カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

呆れた愚か者の人生   天国の日々

2021-02-13 | 映画

天国の日々/テレンス・マリック監督

 鉄工所で働いているビルは、喧嘩をして人を殺してしまう。恋人と妹を連れて逃げて、テキサス農場に流れ着く。季節労働者として麦の収穫をするが、仕事は楽ではない。ひょんなことから農場主は病気で、余命一年だという情報を得る。その農場主はビルの妹と偽っていた恋人のアビーに恋しており、求婚する。どうせ長い命じゃないと説得して恋人を農場主と結婚させて、金持ちの生活を送ることになるのだったが……。
 映像の美しい名作と名高い作品である。撮影も凝っており、演出も最小限の説明しかされず、風景織りなす中で、人々の感情を表現している。まあ、いわゆる芸術的である。しかしながら芸術作品の多くがそうであるように、多少難解な上に、主人公たちは自己中心的すぎて、やっていることが訳が分からない。いわゆる結婚詐欺をやっている訳だが、バレない方がおかしいわけで、詐欺にあった方が怒るに決まっているではないか。そうして映画の文法として、破滅の道にあるのは分かっている。そういうのを見て面白く感じる人というのは、これまたちょっと変わった人たちなのではないか。
 確かに罪を犯して逃げ続ける男を演じるリチャード・ギアは二枚目だし、運がないので、恋人まで使って何とか這い上がろうとしているのは分かる。そうして時々は農場主の目を盗んで(しかし堂々としている)逢引する。馬鹿なのである。農場主は、ブルジョアで金持ちだからそのようにして苦しんでいいということなのだろうか。まったくこの価値観は、チンプンカンプンだ。ヒモとして生きているのに、女に嫉妬してしまったりする。ふつうに考えて、他に味方がいるとは思えない。敵が増えるに決まっているではないか。
 こういう破滅の美学というのは、時々映画になる。需要があるということだろうか。しかし、この映画の語り手の妹も、なんだかこういうことを繰り返しそうに見えなくもない。懲りない生き方賛美なのかもしれない。僕としては、呆れてしまうより無いのである。
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とりあえず、20分ルールを守ろう

2021-02-12 | HORROR

 最近特に子供の近視が問題になっているということだった。近視というのは年齢を重ねるごとにその割合は一定の水準で増えていくものだが、近年は近視になる若年化が進んでいるうえに、そうであるからこそ、経年による近視の重度化へもつながっているということなのかもしれない。さらに、やはり子供の置かれている環境において、近視になりやすいものがありそうだということだった。
 まず近視になるメカニズムの多くは、眼球の形である眼軸というものが変形することで生まれる。何故眼軸がゆがんでしまうのかというのは、近くのものを長く見る行為が原因とされる。眼球の底にある中心窩に焦点が定まるようにレンズで調整をするわけだが、近すぎるものに焦点を定めようとすると、レンズの調整では限界となりボケて見えてしまう。眼球はさらに裏技を使って眼球自体を奥に伸ばして、中心窩の距離を奥に置くことで調整を図ろうとする。そういう状態が長く続くと、結果的に眼球は楕円状に変形して元の形には二度と戻らない。怖ろしいことだが、ものを見ようとするメカニズムそのものが、自らの体の一部である眼球を変形させてしまうのだ。考えてみると、それほど近くばかり見るという行為は、人間の持っている反自然的な行為・習慣になっているのかもしれない。
 また、近視が進むことで物がはっきり見えなくなることは、様々な生活の支障をきたすことになる。見えないので無理して見たり、近業(近くを見ることを、そのように業界用語でいうらしい)をもっと増やしてしまったりして、さらに目を悪くする。そうして屋外に出るのがおっくうになったりすると、鬱症状が出たり痴呆症が進行したり、ということが起こるらしい。
 目をこれ以上悪くしない、などの対策としては、出来るだけ明るいところに一日2時間以上いる必要があるらしい。明るさの目安としては1000ルクス以上必要とされ、それはほぼ外の日光の力がないと難しい。屋内環境では、例えば窓側の席であっても、800ルクス程度にしかならない。商店でも照明の多いスーパーなどは1000ルクスあるというが、買い物に2時間という人は現実的ではない。ともかく屋外で作業をするとか散歩する習慣を作るとか、工夫が必要だ。
 また、近業をどうしてもしなければならないとして(仕事上仕方ないとか長時間勉強する学生もいるだろう)、20分作業をしたら、6メートル以上の遠くを20秒眺める、ということで、かなり目を休めることが可能だという。20分タイマーを付けて、強制的にそういう休憩をはさむ必要があるかもしれない。
 僕は小学4年の時から近視のために眼鏡をつけている。今も二三年に一度のペースで眼鏡を買い替えている。主にレンズが傷むせいだが、近年は老眼も進んでいるし、微調整でそれなりに目の悪さには歴史を踏んでいることだろう。将来的には白内障や網膜剥離、緑内障予備軍といえるかもしれない。現状をどこまで踏みとどまらせたままで生きていくか、それは切実な課題ということなのだろう。
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マリリンとロンドンの出来事   マリリン7日間の恋

