隠された式典」じゃないか ってことを思ったのです。
310万人が死んだのは何故? を忘れてていいのか、置いといていいのか。 大元は支那事変 1937年に支那に乗り出して行ったことですよね。理由、状況はともあれ、今のロシアがやってることと同じことをやって、結局強国に包囲されてつぶされ、310万人が亡くなった。
今日本人のほとんどがロシアを非難してると思うのです。そりゃそうでしょう。でも自国のまだ100年にもならない昔の行いには目をつぶって、見て見ぬふりして、亡くなった方達の追悼の意だけ形にしてる。
やはり「キチンと清算してない、しないで済ます」「歴史の事実として総括しない」「(ややもすると)歴史認識を変更しようとする」 こんな日本はまずいなと思わざるを得ない。こういう片手落ちな追悼式を後何年続けていくんだろう。どこかでけりをつけて、「今年で最後」を宣言しないと、歴史の「お荷物」がどんどん溜っていくんじゃないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする