カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

生まれ変わる犬のこころ   僕のワンダフル・ライフ

2022-05-16 | 映画

僕のワンダフル・ライフ/ラッセ・ハルストレム監督

 こどもに拾われて飼われることになったゴールデンレトリーバーのベイリーは、その少年イーサンを心から愛するようになる。そうして多少問題のある家族の変遷とともに犬の一生をまっとうするが、死ぬ前にどうしてもイーサンと一緒にいたい気持ちを捨てきれなかった。それで犬として生まれ変わるのだが、飼い主は違うことになる。三回目の生まれ変わりで、やっとイーサンと再会を果たすことができるのだったが……。
 犬の魅力たっぷりのエピソードが続くわけだが、確かに犬を飼ったことがある人なら、いわゆる「あるある」ということで楽しめることだろう。人間の側から見ると困ったことも含むそれらの犬のやらかしだが、犬の立場からも言い分のようなものがありそうだ。そういう犬の声が漏れ伝わってきて、確かに犬ってそんなことを考えてそうだよな、と心打たれることになる。ちょっと出来すぎという感じもするし、さまざまなエピソードに交わる人間たちの行動が、いささか類型的なこともあるけれど、基本的にはハートウォーミングなファンタジーということである。ちょっと突っ込みたくならないわけではないが、基本的には感情を揺さぶられることが多く、それらには目をつぶることにしよう。
 犬が演技をするような演出というのは、おそらく大変なんだろうとは思う。名犬ラッシーは、毎週そういうことができたわけで、やはり犬は賢い、ということでもあるが、要するにそれらしく人間が解釈できるほどの動きが、犬にはできるわけである。脚本を理解しているわけではないが、陰で指示を出している人の言うことや、俳優さんたちと共同作業ができる。猫や鳥だってできると言えばできるけれど、ずっとできるのかというと、犬より苦労してできるということになるんではないか。今はCGがあるけれど、実演させることになると、犬というのはそれなりに飛びぬけて演技派なのではあるまいか(もちろん、まったくいうことをきかない犬だっているだろうけれど)。
 犬が主人公だけど、物語の大筋は、子供のころから青年時代にかけて、純粋で素晴らしい人間だったイーサンである。しかし青年期に負った心の傷を引きずった大人になってしまう。単に運が悪い訳だが、その運の悪さが、どうにも単純なのである。この一度の大きなひねくれが、ここまで人の一生を変えてしまうものなのだろうか。いや、変え得るとは思いはするが、これだけの成功人生を送れた青年が、これだけひねくれるられること自体が、どうにも僕には引っかかるのである。まあ、それだけ犬の力は大きいということなんだろうけれど。
 犬が本当に何を考えているかは、人間にはわかりえないところがたくさんある。それだから、大きな勘違いを含みながら、ともに平和に暮らしていけるパートナーである。犬が本当に素晴らしいのは、そういう謎にこそあると僕は思うのである。
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毎日完成品のある生活

2022-05-15 | 

 僕は料理はしないのだが、料理番組はよく見る。包丁で野菜を切る音なんかも好きで、そういう動画があると見ハマってしまう。魚屋さんが裏でさばいている風景もなかなかかっこいい。僕は血に弱いので、包丁を持つと恐ろしくなって震えてしまうタイプだと思うが(そういう経験もほとんどないから分からない)、指を切らないのであれば何とか扱えるかもしれない。一人暮らしをしていたこともあるわけだし、1週間くらいは自炊の真似事だってしていたんじゃなかったっけ? 結局面倒でやめたのであって、できないからやめたわけではない。でもまあ、だからいつまでもできないのだから、もうできるようにはなれないのかもしれない。
 それというのもインスタント製品は充実しているし、レンジで温めたらなんとかなるような商品がたくさんある。そういうもので生活するのはなんとなくわびしいし、そういう環境でない幸福を享受していることに感謝をしているが、もしもの時があるとしても、やはり料理をするに至らない自分がいるのではあるまいか。スーパーには出来合いのお惣菜があるし、仕事の帰りにそれらを買って並べてしまえば、飢えるということはとりあえずなさそうである。酔って片づけをしないということは起こりそうだし、そういう不衛生がたたって病気をするということも考えられるが、とりあえず飢えて死ぬということにはなりそうにない。そうしてそういう境遇にありながら、料理の腕を磨くこともできないのだ。
 そうであるのに僕は日々料理番組を眺めている。これは来るべき日に備えてそうしているわけではないということにもなる。ああやったりこうしたりする動作を楽しんで見ているということだ。
 料理というのは面白いもので、いろんなものを組み合わせると、いづれは完成する。テレビだから味までは分かりえないが、たいていテレビで料理を作っている人はプロのような人々で、なかなかに旨そうである。そういう完成品が日々生まれるのを見ると、なんとなく僕の心も充実していくような錯覚を覚える。
 僕の仕事が特殊という訳ではなかろうが、毎日何かしらやってはいるものの、ちゃんとした完成を見るというか、しっかりした区切りであるとか、そういう成果のようなものが、現物として目の前の現れるようなものではない。いちおうの終わりのようなものはいくつか得られはするものの、それは時には暫定的であったり、終わったように見せかけて新たな始まりであったりもする。そうして一日が終わり明日が来て一週間が過ぎていったりする。だから不満があるとかそういうことではないけれど、そういうたぐいの仕事をやっている身からすると、料理ってやっぱりいいかもな、とは思う。
 しかしまあこれも現実を考えると、一つ作ってもまた作らなければならないこともあるし、流行りの店だと同じものをいくつもいくつも毎日毎日作り続けなければならないものなのかもしれない。一種の修行めいてもいて、だから料理人は年期がたつとそれなりに崇められたりするのではないか。しない人もいるけど。つまるところ、僕に向きそうな仕事ではないということに過ぎないのかもしれない。
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自分はどのように育ってきたのだろうか   アス