2021-02-11 | 映画

マリリン7日間の恋/サイモン・カーティス監督

 上流階級出身のコリンは、銀幕の世界にあこがれて家を飛び出し、何とか第三監督という事実上雑用係の職を得る。それはちょうど映画の撮影が始まるからで、そこではアメリカから人気絶頂のマリリン・モンローが出演者としてやって来るのだった。ところがマリリンは精神に不安定なところがあり、情緒が安定せず撮影所には遅刻ばかりしている。さらに演技もままならないことが続き、監督兼主演のローレンス・オリビエは、イライラを爆発させる。たびたびマリリンの様子を探るように言われていたコリンは、不安定さのあるマリリンを心配し支えながら信頼されるようになり、そのまま恋に落ちていくのだった……。
 もともとこの作品は、コリン自身が後にこの映画の撮影やマリリン・モンローとのことを回想した本を、もとにしているらしい。要するに事実を、ということなのかもしれないが、見終わった今、いろいろ考えてみると、ちょっと怪しさも感じないではない。まあ、それはいいが、短い恋の物語だとしても、やはりそれがマリリンだったからこそ、輝ける物語である。それがマリリンであり、それを演じたお話であっても、その輝きは衰えることが無い。それって素直に凄いことなのではないか。
 この映画でマリリンを演じたミシェル・ウィリアムズの評価が高いわけだが、確かにマリリンらしい怪しさと不安定さが見事なのだが、いわゆるそっくりさんすぎるわけではない。マリリンとして人は彼女を見ているうちに、マリリンのその幻影を投影できるようになるのだ。それこそが素晴らしい演技という訳だ。
 僕はよく考えずに吹き替え版(いわゆるアマゾン・プライムで無料だったので。しかしながらこれも表示をちゃんと確認しなかったというのはあるが、字幕版は何故か、有料か地域によっては見られない処置がとられている。不可思議だが、頭に来るので深くは考えたくない)を観たのだが、これがなんだか残念なくらい声優さんたちのレベルが低かった。日本の吹き替えで、ここまでひどいのは久しぶりである。何か事故でもあったのだろうか。
 さて、この映画が評判を呼んでいたのはずいぶん前から知っていたが、地元にロードショーがやって来るわけではないし、DVD化もされないし、なかなかハードルの高い作品になってしまっている。マリリン・モンローに関するものは、バッタもんがものすごく多いし、彼女そのものに関する情報も、それなりに怪しいものが多い。僕自身は同世代ではないし、特にファンでもないが、日本人を含め彼女に熱狂する世相のようなものに関して、このような個人を苦しめる要因があろうことには関心がある。セックス・シンボルとして名を馳せ富を得たかもしれないが、それ以上に病気にならねばならぬほど、社会的な圧力を受け続けた人だったのではないか。数多くの男性と浮名を流した彼女だが、それほど魅力的だったということは言えるとしても、それほど幸福だったこととは同義ではない。求められるからそうしたというか、何か自分の弱さや自分の確認のために、そうなってしまったのではないのか。もちろん僕にはわかりえないことだが……。
 楽しくも悲しい映画だが、普通なら主役級のエマ・ワトソンが、端役で使われている。これもお話として効果的だ。コリンという青年は、自立のために裕福な家庭を飛び出すが、その出自のためにマリリンのために一種の魔法を使うことができる。彼本人の魅力と使われ方は、そのようなマリリンのための癒しである。そうしてそういう一コマだからこそ、価値のあるお話ということなのであろう。
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俺の話を聞け(って言いたいのだろう)

