カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

僕の名前を選んだ話

2022-05-25 | 母と暮らせば

 僕は六人きょうだいの三番目の次男坊である。僕らの名前は上の三人まで(つまり僕まで)祖父が付けたと聞いている。親孝行のつもりだったのか分からないが、孫ができて喜ぶ父を断ることが、両親(特に父)にはできなかったのだろう。さすがに下の弟から父が付けたらしいので、きょうだいの名前の系統が、ここからがらりと変わってしまう。別に誰からつけられた名前だからという意識は普段感じられるものではないだろうが、客観的に見て、やはり上の三人の名前の方が古くさい感じがしないではない。
 という前提がまずあるのだが、僕の名前の話に関するものは、母の定番である。最初、僕の名前とされていたものは、今の僕の名前とは違うものだった。実は僕には一つ違いのいとこがいるのだが、その名前が第一の候補だったというのだ。それを母がどうしても気に入らず、今の僕の名前に変えてもらったのだという。そうだとしたら、なんとなくいとこに気の毒な印象をもつものだけれど、たぶん、そうやって暗にいとこの境遇を非難している可能性すらある。母は基本的に人の悪口しか言わない。
 さらに、そうやって母が認めた名前だからこそ、僕の名前が素晴らしいということにもなる。僕にはそんな価値観というものがよく分からない人間だから、きわめてどうでもいい話に過ぎないが、母が選んだと言っても単に今はいとこにつけられている名前と、今の僕の名前と比較してのことであって、確かに今は自分の名前になじんでいるのだから、特に変えたくもないというだけの話で、どっちがいいという特徴が特にあるわけでもない。どちらかというといとこの方が珍しく、僕の方が平凡である。さらに名前の系列というのがあって、僕の兄の名前と、僕の名前というのは系列立ってもいる。どちらも祖父の名前の一部が使われていて、共通である。いとこの場合もそうではあるけれど、いとこの名前を使った場合には、身内でない限り客観的には、共通性が分からなくなってしまう仕掛けが施されているのである。
 何が言いたいかというと、おそらく母の言っていることは嘘に過ぎない。祖父の性格は知らないけれど、きょうだいとして孫の名前を考えた時、僕の今の名前である方が絶対的に自然なのである。また、母親の話でまったく嘘の含まれていないものなど考えられない訳で、母はこの話を自分の能力の伴う美談として捉えているのだけれど、僕はこの話が嫌いである。それは僕の名前が平凡だということとは関係が無く、単につまらないものであると自覚させられるような気分にさせられるからである。
 なぜそうまでして母は僕の名前の仕掛けに、嘘を馴染ませたいのだろう。それは一種の支配欲のようなものなのかもしれない。そうしておそらく当時の家というものの支配から逃れて生きたかった、嫁に来た境遇への恨みかもしれない。そう考えると気の毒なところが無い訳ではないが、実のところ長男の嫁でありながら実家暮らしをするわけでもなかったのが事実である。また、自由でわがままだった母が、家というものに縛られて生きてきたと考えるのは浅はかである。母の本質というものを見誤ってはならない。母の言う昭和の女の境遇というのは、おそらくテレビドラマの世界を見てそう考えていただけのことであって、母の実際の体験などではない。母は親戚の人間からは(そうして他の多くの人からも)好かれてはいなかっただろうから、そういう意味ではつらく感じられたことが無かったとは言えないが、ちゃんと反発して喧嘩しただろうことも間違いなさそうで、はっきりと親戚の者たちは母を怖がっていた。そういう中でも、なんとか立ち回っていたというだけのことで、今となっては付き合う人など一人も残ってはいない。もっともだいぶ死んでしまった訳だけれど……。
 しかしながら僕の名前には、その間違った由来が付いたまま、誰もその真実を語ってくれる人がいなくなった。もうどうでもいいことではあるのだが。
コメント (1)
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