2022-05-14 | 映画

アス/ジョーダン・ピール監督

 海岸のリゾート地に遊びに来た、ちょいリッチな黒人家族がいた。もともとホラーなので不穏な雰囲気があったが、今から楽しいひと時が過ごせるはずの設定である。そこに自分たちとよく似た(というか何故か同じ人間のようだ)赤い服を着た別の集団が襲ってくるのだった。これがやはり謎掛けになっていて、後に徐々にわかってはいくのだが、よく似た連中だけれど、やはり何かが決定的に違っていて、強烈な殺意を持っている。やらなければ殺されることになるのは間違いない。そうしてこれらの人は他にもいて、別に知り合った家族は赤い服の集団にすべて殺されてしまう。必死に抵抗しながら逃げていくのだったが……。
 特に詳しい説明はないのだが、自分たちによく似た人々は自分たちだけじゃなく同時多発的にどこからか湧き出して来て、いわば人類そのものを襲っている感じだ。オープニングからの謎掛けがあって、主人公たちの特に母親には、何か秘密のカギを握っている雰囲気がある。よく似た人々は、自分たちの何かをよく知っており、訳の分からないことばかり言っているが、命を脅かすだけでなく、精神的にも追い詰めてくるのだ。
 一般的なホラーにありがちな、暗闇から恐ろしい場面が続くというようなことではないが、よく分からないながら、ちゃんと理屈がありそうな恐ろしさというのがあって、何故だかウサギが出てきたりして、哲学的な謎掛けのような仕掛けもあり、子供の男の子の分身の子の動きが変だったりして、とても嫌な感じだ。最初父親だけがこの状況をよく分かっていなくて、ギャグっぽいことにもなるが、そういうおかしみも含めて、たいへんに危険である。最後に多くの謎が解けるけれど、それでも実際どうなるのかなんてちょっと分からない。ええッと驚くけれど、後の祭りである。
 黒人家族が主人公になっているが、前作もそうだったが、豊かになった黒人の立場であっても、何か社会的に自分たちだけで戦わざるを得ないような空気感があって、僕は黒人ではないが、マイノリティとしての恐ろしさのようなものも、ちゃんと感じられる作りになっている。そういうところがこの監督さんの演出の上手さという感じだ。僕にはこの謎を全部解く能力は無いが、分からない部分も含めて、何かもやもやと恐ろしい。嫌な感じだけど、人に勧めてもいい映画だろうと思う。
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飯塚事件と30年後の今

2022-05-13 | ドキュメンタリ

 飯塚事件のドキュメンタリーを観た。事件の詳細はググって欲しいところだが、登校中行方不明になった女の子二人が、暴行を受けた上に殺され、無残に山中に捨てられていたという凄惨な事件である。そうして犯人として捕らえられた男は終始犯行を否定していたが、死刑判決が出る。そうして死刑が執行された後にも、家族・弁護側が再審を求められているということもあり、ことに有名な事件である(足利事件と並び、冤罪の疑われる件とされているのだ)。基本的には極めて怪しい容疑者ではあるが、警察の方も先に確信があることから、証拠を有利なように加工し、目撃証言者には証言を誘導したのではないか、とも捉えられるような流れがある。本人は終始容疑を否認する中、状況証拠のみで裁判は進み、結果的に死刑になる。そうして判決後わずか二年で死刑の執行もなされたことで、さらに冤罪の疑念がわいてくるような幕引きのようにとらえられてもいる事件なのである。
 当時の捜査の中心となった警察官などの証言からは、捕まえた容疑者がやったことに一分の疑いもない、ということだった。そもそもその前に起こった未解決の幼女殺人事件もあり、この逮捕後にそのような事件は途切れた。そのことをもって犯人が捕まった結果であるとも言っていた。
 一方弁護側の弁護士や、この事件を追った新聞記者は、証言証拠の恣意的な警察の誘導のあとや、DNA判定の資料のずさんさなどを掴んでいく。他に怪しげな人物がいたのかどうかまでは明かされてはいないが、少なくとも、犯人が確定的であると言い切れるほど、明確な状況証拠が揃っているとは言い難いところがある。当時の検察の常識のようなものがあるのかもしれないが、現在の捜査でこのような状況であるのならば、死刑が確定するようなことはあり得ないのではないか、という感じだった。
 もっとも本当のことは誰も知りようがない。死刑となった男が、本当に犯人だったかもしれない。ただし、ひょっとすると冤罪で死んだのかもしれない。再審が認められないのは、冤罪であるという確証までにも至らないという一点のみだろう。もしも、があってはならない問題のようだ。
 日本は、自供を優先させる国であると言われる。証拠をそろえて容疑者を捕まえると、多くの場合観念して自白する、と考えられているからである。しかしながら裁判というのは、実際にはあたかも誰も犯行の状況を知らなかったがごとくふるまって、検察と弁護士が答弁を戦わせて優劣を決めるようなことをする。そうであるから欧米の容疑者たちは、不利になる証言はそもそもしない。裁判に勝つためには、合理的にホントらしいことのような論理があるかどうかがカギである。判決を勝ち取ればいいという理屈なので、勝てば正しいのである。
 そうして飯塚事件では、そのような論理にあって容疑者が終始否認しているので、状況証拠は極めて整合性が無ければならない。それはあたかも仕組まれて作られたがごとく、むしろ検察側の主張通りに証拠が揃っているということである。しかしながら過去の証拠というのは、むしろ時を経てあやふやな部分というものが残っている方が自然ともいえる。そこに事件を立証させるための、検察側の厳しいハードルがあるということかもしれない。
 その後にも、容疑を終始否認しながら有罪判決を受ける事件はそれなりにある。以前のように警察の激しい暴力で虚偽の自白を強いられるようなものは減っているのかもしれないが(無い訳ではなさそうだ)、科学捜査が進んでおり、状況証拠が複数揃うようになっている。もっとも疑わしきものが捕まっているだろうとはいえ、一定数の冤罪が隠れている可能性は否定できないだろう。その為に死刑制度の是非が問われることにもなっていて、多くの国が死刑を廃止する流れになったはずである。日本の文化的な背景があるので、日本には死刑が残ることに異論はないが、このような事件においては、やはり一定の慎重さが必要だったのではないかと思わざるを得ない。すでに取り返しがつくものではないのだけれど……。
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ドラム叩きが音を失ったら……   サウンド・オブ・メタル~聞こえるということ