2021-02-10 | net & 社会

 若い人のコミュニケーション能力が落ちているという。または、そのように言う大人が増えている。コミュニケーション能力の高い人材が必要、と返答する企業の割合が高くなっているのだという。裏を返せば、まあ若い人材にコミュニケーション能力が備わっていないと感じている、というような人事部などの会社の中の人たちの割合が一定以上あるということが見て取れる。
  実際の若者のコミュニケーション問題の内容を考えてみると、妙なことが起こっているのだという。今の若者に限らずかもしれないが、仕事をする上では、自主性というものが重んじられている。自分で物事を考えて、自ら行動を起こす。指示待ち人間、という言葉があるが、結局そのような人間の能力は評価外に過ぎないわけだ。しかしながら、実際に物事を自分で考えて行動に移すような人材が欲しいと言いながら、一方で、ちょっと考えさせられる要求がある。そもそも要求について、正確に理解していない、であるとか、事前に相談しないとか、問題が起きる前に報告がないとか、実際問題としてもっと会社の人たちが気にしているのは、まずは自分の言うことを聞け、と言っているらしいのである。もっとはっきり言うと、共同体としての空気を読むような、自主性とは真反対なことについて、若者に要求をしているのだという。でもまあ、そうすると若者が集まらないというか、一応そういうことを隠して置かない限りは、魅力ある会社とは言えない。そこでそのような協調主義的なことを要求したい場合は、コミュニケーション能力を問う、という言い方になってしまう。
 こういうのを会社のダブル・バインドだと批判している文章を読んだわけだが、確かにそのとおりである。自主性を重んじて自ら行動することを要求しているにもかかわらず、自分の言うこと以外は認めてやらないので、結局は若者は何をやっても会社の求める人間になれない。いわゆる分裂した人間像が理想になるからだ。
 そもそもコミュニケーション能力とは一体何か、ということになる。なるが、実は若者の中には、それなりにコミュニケーション能力が高い人が相対的に多いらしい。たとえば年配の人よりダンスが上手かったり、SNSの扱いが上手かったりする。そういうのができない中高年より、はるかにコミュニケーション能力は高い。上司の言うことが聞けなくても、他のコミュニティでは人気ものだったりもするかもしれない。上下関係に長けた人間というのは、単なる局所的な狭いコミュニティ能力に特化した結果かもしれない。
 まあ、実際問題として、若い人には来てほしいなあ、と僕も思いますが、若者が望む仕事を提供するということは、会社にはそもそもできない話だとも思う。会社の仕事は、それを必要な人がいるからあるわけで、若い人に働いてもらいたいからあるわけではない。素直に言うならば、たとえお金の為であろうとも、やる気を出してやってもらえばそれでいい。でもまあそんなことを言っても来てはくれないだろうな。結局若者を獲得するときに自分の会社の体質も変えずに嘘をつくから、こういうことが起こるんじゃないでしょうか。
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イタリア的プレーを楽しむ   盗まれたカラヴァッジョ

2021-02-09 | 映画

盗まれたカラヴァッジョ/ロベルト・アンドゥ監督

 名画盗難事件をモチーフに映画の脚本が書かれることになるが、その陰に実際の事件を起こしたマフィアの真実が隠されていたことで、脚本家が誘拐されてしまう。しかし脚本家には、実はゴーストライターがいて、そのゴーストライターにこのネタを提供した爺さんが居た。その爺さんの真の目的とは何なのだろうか……。
 構成はいろいろとごちゃごちゃしているけれど、まあ、ミステリ・サスペンス娯楽作である。イタリア製であることがそれなりに目新しく、ちょっとしたところがアメリカ的でないところが面白い。イタリア語というのもいいかもしれない(結局字幕だし)。
 そういったイタリア的な雰囲気も楽しめるわけだが、ちょっと面白いと思ったのは、あんがいイタリアには女性が男性を大切にするような美徳文化があるらしい、という雰囲気だろうか。いい男には違いないが、複数の女たちが、いわゆる尽くしてくれることによって、男の生活が成り立っている。男はひどい目にも合うが、あるいはそれは自業自得だし、しかし結果的にはモテるので、ひょうひょうとしている。モラル的にどうなのか、という気もするが、そういうのが爽快でもあると言いたげである。まるでイタリア・サッカーそのもので、審判の誤審を誘い、見えなければいくらでも汚いプレーはして、しらばっくれる。しかしチャンスが来れば、しっかりシュートは決めるのである。
 この物語は、いわゆるフェイク映画でもある。実際の事件の顛末を映画の中の映画で明らかにして、恐らく暗躍しただろうマフィアの罪を公のもとにさらそうとしている。それを実際に阻止しようとするマフィアが、また、事件を起こして事実を闇に葬ろうとする。そうして映画でない現実でも、現在進行形で事件の真相を追っている刑事がいるらしい。そういう仕掛け自体が重層的に組み込んであって、そういうことが明らかにされる顛末自体も面白いわけだ。ちょっとごちゃごちゃしていて疲れるところはあるが、こういうのはやはり脚本の勝利なのだろう。
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ブータンのサッカー少女

