やった者勝ち

2018年07月06日 11時00分34秒 | 国を憂う
文科省官僚が受託収賄罪に問われた。医大側が行政的便宜を図ってもらう代わりに官僚の息子を自分の医大に入学させたという構図らしい。いやはや「またか」です。
社会的権力階層の上からどのあたりまでが毒されてるのか定かじゃないですが、いまの日本確実にあるところまでは侵されてますね。今「ヤバい」「バレないでくれよ」とヒヤヒヤしてる権力者もいるのではと推測して違和感を感じない。
一番上が安倍さんだからとそこに原因を集中させるつもりはない。世界中で戦後70年築いてきた統治構造がそろそろ自己統制力を失ってきてるってことじゃないでしょうか。
一昔前だとまず「公僕としての道徳感」がまだあった。力を持った時、その力で「社会を少しでも・・・」と考え行動した。でも今は社会そのものががちがちに固まってて「所詮自分だけの力じゃどうにもならん」になってるんじゃないか。「じゃ、自分の利になることででも使ってみるか」となってるんじゃないか。そして現実はもっと進んでるわけで、「あの地位になれば自分の利が計れる。だったらあの地位になんとか登ろうぜ」となってるんですよ。
そういう「安価の夢」で出世してきた権力者がやることが露見してきたってことでしょう。じゃこれを統制できるかっていうと、できないんですね。上司がそうやって出世してきた人間ですから。
「怒る文化」が必要なんでしょうね。「奴ら、かってしやがって。許さん!」と声を上げることしか統制力、変える力にはならんと思うのです。

さて別の「憂い」。
関東地方梅雨が異常に早く明けたと思ったら、そして「どうせ今年もあるだろう豪雨災害 今年はどこなんだろう? いや今年はないのかな?」と思っていた矢先の豪雨災害。しかも今年は局所的じゃない。言ってみれば「日本中豪雨被災地」状態じゃないですか。
やはり地球的大きな変化が始まってると見た方が無難なんじゃないですかね。局所的な災害が大きくなったのが10年ほど前から。2,3年前から「線状降水帯」という新しい概念が必要になった。そして今年は「面状降水帯」というさらに新しい概念が必要になったんですよ。

社会的憂いも自然の憂いも時間とエネルギーをつぎ込んで作ってきたシステムの副産物。取り除くのには相応の時間とエネルギーが必要なのは当然の論理。
コメント
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