2022-05-12 | 映画

サウンド・オブ・メタル~聞こえるということ/ダリウス・マーダー監督

 激しい爆音音楽のドラムをやっている男は、どうも難聴に陥っている。彼女でもあるボーカル・ギターの相棒とキャンピング・カーでツアーしながら、根無し草のような生活をしている。そこそこ人気があるようで、そうしたロック芸人としての才能も高いようだ。しかしながら音楽活動なので、耳が聞こえなくなるのは致命的である。医者にかかるとどんどん悪くなっているうえに、良くはならないことが知らされる。人工の外耳手術は一千万近い高額の料金がかかるらしい。相棒の彼女は心配をして、耳の不自由な人のコミュニティに彼を預けることになる。そこで男は手話を覚え、そのコミュニティに徐々に受け入れられ、耳の聞こえない生活にも慣れていくようになるのだったが……。
 ベートーヴェンや佐村河内守ならともかく、耳が不自由で音楽活動を続けていくのは、相当に難しいことだろう。いくらドラムの演奏とはいえ、相方とリズムを合わせなければならない。映像世界で、だんだんと音がくぐもって聞こえる体験を共にすることができる。激しく叩いているドラムの音が、どこか遠くの出来事のようにしか聞こえなくなる。人が話している内容は、とても理解できないレベルになっていく。さすがにこのままではどうしようもないことを悟り、コミュニティの一員になっていくが、音のない世界でのコミュニケーションは、想像以上にむつかしいものがある。なんとか覚えていきはするものの、どうしても音のある世界を忘れることができないのだった。そうして彼の取る行動により、将来を変えようとする選択をするのだったが……。
 後半にも大きく物語は動き、過去とも対峙することになるが、そのあたりは見てのお楽しみということに。僕としてはちょっと複雑な心情になり、仕方ないながらもそういう選択になるしかないのかな、という気分に陥ってしまった。特に彼は悪くもなんもないという気分があるのかもしれない。正直言って、かわいそうである。
 しかしながら物語はもちろん、中途で障害を負うということがどういうことか、そういうものもひしひしと伝わってくる内容になっている。ロックもやってドラッグなんかもやっている人間だから、そんな風に障害を背負う訳ではない。これは例えばそういうケースがあって、音楽をやっている人間が一番大切な聴覚を失うことがあれば、ということに過ぎない。料理人が腕を失ったり、サッカー選手が足を失うようなものである。その時それで生きていた人間がどうなるのか? ということなのだ。選択はどうあれ、男は必死でもある。そういう気分になれる以前の人だって、たくさんいるのではないか。なかなかハードだが、観る価値のある映画だろう。
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生存に適さない環境