2021-02-08 | culture

 ブータンで少女サッカー国代表の選手に選ばれるた田舎の女の子の、いわゆるドキュメンタリーを見た。何か学校のようなところに集められて、サッカー以外でも活躍するような子供を教育している。そこでは、繰り返し幸福とは金銭的なものではないと、訓示を垂れている校長先生のお話があるのだった。そういう中で少女はサッカーをしていくが、決してレベルが高い訳じゃなさそうである。でもまあ外国から特別にコーチを招いて指導を行う。そのコーチが韓国人で、韓国人は芸能で憧れの国だが、しかしこのコーチは厳しくトレーニングを行うので、みんな怖がっている。練習が大変そうだけども、少女たちはサッカーが好きだというのが基本にあるようである。さらに故郷に帰るよりも、その地でサッカーをするということに喜びがあり、落伍して代表選手に選ばれなくなることの恐怖があるようだった。実際に指導者も、良い成績が残せない選手は来年は呼ばないと、繰り返し言っていた。少女の田舎での生活は、家で営んでいる商店の仕事も手伝わなきゃならないし、女の子だから家事全般であるお母さんの手伝いもしなければならない。そのような忙しさの中にあって、さらにサッカーをするというのがいかに困難か、ということを知っている。だから代表から漏れてしまうと、再び高いレベルの練習が積めないということかもしれない。そうしたハンデがある田舎には帰りたくない。そういったところだろうか。さらに、幸福は物欲ではない、という教育を受けているにもかからず、やはりそれは若い女の子達である。何か新しいものが欲しいし、刺激が欲しい。化粧もしたいし、いわゆる流行のおしゃれがしたい。都会にも憧れている様子である。サッカーの遠征で外国に行ったのはいいが、今回は残念ながらバングラデシュだった。そういったことにも不満で、また来年も呼ばれたいと思っている。国際試合ではおそらく、洗練された都会のある国へ行ってみたいということじゃないかと思う。しかしサッカーのレベルが高くないために、相手国と戦うと、やはり敗れてしまう。怪我もしてしまう。最後の試合では、すぐに足がつって選手交代をされてしまう。結局彼女は、翌年は選手として呼ばれなくなってしまった。
 そして田舎の生活に帰って、やはり家の仕事のお手伝いをして、しかし母は少しだけ変わっていて、サッカーの国の代表として娘が出たことを誇りに思っていた。彼女はそれだけでも非常に嬉しかったのである。
 物語としてはそれで完結だが、ドキュメンタリーとしてはちょっと気になるところがあった。それというのもブータンというのが、国民幸福度の高い幸せの国であるとして、日本では盛んに報じられ、そうして実際にそのように認知されているだろうことであるはずだ。しかしブータンの少女は、やはり田舎暮らしの不満があるし、物質的な豊かさも求めていると思う。そういう状態を指して不幸であるという決めつけを言いたいわけではないが、しかしそのように思う若い女の子というのは、ブータンにいて当然だと思う。いやブータン以外でも同然だからだ。だからブータンが繰り返し国民の幸福度について、精神的な豊かさこそ大切だと子供達に教えているんじゃないか。それこそ何度も執拗に朝から教えを説いていて、教えているというより、あれはいわゆる洗脳ではないかと感じられた。目の前の物質的な不足から目をそらし、代替案として精神的な豊かさを説いているのではないか。そうでありながら他の授業では、多くの場合英語で先生たちは話をしている。もしかするとブータンでは方言などの問題があって、共通言語を英語にした方が手っ取り早いという可能性も無いではないが、そうでない可能性もある。特に英語の授業だから英語なのではなく、やはり国際的に活躍させる子供を作らないことには、自国の経済の将来性が無いことを理解しているのだろう。 最終的には物質的な豊かさや、経済発展が無ければどうにもならない。実は大人たちも、そのあたりのことは分かりながら、精神性をあえて説いているのではなかろうか。結局女子サッカーに力を入れているのも、国威発揚もあり、国際的な力を発揮する期待が込められているのであろう。いわゆるダブルスタンダード政策をすることが、ブータンの国際戦略なのではないだろうか。
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一種の性善説の証明かもしれない   脳に刻まれたモラルの起源

2021-02-07 | 読書

脳に刻まれたモラルの起源/金井良太著(岩波書店)

