僕は料理はしないのだが、料理番組はよく見る。包丁で野菜を切る音なんかも好きで、そういう動画があると見ハマってしまう。魚屋さんが裏でさばいている風景もなかなかかっこいい。僕は血に弱いので、包丁を持つと恐ろしくなって震えてしまうタイプだと思うが(そういう経験もほとんどないから分からない)、指を切らないのであれば何とか扱えるかもしれない。一人暮らしをしていたこともあるわけだし、1週間くらいは自炊の真似事だってしていたんじゃなかったっけ? 結局面倒でやめたのであって、できないからやめたわけではない。でもまあ、だからいつまでもできないのだから、もうできるようにはなれないのかもしれない。
それというのもインスタント製品は充実しているし、レンジで温めたらなんとかなるような商品がたくさんある。そういうもので生活するのはなんとなくわびしいし、そういう環境でない幸福を享受していることに感謝をしているが、もしもの時があるとしても、やはり料理をするに至らない自分がいるのではあるまいか。スーパーには出来合いのお惣菜があるし、仕事の帰りにそれらを買って並べてしまえば、飢えるということはとりあえずなさそうである。酔って片づけをしないということは起こりそうだし、そういう不衛生がたたって病気をするということも考えられるが、とりあえず飢えて死ぬということにはなりそうにない。そうしてそういう境遇にありながら、料理の腕を磨くこともできないのだ。
そうであるのに僕は日々料理番組を眺めている。これは来るべき日に備えてそうしているわけではないということにもなる。ああやったりこうしたりする動作を楽しんで見ているということだ。
料理というのは面白いもので、いろんなものを組み合わせると、いづれは完成する。テレビだから味までは分かりえないが、たいていテレビで料理を作っている人はプロのような人々で、なかなかに旨そうである。そういう完成品が日々生まれるのを見ると、なんとなく僕の心も充実していくような錯覚を覚える。
僕の仕事が特殊という訳ではなかろうが、毎日何かしらやってはいるものの、ちゃんとした完成を見るというか、しっかりした区切りであるとか、そういう成果のようなものが、現物として目の前の現れるようなものではない。いちおうの終わりのようなものはいくつか得られはするものの、それは時には暫定的であったり、終わったように見せかけて新たな始まりであったりもする。そうして一日が終わり明日が来て一週間が過ぎていったりする。だから不満があるとかそういうことではないけれど、そういうたぐいの仕事をやっている身からすると、料理ってやっぱりいいかもな、とは思う。
しかしまあこれも現実を考えると、一つ作ってもまた作らなければならないこともあるし、流行りの店だと同じものをいくつもいくつも毎日毎日作り続けなければならないものなのかもしれない。一種の修行めいてもいて、だから料理人は年期がたつとそれなりに崇められたりするのではないか。しない人もいるけど。つまるところ、僕に向きそうな仕事ではないということに過ぎないのかもしれない。