2022-05-11 | Science & nature

 宮城県に金華山という島がある。信仰の島のようで、鹿が生息していることで有名なようだが、ニホンザルも生息している。250頭ほどが6つの群れをつくっている。周囲26キロという限られた環境の中、また東北で冬場が寒い中、野生で暮らしている。厳しいのは環境だけでなく、季節になると単独行動をしている放浪オスが、群れの周辺に集まりメスを争奪する。もちろん群れのリーダーと激しく争うことになる。
 夏場などは木の実などを食べているが、冬になると食べられる食料が減ってしまう。そこでサルたちは海岸べりに降りてきて、海藻を食べるようになる。海藻を食べるサルというのは珍しいらしい。
 また、食糧が不足すると、そもそもメスは出産を減らすらしい。栄養が足りないと妊娠しなくなる可能性もあるが、限られた環境下で自然に出生数を制限する働きがあるのかもしれない。または、オスを受け入れなくなるのだろうか。
 猿の考えと人間の考えは同じではないが、なんでも擬人化して考えてしまう現象のようにも思われる。特に日本と韓国の出生率の低さというのは問題になっていて、子供を持ちにくい社会になっていることは間違いない。昔は貧乏人の子沢山ということも言われていたが(ほかにすることが無いという意味もあったんだろうけど)、先立つものが無ければ、そもそも子供を持たないという考えはあるのではないか。子供は授かりものではあるから、望んだからと言って必ずしもその通りになるものでは無いにせよ、今の子育て世代が、明らかに自然な感覚として子供を持たない(もしくは少なく)、あるいは持ちたくないという考えを持ち、それはおそらく、防衛的な自然な反応である可能性が高いのではないか。
 日本が社会的に子供を育てるのに適さない環境になっているからこそ、自然に制限がかけられているようなことになっていると考えられるだろう。もっとも生命種の本能としては、将来的に生き残る数以上の個体を残すのではないかと考えられている。人間は本能の壊れた種であるとも言われているので、そこらあたりは定義通りに行くかは分からないけれど。
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“それ”は、僕らの恐怖心につけ込んでいる   IT “それ”が見えたら、終わり。

2022-05-10 | 映画

IT “それ”が見えたら、終わり。/アンディ・ムスキエティ監督

 スティーブン・キング原作のホラー。以前テレビ版を少し見たような気もするが、観てみるとほとんど忘れていた。けれど見た目より怖くない冒険物語になっている。どこかでも同じ比喩が見られるが、どちらかというと同じキング作品でも「スタンド・バイ・ミー」のような少年少女の友情物語になっている。また、アメリカにある学校の圧倒的ないじめ問題と家庭における大人の暴力も描かれていて、そちらの方がなかなかに恐ろしいかもしれない。多様性を認める世の中を欲する原動力には、このような時代と抑圧された保守的な背景があるためだろうと理解できるのではなかろうか。
 ある雨の日にまだ幼い弟が行方不明になってしまう。おそらく下水に落ちて死んだのだろうとは思われるが、死体は見つからないままなのだ。そういう過去がありながら、町では子供や少年の謎の失踪が続いている。だんだんと分かっていくのは、この町はある周年周期でそのようなおぞましい事件が繰り返されている歴史があることだった。また悪夢のような幻想のような出来事に遭遇する子供たちがいて、学校の居づらさとは別に子供たちは苦しめられていた。いずれは“それ”が、子供たちに襲い掛かるかもしれない。大人には見えないピエロなどの姿をした”それ”を退治しない限り、本当の平和はあり得ない。しかしながら圧倒的な恐怖と戦いながら、本当に団結して”それ”を退治することが可能なのだろうか……。
 まだ腕力も強くない子供たちにとって、”それ”と個人で対峙してもどうにもならない問題であるようだ。一人ひとり個別に子供たちは襲われ、そうしてあるいは酷いホラー体験を重ねていく。”それ”はかなり近づいていて、間違いなく自分たちは餌食になっていくのだろうと予想される。他にも学校にはすさまじい暴力をふるってくる不良グループがいる。子供のくせに車に乗りまわし、ナイフや銃を持っている。単にいじめられるだけでなく、殺されるかもしれないのだ。しかしいじめられる少年たちであっても、仲間同士で遊ぶ間は、一時の平穏でもあり楽しい毎日である。なんとかうまく立ち回りさえすれば、わざわざ恐ろしい敵と対峙することなく、難を避けて生き延びていくことができるのではないか。
 そういう選択もあるはずなのだが、彼らの中には、家庭を含めて複雑な事情も絡んでいる。子供だからこそ逃げられない問題もあるし、子供だから自ら解決しなければならないこともあるのだ。
 なかなかに厳しい立場に置かれながら、痛快ともいえる冒険物語になっている。ホラー要素は思ったより怖くないので(何より怖がりの僕が言うので間違いないです)、頑張って観てみましょう。
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田舎生活は素晴らしいか