 副題に「人はなぜ善を求めるのか」とある。哲学的な問や道徳などのようなものは、数量化しにくく、科学では扱わないとされてきた。しかしながら、脳科学研究においては、そのような倫理的なもの事であっても、科学として研究できるようになっているらしい。そうしてそれらの研究で明らかになってきているのは、人間が善などをもともと欲している生き物であるということであるらしい。また、人間の求める幸福というようなことであっても、どのような状態に置かれると、その幸福度が高まる、ということもある程度分かっているのだ。では即誰もがそのように幸福になれるのか、という考えを持つ人もいるかもしれないが、分かっていても、そのように幸福にたどり着けるとは当然限らない。やはり条件があって、やり方が分かっていてもそれらに達しない人がいるらしいことも、これを読むと分かるかもしれない。
 近年道徳などの科目であっても、教育的に重要で、もっと時間を割いて教えるべきだという意見が強くなっている印象がある。要するに教えられていない子供が多く育ち、大人になってしまって、モラルが低下していくのではないかと懸念している人がいるのだろう。もちろん印象として、そのようなモラルは教育的には育まれる可能性は感じられる。ところがそのような善意ある人間を育てるというよりも、そもそもそのような善幸のようなものを、人間の脳は欲しているのだという。教わる前に良いことを行うことに、そもそもの快感や喜びがあるのだ。そうだとすると倫理的な教育を受けることは、単なる快楽のようなものなのではないか。もっとも過去に倫理や道徳を習った時間が、楽しかったという印象は無いのだが。
 確かに収入が増えることは幸福と無関係ではないが、むしろその前に働くということ自体が、人間の幸福度をあげている可能性が高い。さらに収入が増えていったとしても、一定以上になると、もうそんなに幸福度が上がるわけではない。むしろ自分に近しい周辺との比較においての差があることが、幸福度の高い低いに影響がある。そうしてさらにそれよりも、社会とつながり、孤独ではなく、社会との貢献度が高いことこそ、個人の幸福度は上がるのである。さらに目標のようなものへの達成度が幸福度を上げていくわけで、当たり前だがそのような生活を組み立てていくことで、個人の幸福は変化するのであろう。
 薄い本だが、コンパクトにそれらの根拠がまとめられており、下手なビジネス書を読むより、仕事や勉強にやる気がおこるかもしれない。また、そもそも高い倫理観を欲しているにもかかわらず、そのようなことをしないひねくれた人間のいることにも、なんだか不思議さを感じてしまうのだった。現実に人間は複雑な感情を持つ生き物で、その複雑さそのものを克服する必要があるのかもしれない。
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こんなに難しい話だったとは……   迫り来る嵐

2021-02-06 | 映画

迫り来る嵐/ドン・ユエ監督

 若い女性ばかり犠牲になっている連続殺人事件が続いている。工場の近くで事件が起こっていることから、会社の保安係をしている男は、警察に協力しながら独自に探偵めいたことを始めて事件を追っていく。主人公の男は、犯人は必ず工場内にいると踏んで、怪しい男を割り出そうとするが、すんでのところで逃げられた挙句、一緒に追っていた仲間を失う。さらに犯人探しにのめり込んでいき、その内知り合って付き合うようになる女を使っておとり捜査のようなことを始めるのだったが……。
 映画の中では雨が多く、改革開放の中にありながら閉塞感の残る中国社会を暗示しているような作りになっている。ぬかるんだ道に、エンストばかりするバイクや車。旧態依然とした効率の悪い恐らく国営の工場は、後にリストラをしたり工場そのものを整理したりする。多くの人はそれらにあぶれ、不満がありながら抗うことができない。その上連続殺人も止まらないのである。
 映画の始まりには、なんとなくユーモアが感じられ、明るさが感じられていた作調だったが、雨の中くすんだ風景が続く中、段々と軌道を逸して男は狂気の世界に入っていく感じだ。いや、男ばかりでなく、この社会自体がどんどんと暗い未来に迷走していくようなことになる。殺人事件を解くミステリ作品だったはずなのに、もう犯人が誰なのかさえ明確に分からなくなってしまう。結構難しい映画なのだ。
 以前韓国映画でこういう感じのを観たことがあるかもしれないな、などと思いながら見ていた。「殺人の追憶」だったか。しかしこれは中国映画で、さらに日本人の僕が観ても、段々と分かるような感じになっていく。中国の閉塞感をあらわした映画が、人間的な閉塞感そのものをあらわしたものになっていくからではないか。そうして行き着く先は破滅しか無いではないか。
 結局男は、愛が欲しかった訳でもないし、見栄を張りたかっただけのことなのかもしれない。犯人を追うことばかりに執着して、他の大事なものを見失ってしまう。考えてみると妙な仕事をしている訳で、生産的なことは何にもしていない。いったいこれらは現実のことだったのだろうか。結局嵐はやってきたのだろうか。もうそれすらも分からないのだった。
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黒人優等生であることの居心地の悪さ   ルース・エドガー

