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原発事故裁判 玉虫色で済ます日本

2022年06月18日 09時49分48秒 | 国を憂う
こういう判断が出るだろうと予測してた通りだった。今の最高裁(司法の頂点)が行政を批判する結論を出すはずがない。
昨日の判断が出るまでと出てから に時間を分けて、かつ細かい問題点はさけ、大局的に僕の思いを書いておこう。

事故が起きてから昨日まで。 あれだけ大きな事故が起きた。何十万という生活者が生活を奪われ、命を落とした事実は動かしようも隠しようもない。 そのリアルに対して誰かが「責任」をとらなければならないのだが、一民間企業の責任だと矮小化してしまっていいのか。だいたい一民間企業だけでは負いきれない額になるのだが。 エネルギー事業には国策的な側面だってあっただろう。 さらに「予見できなかったから、国に責任は無い」という論理なら「東電だって予見できなかった」だろうに。そう考えれば、昨日の判断は単に「国の責任逃れ」を後押ししただけじゃなかったのか。

次に将来に向けてだが。 福島の事故(事件でもいいと思うが)が今露見させてるのは「日本文化にあるいい加減さ」なんだと思うのです。まだまだ「危なっかしい」技術、それを導入するにあたって、「安易過ぎた」「いい加減過ぎた」ということなんじゃないでしょうか。計画段階で「もっと詰める」「常に懐疑的に検証する」「運用時に生じるあらゆる場面を想定した次の策を作っておく」 さらに「責任体制を明確にしておく」 こういう分析、詰めが甘かったんだと思います。結局「いい加減なレバルで無責任な決定がされていった」 その結果が招いた事故であり、昨日の判断にまで繋がってるんだと思うのです。 思い出すのが「米国のアポロ計画」。13号でしたか、地球に戻れないかもとなった時にそれでも対応できた事実がありますね。

昨日の最高裁の判断 「国だけは擁護した」点も許せないのですが、将来に向かって、上に書いた「日本文化のいい加減さ」に対する警鐘をきちんと表明して、「変化を生む」最高の示唆を出してほしかったと思うのです。
コメント (2)
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