カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

猿のコーネリアス

2021-07-24 | 時事

 小山田圭吾って人のことは知らないと思っていた。しかしながらコーネリアス? なんだか聞いたことがあるような……。録画して観ることがある「デザインあ」というのがEテレであるのだが、今年この挿入歌を中心とする演奏の映像が流れた。音の使い方が非常に上手くて、テクニックもすごい。さらにその曲の広がりも素晴らしい。日本人にもこんな人たちがいたんだなあ、と、かなり感心してしまった。僕の好きな分野とは言えないが、凄いことには変わりがない。音楽の可能性って、やっぱりいいなあって感じだった。こんな風に人の心を動かすことができるんだから。
 ということで、あの人だったのか。記事を読む限り、ずいぶん前から執拗に狙われていた人らしく、とうとうオリンピックの政争に巻き込まれ、事実上永久追放されてしまったようだ。いかにも現代人の単純正義らしい出来事だ。
 もちろんやったことの卑劣さが許されることではない、という話はもっともらしく聞こえる。そりゃそうだけど、そもそも過去のそういういじめ自体が、事実なんだろうか? 内容がひどすぎるし、盛っているんではないか、とも言われている。そうであれば、やはり事実究明が必要な案件ではなかろうか。たとえ過去すぎる問題だとしても、許されない行為であればこそ、そうすべきだろう。被害者が思い出したくなく、出ても来られない状況ならば、なおさらそのことも考えながらやるべきだろう。私刑は許されるものではないし、復讐も残念ながらやれるものではない。今のような状況で社会制裁することはフェアではないばかりか、悪質である。
 小山田という人が、なぜそのようなことを雑誌に語ったのだろうか。音楽を創作するということと、そのような強烈ないじめをしたという体験が、何かつながるようなことを考えていたのだろうか。人前でオナニーをさせたりうんこを食べさせたりするというのは、殴る蹴るという具体的な身体を傷つける行為以上に、その人を傷つける強烈な虐待である。しかしながら、いわゆる小説や若者向けのノベルものの中では、よく出てくる、言ってしまえばありふれた表現である。ふつうはいくら何でもそこまでのいじめにまでは至らない。似たようなところまでは行く可能性もあるが、あくまで密室であろうし、それが漏れると、学内でもそれなりに大きな問題に発展することだろう。だから事実ではないということではないが、少年であるとか子供の残忍性を見つめ直す時に、そのような心象風景というのは、実際にありそうな気もするのである。大人になれば絶対にやらないしやれないことであるが、そのような残酷な時代を経て、特殊な体験を経て、今の自分があるというのは、語られる意味のようなことを、何か含んでいるのだろうか。ものすごくいやな気分にさせることができることで、また、そのような表現を何かに応用できるようなことがあるのだろうか。
 人の気持ちを、そのようないじめ体験を語ることで揺さぶることができる。雑誌のような活字が残る媒体で、著名になった自分がそれを語る気負いがある。誰もが普通はそんなことはしないし、できもしない。いじめをやってきた張本人というのは、そのような悪質な部分を抱えていることをひた隠す方が自然である。それを武勇伝のように語れるというのは、その雑誌の方向性や演出を含んでいる可能性を捨てきれない。
 そもそもオリンピックというのは、きれいな大会ではない。そんなことは大人の誰もが知っている。しかしながらそういうものを強烈に含んでいるからこそ、表面的にはやはり強烈に人を動かす力を持っている。そういう様々な圧力やゆがみを、舞台裏から引きずりだして揺さぶろうとする力がある。少なくともこれで、これに関わる人の人生は大きく変えられてしまった。そういう意味では、この問題を忘れないでいるということにも、それなりに意味がありそうな気もする。この問題以外でも、退場したままの著名人は複数いる。沈黙を続けるよりないのだろうが、いったい何を思っているのだろうか。
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