2021-02-05 | 映画

ルース・エドガー/ジュリアス・オナー監督

 黒人でいわゆる文武両道の優等生であるルースは、同じく黒人の女性教師のマイノリティに関する厳しい視線のようなものに反発を覚え、静かに復讐を企てていく。女性教師の方も家庭に問題があり、悩みは抱えている。そういう中で教師として、移民であり白人家庭の養子に入っているルースに隠されている危険な思想を嗅ぎ取って、問題視している。家族と面談する中で、ルースを育てている白人の夫婦も、この教師の疑問が引っ掛かるようになっていく。優等生ではあるが、過去には何か心の傷があるかもしれない息子を、さらに黒人である息子を、真から信用していいものなのだろうか……。
 あえて何が起こっているのか明確には分かりにくい演出がなされていて、そのまま素直に見てしまうと、正直言ってさっぱりよく分からないことになりかねない。後でまあ、そういうことだろうな、と整理していくと、分からないではない話ではあるが、まあ、それだと行き過ぎた教師への復讐劇だったということになる。ちょっとしたひっかけで、陥れるというか。もっとも、この教師はもともと行き過ぎていて、勝手に生徒のロッカーを調べて、問題があると処罰をしてしまう。原因はそういうことへの反発なのだが、同時に黒人の置かれているアメリカ社会での居心地の悪さのようなことを、暗示的に示している。彼女はそうやって白人社会の中で、黒人としての存在を保っているのだ。ルースは非の打ちどころのない黒人らしい優等生だが、彼の中の心の闇のようなものは、白人にはまったく分からないように隠し持たれている。ルースはそれに、当然自覚的で、まさにそれを利用してのし上っているということなのかもしれない。
 モヤモヤした空気と緊張感が続いていて、リベラルな白人家庭が、おそらく模範的な思想をもとに、いわゆる当然のことようにして黒人の虐げられている子供を養子にしている。本当はマイノリティの問題など居心地の悪さのようなものを抱えているはずの黒人の息子ことを、平然と隠し通している。彼らには本質が見えにくくなっていることを、いわば選択している。そういう差別的なものを、表に出すわけにはいかないのだ。そもそもそんなものは、微塵も持ち合わせていない前提こそが大切なのだ。そこに黒人優等生は、さらに内なる葛藤を抱えてしまうのだろう。
 確かに重層的に難しい問題のように思えるが、黒人同士、またはアジアなど異人種を含めて、アメリカ社会の居心地の悪さをあぶりだそうとしているのかもしれない。いわゆる映画は傑作と言われているが、そういうことを議論するアメリカということを指して、差別に無頓着な人をさらにあぶりだそうとしているのかもしれない。
 現状としてアメリカは、そういうリベラルへの反発があって、一定以上の差別意識が表面化している。そうして大きなうねりのようなブラック・ライブズ・マター運動が起こる。そういうものが表面化する以前に、このような問題提起がなされた作品として、意義深いものがあるのかもしれない。やっぱり日本人には、かなりハードルが高く難しく思えるが……。結局それは、そういう文化の中にいないせいでもあるのだろう。


追伸:現在奇しくも東京オリンピック組織委員長の女性差別的発言が話題になっている。今夏の五輪開催の是非について、現時点でかなり難しい状況に立たされる(少なくとも意識的には)まで問題が肥大化している。それくらい現代社会においての差別的な問題は、デリケートで非寛容になっている。ましてや人種問題になると……。ということなのである。女性差別意識のある人間がいるなんてことがありえない前提にあって、こういうことが起こる社会が日本だ、という認識なんだろうと思われる。居酒屋でご年配の爺さん同士の雑談ではないのである。まあ、辞めさせたらいい問題でも無いんだけれど。
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民主主義集団リカオン

