カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

田舎生活は素晴らしいか

2022-05-09 | culture

 田舎批判の本(田舎はいやらしい/花房尚作著(光文社新書))を読んでいていろいろ田舎のことを考えることになったが、僕も田舎の悪いところ、というか批判的なことを思わないではない。正直言って困るというか、しょうがないな、とあきれてもいる。でもまあ、田舎なんだし、それが翻って田舎の良さでもあったりするわけで、トレードオフで都会よりまし、というに過ぎない。都会の良さは文化的な優位性であって、芸能の世界や情報娯楽を体験したい人にとっては都会でないと成り立たない人間文化があるとは思うものの、別段僕は歌舞伎のようなものにも興味がないし、プロ野球を週末に観戦したりもしない。映画館でないと映画を観た気がしないような感覚もないし、芸能人の追っかけをする気持ちがわいたことも無い。のんびり車に乗って音楽を聴いているは気持ちのいいものだし、行くところが特になくてもインドアで十分楽しい。田舎の不便さというのは、都会の不便さよりも我慢がきくのである。
 でもまあ田舎の人々が恐れていることというのがあって、それはほかならぬ田舎だとバカにされることである。都会の人が田舎に来て自然を満喫しているのを、不思議にもうらやましくも思っていて、そういう風に心から思えないことに、何か妬ましいものを感じている。都会の生活を知っている人が田舎の一面だけ見て楽しめることに、畏怖の念を抱いている。そういう風に思えるように、都会のことを知りたいのかもしれない。そのうえでやっぱり田舎がいいと言える自分になりたいわけで、田舎しか知らないままの田舎の人間であることにげんなりするような、寂しいような気持ちがあるのではないか。
 田舎の人は都会の人に接すると、「田舎なので何にもなくてすいません」と申し訳なくて謝ってしまう。じゃあ都会に何があるのかはよく分からないが、ともかく田舎で嫌なところですね、と感づかれるのが怖くて怖くてしょうがない風である。僕もなんとなく卑下するものの気持ちが分からないではないが、どちらかといえばなんもなくて凄いでしょ、という自慢の方が強い。都会の人に田舎の駅やホームにたって田舎を満喫して欲しいし、線路を歩いていても誰も心配しないし関心もない自由を感じて欲しい。道を聞こうにも誰も歩いてくる気配のない閑散とした道を、じっさいに歩いて不安になる気持ちを知って欲しい。また誰も渡らないのに時間が来ると信号機が変わって、透明人間が渡っているごとく車がぽつんと停車している風景を見て欲しいし、客より店員の方が多い時間帯のスーパーで買い物して欲しい。物が売れないので賞味期限切れのものを買ってしまったり、エレベータやエスカレーターの無い重層的な建物で生活して欲しい。そのうえで、ああ、田舎って楽しいな、と思えるか自問してもらいたいものだ。
 僕は窓を開けると鳥の声が聞こえる環境が好きだし、センスが悪かったりだらしない服を着ても平気な少年少女たちが遊んでいるのを眺めるのも好きである。基本的にはあまり並ばなくていい混んでない店で食事するのもいいし、あんまりきれいな人がいることが期待できない(でも、ときどきは居ることになっているので、そっち方面の人はあしからずご了承ください)スナックで飲んでいるのも気楽である。殺人事件もめったに聞かないし、そもそも新聞に出ている人が顔見知りの人だったりすると大事件である。田舎のわずらわしさといっても、嫌な人とは付き合わなくても済むくらいは疎遠でかまわないし、金持ちもいるかもしれないけど、平均化すると貧乏な人の方が多いのではないかというくらいの公平感もある。都会に行こうと思ったらいつでも行けることだし、それに都会に住まなくてもかまわないのだ。
 田舎自慢はまだまだあるので、シリーズ化してみようかな。
コメント
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