2022-05-09 | culture

 田舎批判の本(田舎はいやらしい/花房尚作著(光文社新書))を読んでいていろいろ田舎のことを考えることになったが、僕も田舎の悪いところ、というか批判的なことを思わないではない。正直言って困るというか、しょうがないな、とあきれてもいる。でもまあ、田舎なんだし、それが翻って田舎の良さでもあったりするわけで、トレードオフで都会よりまし、というに過ぎない。都会の良さは文化的な優位性であって、芸能の世界や情報娯楽を体験したい人にとっては都会でないと成り立たない人間文化があるとは思うものの、別段僕は歌舞伎のようなものにも興味がないし、プロ野球を週末に観戦したりもしない。映画館でないと映画を観た気がしないような感覚もないし、芸能人の追っかけをする気持ちがわいたことも無い。のんびり車に乗って音楽を聴いているは気持ちのいいものだし、行くところが特になくてもインドアで十分楽しい。田舎の不便さというのは、都会の不便さよりも我慢がきくのである。
 でもまあ田舎の人々が恐れていることというのがあって、それはほかならぬ田舎だとバカにされることである。都会の人が田舎に来て自然を満喫しているのを、不思議にもうらやましくも思っていて、そういう風に心から思えないことに、何か妬ましいものを感じている。都会の生活を知っている人が田舎の一面だけ見て楽しめることに、畏怖の念を抱いている。そういう風に思えるように、都会のことを知りたいのかもしれない。そのうえでやっぱり田舎がいいと言える自分になりたいわけで、田舎しか知らないままの田舎の人間であることにげんなりするような、寂しいような気持ちがあるのではないか。
 田舎の人は都会の人に接すると、「田舎なので何にもなくてすいません」と申し訳なくて謝ってしまう。じゃあ都会に何があるのかはよく分からないが、ともかく田舎で嫌なところですね、と感づかれるのが怖くて怖くてしょうがない風である。僕もなんとなく卑下するものの気持ちが分からないではないが、どちらかといえばなんもなくて凄いでしょ、という自慢の方が強い。都会の人に田舎の駅やホームにたって田舎を満喫して欲しいし、線路を歩いていても誰も心配しないし関心もない自由を感じて欲しい。道を聞こうにも誰も歩いてくる気配のない閑散とした道を、じっさいに歩いて不安になる気持ちを知って欲しい。また誰も渡らないのに時間が来ると信号機が変わって、透明人間が渡っているごとく車がぽつんと停車している風景を見て欲しいし、客より店員の方が多い時間帯のスーパーで買い物して欲しい。物が売れないので賞味期限切れのものを買ってしまったり、エレベータやエスカレーターの無い重層的な建物で生活して欲しい。そのうえで、ああ、田舎って楽しいな、と思えるか自問してもらいたいものだ。
 僕は窓を開けると鳥の声が聞こえる環境が好きだし、センスが悪かったりだらしない服を着ても平気な少年少女たちが遊んでいるのを眺めるのも好きである。基本的にはあまり並ばなくていい混んでない店で食事するのもいいし、あんまりきれいな人がいることが期待できない(でも、ときどきは居ることになっているので、そっち方面の人はあしからずご了承ください)スナックで飲んでいるのも気楽である。殺人事件もめったに聞かないし、そもそも新聞に出ている人が顔見知りの人だったりすると大事件である。田舎のわずらわしさといっても、嫌な人とは付き合わなくても済むくらいは疎遠でかまわないし、金持ちもいるかもしれないけど、平均化すると貧乏な人の方が多いのではないかというくらいの公平感もある。都会に行こうと思ったらいつでも行けることだし、それに都会に住まなくてもかまわないのだ。
 田舎自慢はまだまだあるので、シリーズ化してみようかな。
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変人だけど、凄い人  植村直己物語

2022-05-08 | 映画

植村直己物語/佐藤純彌監督

 冒険家植村直己の伝記映画。登山に魅せられ、世界的に主要な山の登頂に成功するなど世界的にも著名な植村だが、あんがいどんくさいところがあって、人と協調するのが苦手な青年だった。冒険には果敢に攻めて成功させるものの、実際には気弱でわがままで、落ち着きがない。親兄弟の支援を受けて学生時代から山に明け暮れ、しかし就職もできず、冒険の体験談などによる著作等で細々と食っていくよりなかった。まだ冒険そのものにも莫大な資金がいることで、友人や先輩を含む各種の企業や個人から支援を受けて冒険を繰り返していくのだった。日本に滞在中によく立ち寄る食堂の娘に恋をして結婚するが、ほとんど家を空けたまま、奥さんにお金を入れるなどすることもなったようだ。
 そのような根無し草のような冒険野郎だったが、将来には北海道に登山などを通じた教育施設を作る夢を持つようになる。そのような夢を抱えながら挑んだ北米マッキンリー(デナリ)登頂は成功するものの、下山途中で帰らぬ人となってしまう。そのような植村の冒険の一生を、割合克明に描いた作品なのではある。主演が西田敏行で、実際にエベレストや北極圏などにロケに行って、過酷な環境で植村を演じている。妻役が倍賞千恵子で、「男はつらいよ」のさくら役とはずいぶん違った情熱的な女性を演じている。そういうところは単なる記録映画とは違う魅力かもしれない。
 僕の子供のころに活躍した著名な冒険家なので、当然記憶にある。行方不明後著書も読んだ。エスキモーとの交流などが書かれていたと思う。また冒険しているときに、戻ったら何を食おうとか考えているエピソードがあって、食べるのを楽しみにしていた鳥の発酵食品を誰かに食われて発狂したように怒ったなど、なかなか面白い人なんだな、と思っていた。映画の演出にもあるが、冒険に対する執着と、生活に対するいい加減さがあって、人付き合いはあんまり得意では無かったようだ。そういう中妻となった公子との精神的後ろ盾を得て、長期にわたる冒険を成功させたのだが、けっきょく後に帰らぬ人になってしまった。冒険家として慎重な人ともいわれていたが、それだけ冬山の厳しさというのは、想定を超えるものなのだろう。また、定職に向かない人だったとはいえ、冒険で食べていく道を作った人ともいわれていて、その後多くの日本人の冒険家が生まれる素養を育んだ功績も認められているところである。合掌。
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やっぱり田舎はそうですか   田舎はいやらしい