2021-02-04 | culture


 アフリカにリカオンという野生の犬がいる。見た目はまだら模様であまり良くないのだが、大きさは大型犬並みで、成犬で30キロくらいだそうだ。リカオンというのは、現地語の意味で狼ということらしいのだが、それじゃ日本語でアフリカオオカミ、みたいにしてもよさそうなんだけど、まあ、オオカミにしてはちょっと貧弱というか、翻訳すると何か不都合でも感じられたのだろうか。僕は知らないけど。
 アフリカにはほかにハイエナとかジャッカルとかもいるし、近縁という話もあるし、区別するにはやっぱりそのままがいいんだろう。
 リカオンは群れで協調して狩りをする。そうして、その成功率は7割を誇るという。ライオンなんかは5割を切るという話もあるんで、そういう猛獣たちの中にあって、狩りが上手な部類ということらしい。その理由はいろいろあるようだけど、基本的は民主的な役割分担がしっかりしていて、いわゆるそういうコミュニケーション能力に長けていることで、狩りを上手に成功させていると考えられている。
 中でも特徴的で面白いことが分かってきた。何と意思決定に多数決を取るのだという。
 どうやって多数決を取るんだ? って普通に思うが、その方法がなんと、くしゃみ。
 まだまだどういうことかわかりませんね。要するにリカオンの中の誰かがくしゃみをすると、他の誰かがくしゃみで応じるということらしい。単発でくしゃみをして、誰も賛同者が無ければ、狩りのような行動に移らない、ということのようだ。一定の数の個体がくしゃみで応じると、さて、じゃあ狩りに出発しようか、ということになるらしい。狩りに行く理由までは知らないけど、近くに獲物がいるぞ、とか、もう腹が減ったぞ、とか、最初にそのように思った個体が、まずはくしゃみをする、のかもしれない。
 しかしながらこのくしゃみで賛同させるには経験値がモノを言うらしく、若い個体がくしゃみをしても、なかなか多くの賛同を得られる機会は少ないらしい。やはり大物のような奴がいて(グループ形成は、夫婦にそれぞれのきょうだいがくっついて大きなグループになるらしい)、そいつがくしゃみをすると、連動してくしゃみをする場合が多いらしい。その理由までははっきりしないものの、狩りをするタイミングに長けているとか、単純に皆が言うことを聞きやすいということなのかもしれない。リカオンなりの合理性で、くしゃみの民主主義が成り立っているのだろう。つまるところ、皆が合意したタイミングで狩りをするというところに、その成功率にも影響があるのかもしれない。
 また、群れにはランダムな分業制も成り立っているらしく、いくら狩りのタイミングであるといっても、子育ての時期には、子育て班が子供の保護のために残るのだ。面白いのは、残る班に決まりは無くて、母親だから残るということではなく、あくまでランダムに残るときと残らない時があるのだ。そうすることで経験値が平均化するわけだが、そういう考えがあってのことなのかどうかまでは分からない。分からないが、そのようにして、若い個体も狩りの腕を上げられるし、子育ての責任のようなものだって養われるかもしれない。
 そもそもリカオンは、皆で寄ってたかって子育てをするようで、雄がおっぱいをあげることはできないだろうけど、とにかく子供にかまって頻繁にペロペロやっている。皆の子育てに対する関心が高い、ということが言えるかもしれない。
 見た目で判断するのは間違いのもとだと思うのだが、見た目が悪いリカオンたちは、民主的な共同体としては、たいへんに見習うべきところが多い生き物のようだ。まあ、リカオンたちにしてみれば、人間にどう思われようと、どうだっていい話なんだろうけど……。
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まるでレミングの逸話だ

2021-02-03 | HORROR

 新型コロナによる緊急事態宣言延期は、何かもういいか、という感じではある。何しろ90%を超える世論が、「延長すべき」か「致し方ない」という調査結果があるそうだ。そのような圧力に抗するだけの力が、菅政権には無いということだ。根拠にすべき科学的なものを一切無視して、何の根拠もない感情に流されるわけだ。それが政治だし、日本の社会だというのなら、まあそうだったんですか、と思うよりない。そういうことである。
 ただし、これらの行動については、ちゃんと反対を表明して懸念を示している人々は一定以上存在はする。声は届くことは無いが、声はあげられるようにはなっている。別段反政府的な運動をやっている人たちではないし、比較的に根拠をもって話をしようと考えているに過ぎないので、声をあげざるを得ない人々である。弾圧されるようなことが無ければいいが、そのことも含めて、やっていることなんだろうと思う。今の状況は、恐らく日本が太平洋戦争に突入する頃と極めて似た世論形勢になっていると多くの人が指摘しているけれど、世論の動きや政治は同じように動いてはいるものの、弾圧については、幸いながら、具体的な暴力にまでは発展していないものと期待しよう。空気としては同じでも、生きていけるスペースは、現代社会にはあるということかもしれない。そういう意味では、まあ、まだましなのだ。
 間違った判断にしても、当然後には検証はできる。春の場合も検証できたはずだが(はっきりと失敗だったが)、それは必ずしも上手く行ってない。そうして秋になり冬になり、繰り返された。それは人間の持つ感情の強さかもしれないし、学習ができない愚かさかもしれない。そうしてその両方があるのだろう。間違っていても、何度もその間違った予想を繰り返され、結果が伴わなくても、過大評価は続く。結論が間違っていても、その数値がたとえ小さくても、比較をする材料との相違は見ずに、積算した数値の大きさに感嘆の声をあげるのだ。
 もちろん、先送りにされた問題も積みあがっている。先送りにして丸めて巨大化させているので、直視する段になると、またまたどんな驚きになるのだろうか。しかしそれも、結局は誰かが直視しなければならない。問題点の解決はないまま、そのような積み上げられた荷物は、いづれ解かれなければならないだろう。それらが運ばれていく先はどこか。それは誰にも分からない。もう分かりえなくもなってしまうのかもしれない。
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恋愛感情は、相手によっては大変です   夏の裁断

2021-02-02 | 読書

夏の裁断/島本梨生著(文芸春秋)

