“隠れビッチ”やってました。/三木康一郎監督
原作があるらしい。承認欲求なのか、男から言い寄られて告白されることだけを目的にモテ女を演じている主人公がいる。実際可愛らしいのだが、本当に付き合う気はサラサラないことと、どうも子供のころに父親から虐待されていた過去があり、心の傷があるらしい。彼女は料理上手のゲイの男性と、友人女性の三人で一軒家をシェアして暮らしている。普段はデパ地下売り場のようなところで働いているのだが、ちょっといい感じのイケメンにはフラれ、失意の中飲んだくれていると、すでに中年の職場上司に介抱されていい仲になっていくのだったが……。
ビッチというのは俗語で盛りのついたメス犬をさす罵倒語だが、実際セックスをしたがる訳ではないので、極端な解釈語のような気がしないではない。かといって罪のない男の情欲を弄んでいるということにおいて、いわゆる最低な女であるという意味なのかもしれない。しかしながら僕が若い頃に友人の女の子から聞いたところによると、自分に自信が持てなかったり落ち込んだりしたときには、コンビニとか盛り場のようなところに一人で行って男たちから声を掛けられると元気になる、という話は聞いたことがあるので、そういうタイプの女性というのは一定数いるのかもしれない。それが特に最低な行為なのかは、僕にはとても分からないのだけど。
でもまあ演じている女優さんは一定以上に可愛い美人なのだから、あまり説得力はない。そういう思わせぶりなことをしなくても、男からの承認欲求が無い立場ではない。むしろ大切なのはその後の自分自身の恋愛にあるはずで、だからその設定はあるとしても、その後のお話の方が重要である。いちおう虐待の過去があるので、そのような精神的な傷をどのように克服するのか、というお話でもあるのかもしれない。それには大人の男の存在ということなのかもしれなくて、これもそういうものなのかな、という気もしないでは無かった。また、エンドクレジット後に仕掛けがあるのだが、これは映画的な娯楽的な要素だと言っていいのかどうか。まあ、本当にそういう映画なのか、という疑問も浮かぶ感じだった。もちろんこれを人間再生の映画だとすると、答えは明確であるはずだが……。
映画を観ての感想なので、考え方に過ぎないが、さらに僕は男なのでそう思うのかもしれないが、そういう承認欲求も含め、自分の生きづらさに引きずられすぎているのではあるまいか。それは虐待体験という強烈なトラウマの所為だとしても、何もかもが人の所為にありすぎる考え方そのものにあるようにも感じる。もちろん人間関係を重んじる生き方には、相手も大切であることは間違いないだろうけれど、それもやはり自分次第の延長である。モテないのは悲しいことには違いないものの、誰からもという方向性については、セックスというリスク(実際自分はしたくないと思っている女性なのだから)を背負っている人間が、これを繰り返す意味というのは、やはり最後まで分かりにくいのだった。