2022-05-07 | 読書

田舎はいやらしい/花房尚作著(光文社新書)

 副題「地域活性化は本当に必要か?」。書名副題の通りで、田舎の過疎地の人々が、いかにいやらしい人々なのか、ということを書いてある本。一般的に田舎の活性化政策は良いこととされているけれど、それはなかなかに成功しない。それは田舎の人々には必要のないことだし、そもそもそういうことにほとんど意味など無いことを喝破している。都市部には人が集まる理由があるし、過疎地は人がいなくなる理由がある。原因があって結果があるわけで、その結果を見て原因を変えることはできない。だからまちづくり活性化は失敗しているということである。そもそも田舎の人々は、本音では夢や希望なんてものを抱いていない。いやらしい人々しか住んでないので、住みにくくてそうなっているのであって、そういうところに好き好んで住む人々なんてものはいない。そうして田舎に残っている人々にとっては、いやらしい人だらけの社会なので、彼らなりに満足なのである。
 なかなかに辛辣だが、まあそうかもな、というところもあって面白い。著者はちょっとひねくれているところもある気がするけど、それは田舎に住まざるを得なくなった自分の境遇への恨みのようなものなのかもしれない。しかしながらこれはギャグでは無くて、それなりにまじめに考察したものである。調査だってしていて、客観的な資料もある。しかしながら文章を読むと、基本的には田舎者に対する悪口である。それはそれで面白いけれど、本当にそんなものかな、という思いもあった。
 それというのも僕も田舎暮らしで、それも普通の田舎ではなく、おそらく近い将来において財政破綻する可能性の高い限界集落の暮らしも知っている。実際に住んでいるのはとなりまちで、そこも田舎には違いないが、ここに描かれるようなところとは乖離がある。そういうこともあるが、僕が知っている田舎というところとはかなり違うような気がする。著者が語っている場所は鹿児島の田舎のようで、少しばかり事情は違うかもしれないが、同じ九州だし、似たり寄ったりであることは容易に予想がつく。田舎のいやらしさという表現でくくられているけれど、ほとんどの内容はお年寄りのいやらしさであって、田舎特有のものではないようにも思う。それに田舎だから満足して何もしないし妨害ばかりしているようなことも書かれてあるが、それは都会の日本の村社会にはどこにでも見られることで、よっぽど著者の周りの局地的な現象なんじゃないかという部分も多い。田舎はなんにでも干渉してくるのは事実だが、そもそも人が少ないので、自分自身が田舎に干渉しているという事実の上に干渉してくるわけで、お互い様なのである。都会のような暗黙のルールはむしろ少なく、しかしあけすけの環境で生活はあたりに丸見えだから、情報は簡単に広がってしまう。しかしそれは都会の数人のグループにおいても同じことであって、その地理的な範囲が広いために感覚的に勘違いを起こしているに過ぎないのではないか。もっとも実際に過疎地に住む気にはさらさらなれないのも事実だが、縁もない場所に行きたくないのはどこも同じことである。それでも憧れる人はたまに移り住んでくるし、やっぱりいなくなる人もいるけど、適応する人もいないではない。要するに向き不向きの話であって、田舎だからいやらしい訳ではない。
 よく都会の喧騒が嫌になるということも言われる訳で、確かにのんびりやらなければどうにもならないとことはある。何しろ人が住んでいないので、人にはあまり頼れない。だが、田舎はそういうあわただしさが無いかといえばそんなことはなく、どこに行くにも距離があるので、朝早く起きて準備をしないと間に合わない。何でも自分たちでやらなければならない分生産性が低くなっていて、あわただしく動いていないととても一日を過ごすことができない。さぼった分はさらに生産性が落ちてしまうので、共同体全体で忙しく働いてないと今のままの生活も維持できない。しかし世の中は高齢社会であって(高齢化ではなく、どっぷりとすでに高齢社会だ)、事実上都市部の金をあてにした交付金を伴う分配社会になっていて、それで命をつないでいるのである。
 ということで田舎には構造的に致命的な欠陥があるのは確かなので、結論としては同じかもしれない。そうして静かに、しかし壊滅的にものすごい田舎は掃滅していくのだろう。
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人質と犯人、協力体となる(かも)   ストックホルム・ケース