 作家の千紘は、帝国ホテルのパーティで、柴田という男と会った際にフォークで手を突き刺そうとする。何故千紘はそんなことをしたのか、そうして突然それほどの行動をさせてしまう憎悪がなぜあったのか、という過去がつづられていく。
 題名の裁断は、祖父の蔵書をデジタル化するために行う作業(自炊といわれる)を指してつかわれている。それは祖父の家が鎌倉にあり、その作業を母からやってくれと頼まれた時期に、柴田という男とのあれこれがあった時期と重なるためにつけられたようだ。柴田は編集者で、千紘と仕事の付き合いがあるために知り合う。そうして千紘は、精神的に振り回されることになるということかもしれない。柴田以外にも男は出てきて、そのような過去とのいきさつが絡んで、感情が様々に揺さぶられる様が描かれているのだろうと思う。
 それというのも、実は僕は読んでいて、そういう感情がどうして起こるのかという具体的なところが、上手く分からないのだった。いや、正確に言うとそう書いてあるはずなんだが、どうも単語や文章が唐突すぎて、具体的にどうしていきなりそうなるのか、ほとんど読み取れないのだ。いきなり吐き気がしたり、言っている言葉の意味が変わったりする。むかむかしたり、じめじめするような感じもする。感情は不安定だし、時に精神のことをよく知る先生がいきなり解説するが、その意味もよく分からない。彼は、実際は素人なのではないか。とても信じられるような根拠が分からない。しかし、それは正しいのである。小説にはそう書いてあるのだから。
 まあ、幻想小説として読めばいいのかな、という感じかもしれない。凄まじい恋の感情の葛藤なのだが、これは男である一部の僕のような人にはわかりません。男が何を言っているのか、どういう意味なのかのも分からないし、それを受けて、勝手にあれこれ傷つく主人公の感情もよく分からない。ほんとにそんな人がいるんだろうか? なんで離れたりくっついたりするんだろう。どうしてもっと電話で話さないのだろう。疑問ばかりが浮かんだけれど、ひょっとするとこういう支離滅裂が恋愛というものの真実なのかもしれない、という感じではある。僕が体験したものとは違うけれど。いや、そういうところもあるのかな、実際はそれなりに不可解なものでもあるわけだし。
 短い話だけれど、まあ、大変です。こういうことになると、いろんな事故が世間にあるのも当たり前かな、という気はする。道を歩くときには注意を致しましょう。
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間違った選択の降りかかる人生   在りし日の歌

2021-02-01 | 映画

在りし日の歌/ワン・シャオシュアイ監督

 物語はまだ一人っ子政策が取られていた当時の中国の工業地帯から始まる。子供が水辺の事故で恐らく亡くなるのだが、徐々にその亡くなった家族を含んだ事情が語られていく。亡くなったシンシンには弟が生まれるはずだったが、一人っ子政策を厳密に守ろうとした同じ工場の同僚であり親友家族でもあった仲間が、職場の体制管理の立場があり、厳密に手続きがとられ子供を堕ろされてしまった。おそらくその時の処置で、妻は不妊の体となってしまう。そういうさなかこの事故で一人息子を失い、さらに共産党の人員政策などの背景もあって、二人は遠く南方に移住し、そこで孤児か何か分からないが、おそらく里親か養子縁組のような感じで、おなじシンシンという名前で子供を育てようとする。ところがその息子は激しい反抗を繰り返し、育ての親になつかないばかりか、協調性は皆無で学校に行かず、家出を繰り返す。親子は大きく衝突し、子供は本当に出て行って行方が分からなくなるのだった。
 現在進行形と思われた時間は、幾度も過去にさかのぼり、今の事情である背景の事柄を映し出していく。そうして最終的には、未来であるほんとうの現代の中国の姿に移り変わっていく。様々な重い過去を背負いながらも、激変してしまう中国そのものを描いているかのようである。
 人間ドラマは淡々としているが、人の死をはじめ、精神が大きく揺らぐ出来事が度々起こる。特に強い絆で結ばれている夫婦においても、凄まじい危機があったことが描かれる。あまりのことに観ている側もそうとう動揺させられるが、いわゆる大人になっていることから、悲しいけれどそれは静かに葬られてしまうかのようだ。
 とにかく人の一生は何かという問いかけを、時代に翻弄される中国人の姿を通して描いていく。何度も絶望の淵ですべてを失ったかにみえた二人が、子供という未来のために生き直そうとする。結局はあきらめる運命にあるのかと思われたのだが……。
 三時間を超える尺の映画なので、何か途中でボーっとしてしまうようなことになるのだが、お話が面白くないわけではない。いったいどうしたらよかったのか、激しく葛藤しながら、苦しみながら観る映画ということだろう。人の一生は、自分の力で切り開いていくようなものなのではないのかもしれない。そういう意味では、本当に切なく恐ろしい物語である。
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