母と暮らしていて一番問題を感じるのは、やはり同じ話題の繰り返しを、聞かなければならないということだ。聞いたことのある話を、あたかもまだ聞いたことないようなふりをすることはできない。少なくとも僕には苦しい。かといって、いちいちそれを前にも聞いたよ、と注意するともできない。ずいぶん前にはそんなこともしたことがあったかもしれないが、今となっては、もうできない。それくらい不毛なことであることは、理解できている。そうであるから、要するにただ忍耐で聞くしかない(聞いてないと、つれあいからは言われるけれど)。
結末の分かってる話を聞くというのがどれほど辛いのかというのは、それを経験をしないと、実感として分からないのではないか。一度聞いた話より2回目の方が楽しいことがあれば、いいのである。落語なら、何度か聞いても面白いことがあるが、母は落語を語っている訳ではないようだ。そういう過去の話を、2度や3度ではなく、延々と日々重ねて聞き暮らしている。
それぐらい我慢しろよ、という人もいるかもしれない。他ならぬ自分の肉親である母を敬う気持ちがあれば、それくらいはなんでも無いことではないか。そんなことを本気で思っている人がいるとするならば、そういう人は、よっぽど愚かな人間であるだけのことである。まあ、そんな風に思えるというのは、人間としての無責任がなせる業で、しあわせでいいことかもしれないが、共感力がないというのは、単に経験値と想像力が足りない人間だということに過ぎない。人間的に甘いのである。
なぜこれほど苦しく難しいことなのかと言うと、やはりその時間が退屈だからである。いかにも初めて話すが如く、同じ話が始まってしまう。それは当然のように、ふつうに自然に直観的に分かっている。最初のころは、いささか呆れるというか、やはりなんだか悲しいものがあった。そういう悲しさを毎日味わっていると、しかし悲しさも、飽きてしまうということを知った。そうすると、やはり辛いということだけが、残るものなのである。そしてその前に、もっとはるかに度数と場数をこなし耐えている妻に対し、大変申し訳ない気持ちにもなる。でもまあ僕は無理かなと、やっぱり思ってしまうのみで、どうすることもできない。母は、病院でも、特に脳が委縮するなど、問題があるとはされていない。それは一体どういうことなのか。良いことのようにも思うが、それは本当にいいことなんだろうか。今やそれすら、とても分かりえない事のように思える。
要するに防衛反応としては、ほとんど聞いてない。つまり母が話してる間というのは、会話というより、ボーッとしているのに、かなり等しい。上手くいくと別の考えを思いついて、そうできることもあるが、一応相手は話をしており、対話というのは面と向かって無視するのはあんがい難しいもので、どうしても話は聞こえてくる。そういう場面で別の考え事をしたところで、その考えが上手く進んで、いいアイディアを生む、なんてことは起こらない。そうすると、また我に返って、ただボーっとしてると言うか、無益な時間を過ごしてると言うか。いっそのこと無我の境地のような修行ができているのならいいのにな、とか考える。
修行ができて、それで悟りを開くようなことがあると、何かしあわせがつかめるとかすると、少しは張り合いができるかもしれない。しかしそんな心構えの人が、悟りを開いたという話は知らない。母と一緒に何か、全く生産性のない残りの人生を歩んでいるような気がするだけのことなのである。