2022-05-06 | 映画

ストックホルム・ケース/ロバート・バドロー監督

 1970年代に実際にスウェーデンで起きた銀行強盗人質立てこもり事件を題材に、その人間模様を追った作品。凶悪(と考えられる)な犯人に銃口を向けられ抵抗できない人質の身にありながら、徐々に犯人に共感を抱き協力するような心理になったとされる症候群とは、いったいどのようなものなのか、ということもこれを見ると分かる。実際には様々な要因が重なっており、警察や政府のやり方で犯人たちは追い込まれていき、行動を共にとらざるを得ない人質も、犯人とともに警察などに反感を募らせていったことがよく分かる。そうして犯人といえども人間的なところがあるわけで、何か同情の余地というか、憎めない人物でもあったようだ。馬鹿には違いないが、本当に人質を殺そうというか、あくまで利用しているに過ぎないことも感じられるわけで、そういうことに非協力的な警察や政府はひどいのではないか、とだんだんと思えてくるのだった。それは人質のみならず、おそらくこの映画を観ているものも、同じように感じられたのではなかろうか。
 人質の命の重さの問題があって、その命を盾に取られると、警察側もむやみに手が出せなくなるのは、ある程度は仕方のないことである。また立てこもり事件となると、当時も今も多くのマスコミがこれを取り囲んで監視することになる。それは多かれ少なかれ警察の動きも監視していることと同義であり、一般世論の厳しい目もそこには注がれている。警察は事件解決のために動いてはいるわけだが、当時のスウェーデンでもめったにない事件であり、いわゆる経験が少ない。このような劇場型の立てこもり事件としては世界中でも例のないものだったともされていて、特殊な状況が重なっていたものとも考えられる。
 ストックホルム症候群については、うろ覚えだが、その後他国でも人質と犯人の奇妙な共同感覚が指摘される事件があったと思う。もちろん殺されるかもしれない恐怖から逃れるためにも、犯人の要求にこたえることで、小さい無力な子供が親に頼るような心理に陥るようなこともある、と言われる。人にもよるのかもしれないが、そうした心理は必ずしも異常なものとは言えないということかもしれない。
 この映画では、犯人と人質の愛のようなところまで踏み込んでいるのだが、さてそれは実際にはどうだったのだろうか。面白い映画だが、観るものもそういう意味では試されているのかもしれない。
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首が回らなくなった

2022-05-05 | 掲示板

 元々肩こり症というのはあると思う。パソコンも扱うし、ただでさえ目が疲れる。散歩をする毎日ではあるが、運動不足気味ともいえるかもしれない。散歩以外これと言って何もしないからだ。以前のように腰痛になるようなことはめったにないが、肩の凝りはいつも気が付けばあるような、慢性的なものもあるはずである。
 ところでなんだか首が痛いのである。後ろを振り向くと首から肩にかけて痛みがある。飛び上がるほどでは無いにせよ、思い切って振り向くのが怖いくらいには痛い。肩こりは右肩や右の首筋にも感じてはいるが、振り向いて痛いのは左側である。自分でトントンと叩いてみたり、首筋に指をあててみたりすると、ところどころにピリピリ電気信号が来るような痛みを感じる。しこりのようなものがあるところもある。ゴリゴリ揉んだわけではないが、いくらか揉んだりほぐしたりして、そうして首をすくめたり腕を回したりする。痛いが気持ちがいいという感じもする。首を回して特に痛いところで止めてみたりする。肩甲骨の凝りも相当あるようで、胸を張るように腕を曲げて後ろに持っていったりする運動を何度も繰り返した。血行不良なら、これで強引に血流が回ったはずである。
 ところがである。翌日になるとさらに痛いのだ。めったに動かさない運動をしたせいで、揉み返しのようなコリが増してしまったのかもしれない。たまらないので湿布をしてもらって、ちょっと安静にして見た。ひんやりとした湿布はさすがに気持ちよくて、これはいいかもな、とは思っていたが、二三日すると飽きてしまった。確かに最初は気持ちいいが、これで完治するという感じではない。それに時には煩わしい時もあって、匂いもするし、面倒に感じるのかもしれない。
 それでまた数日すると、やはり首が痛いのである。あんまり触るのは逆効果のような気もしてきたので、腕だけ回したり肩をすくめたりの運動を再開。これも数日間。しかしよくなる気配はいっこうに感じない。
 それで考えてみると、事業所のすぐ近くにも整体院があることを思い出した。うちの職員も以前働いていたとも聞いたことがある。評判どうなの? と聞いてみると、すぐにラインしたらしい。ウーム、それじゃ行かなきゃかな。
 ということで行ってみたが、ずいぶん若い青年で懇切丁寧に施術というのをしてくれた。やはり首のところどころに張りがあることと、ずれのようなものがあるというのだった。適当にいろいろあって、首を二度ゴキッといわせて、電気治療をした。劇的に改善したという訳ではないけれど、そうやって二度ほど見てもらった。見てもらったすぐはいくぶん軽さがあるけど、翌朝になるとどうなんだろう。自分でもよく分からない。痛いのにもなんとなく慣れてきたような気もするし、そういうのは改善されている証のようなことになるんだろうか。分からないので、もう少し行ってみることにしよう。
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久しぶり3

2022-05-04 | 散歩
4日

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娯楽作だが、娯楽だけではない   ミッドウェイ

2022-05-04 | 映画

ミッドウェイ/ローランド・エメリッヒ監督

 何度も映画化されている題材で、またハリウッドに限らず、アメリカ的にも国を鼓舞しアメリカ人の心においても重要な歴史的な勝利でもあったことから、日本人である僕らにとっては、ちょっと面白くない感じが付きまとっている印象を持っていた。評判はとてもいいが、さらに監督がローランド・エメリッヒである。演出はド派手で破壊的であるが、人間ドラマはどうなんだろうな、という作風が多かったので、さらに警戒を持っていたかもしれない。そういうことで、普通なら敬遠して観なかったはずなのだが、なんとなく魔が差したというか、観始めてしまった。それでかなり意外だったのだが、かなりいいのである。歴史的にそれなりに忠実というか、日本人の側の事情も描いており、もちろんアメリカ的な英雄譚も中心ではあるのだが、バランスが悪い訳ではない。アメリカが勝つことは誰でも知っているお話でありながら、ともに戦争という仕方のない状況に必死になって戦っている状況を、割合素直にたどっている作品なのだった。
 ミッドウェイ海戦は、戦況としては日本の側にも勝機はあったとされている。当時の日本の海軍の力はそれなりに高く、劇中でも語られている通り、むしろアメリカを凌駕していた。歴史にもしもがあるとすると、この作戦が形通りうまくいったとすると、最終的にアメリカに勝てたかどうかは別として、後にアメリカ本土にも攻撃を仕掛けられただろうし、早期の和平交渉に持ち込めた可能性すらあったかもしれない。そうしてこの初期の事実上の敗戦により、日本の命運は決したと言っても過言ではないと言われている。
 また改めて映画で振り返る通り、当時としても情報戦において既に大きな差があったことも見て取れる。アメリカ軍は暗号解読とともに、敵である日本軍の戦略の方向性を確実に把握していた。またその重要性にも十分に熟知されており、その備えによってミッドウェイ海戦を迎え撃つ準備を怠っていなかった。ここにこの海戦の雌雄を決する重要な要素が詰まっていたのである。もちろんアメリカ軍の士気を高める勇敢な人間も多数あったものだろう。これらのエピソードを改めて見ると、やはりこの戦いの勝利が後に与えた影響力の高さも感じられるものだろう。
 もちろん娯楽作としての演出のド派手さは健在で、現代のCGによる技術による映像の再現や過剰さも映えている。ほとんどスターウォーズの世界だが、より生身の命が使われている迫力も演出されている。そうして彼らは、その恐怖とも向き合いながら、個人としては戦争という究極の不条理(もちろん当時の国としての義はあるわけだが)に命を懸けたのである。
 太平洋戦争から相当な時間を経て、現代人は両国ともに、比較的客観冷静に当時を振り返ることができるようになったのかもしれない。もちろんこれは娯楽映画なので、解釈として本当に忠実であるかという検証に耐えるものではないかもしれない。もちろん今の世になってもなお、戦争が起こっているという現実に突き付けられてもいるわけだが、この映画が語るところにある戦争という姿が、殺し合いによる勝つか負けるかだけの戦いということに尽きるということかもしれない。もちろん勝ち負けだけなく、その後にも長い年月をかけた苦しみが続くことも、歴史は語り掛けているわけだが。
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多様性と時代は巡る

2022-05-03 | 音楽

 今巷間では、ギターロック復活というトピックで盛り上がっている。なんのこっちゃ、という感じもしないではないが、本当にそういうことなんだろうか。
 ラッパーだったマシンガン・ケリーは、ギターを持ってパンクロックのようなことをやっている。ライブに来たファンが、ギターを弾くロックというのは初めて見たというんだよ、と語っていた。どういうことかというと、今はヒップポップとかばっかりで、ギターロックを聴くことも見る機会も何年もの間なかったからだろうという。ほんとにそんなものなのかな。
 僕はヒップポップは聴かないし(まあ、普通の同世代日本人よりは聴いているかもしれないが)、ヒットチャートにも興味がないから、本当の今の流行りというものは知らないのかもしれないが、いわゆる今でも聞いているロックのほとんどは、昔から今までほとんどギター・ロックばかりである。だから世の中がそんなことになっているなんて印象は露ほども感じていなかった。今だってラジオでかかっているのはウィーザーだったり、レッチリだったりするし、最近はブラック・キイズがまた何か出したな、という感じだし、それらはちゃんとヒットしているはずなので、ギターロックを聴いてない人々の存在の方が稀有な印象を持つんだが……。しかしまあピンク・フロイドが新譜を出したりして(これはウクライナ戦争があったからだけど)、世の中信じられないようなことが起こり得るんだな、ということは感じている。
 でもまあオリビア・ロドリゴが長い間ヒットチャートに残っていて、ちょっと昔っぽいポップ・ソングが流行るものなんだな、とは感じていた。でもこれは今時の多様性ともおそらく関係があって、父親がアジアンのようだし、ビーバドゥビーもサラミもそうなんだという。ミツキは日系が混ざってるようだし、スーパーオーガニズムはボーカルが日本人だし、最近は星野源もかかわっている。ジャパニーズ・ブレイクファーストは名前からして日系かと思ったら韓国だそうだ。そういう感じじゃないと流行らないということはないかもしれないが、いわゆる多様性が具現化した現象であって、人々が素直に偏見などを感じることなく受け入れられるようになった、ということは言えそうだ。
 ギターロックとは関係ない話にはなったが、時代が回転して先祖返りするようなことはあるようで、そういうものが若い人には新しく聞こえるのだということであれば、そういうものですか、とちょっとだけ驚いて見せても良い。というか、それなら一緒に聞きましょうよ、という気分になってもいいかもしれない。
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