カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

素人くささには気をつけろ   コンフィデンスマンJPロマンス篇

2020-07-19 | 映画

コンフィデンスマンJPロマンス篇/田中亮監督

 知らなかったのだが、テレビドラマの映画化作品らしい。今はそういうのばっかりだから珍しくも無いが、おそらくテレビのノリのままの演出なのだろう。少し非現実社会的なテンションが気になる作品かもしれない。
 チームを組んで、重層的に人をだましていこうとする作戦を立てる。何故騙さなければならないかというと、騙してお金をむしり取るためである。基本的にはオレオレ詐欺のようなものであって、だから例えば、息子を騙って親などからお金をだまし取るような手法だ。決済にお金を使うというのは普通のことだが、それなりに大金になると、ふつうは現金決済などしない。そういうなかでいかに相手から高額なものを横取りするのか、というのは、組織的な世界観を構築させながら、相手にそれを信じさせてから、という基本的な考え方があるのかもしれない。
 だからことはどんどん大げさになっていくのだが、騙される側もいつ騙されるか分からない状況は構えて待っているわけで、相手に取り込まれるような下手は簡単には打たないはずなんだし、いくら騙しのプロだって、仲間がいる限り信頼を置いて行動しなければ、すぐに危ない状況に陥ってしまう。物語は重層的にどんでん返しが続くが、それさえも仕組まれていた罠だということが、どんどん過去にさかのぼって明らかにされていく。なんだかフィルムを逆回しにして撮影したらよかったのではないか、という映画の作りなのだった。
 そういう風にお話を作るよりなかったということなんだろうが、その前に、途中で何度か偶然を用いなければならなかったような要因もあるような気がした。そういうものは考えようなのかもしれないが、乗れるか乗れないかのポイントにもなるように思われた。要するに僕には途中でもういいか、と思ってしまった口かもしれない。サクセスで面白くなる部分と、もともとカッコよく上手く行っていたコントラストの逆転は、確かにギャグ的だけれど、馬鹿にしすぎではないか。また、彼らが出会う時、いったいどんなあいさつを交わすものなのだろうか?
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新聞に出たのは高校生だけだったけど……

2020-07-18 | 掲示板

 災害ボランティアというのに行ってきた。地元の社協にボランティアセンターが設置されたのは知っていたが、個人的には宣伝はするものの、すぐに手を上げることまではしていなかった。所属している奉仕団体の呼びかけがあって、それでは! ということで参加できたわけだ。まずはそのことに感謝したい。行きたいけど、個人ではなかなか行動にまでは移せないものである。また仕事の都合などもあるので、多少の無理もしなければならない。こういう呼びかけがあると無理のし甲斐もあるというものではないか。こういう行いは個人の意思が大切だが、実際に仕事には人手が必要だ。このような組織だっての行動には、たいへんに意味深いものがあろう。
 ということで被災したお宅に伺ったのだが、家の中を満たしている土砂というか泥の黒々とした姿に、まずは言葉を失った。作業がたいへんであるだろうことはもとより、これを見た家主さんはどんなお気持ちだろう。まずは本当に心が痛んだ。おそらくだが、家の中のものは、ほとんど使い物にはならないだろう。
 幸い、被災した時には誰も住んではいなかったそうで(どういう事情かまでは知らない)、人的な被害のあった場所ではなかったらしい。小さめの重機などを扱っている人が被災者らしく、そのご家族か親戚かの人も数人おられて、我々を出迎えてくれた。一緒に作業もされるのだろう。
 作業自体は泥だらけになったものを運び出したり、土砂そのものを延々と掻き出すというもの。石や木材や割れた瓶など、まさにいろんなものが混ざり合っている。水気があって重たいが、これが乾くと固くなるだろうから、それはそれで作業がやりにくくなるのかもしれない。まさに今やらなければ、もっと大変なことになるだろう。畳や板の間に大量に積もった土砂を取り除いていくと、その畳や板の間が、今度は弱くなってへこんだり穴が開いたりしてしまう。適当な板を見繕って人間や一輪のネコ車が通るように補強する。それでも時折板を割って踏み外す人などもいて、ちょっと危険である。作業自体は20分毎くらいに休憩しながらやっているが、湿度も高く時節柄マスクもしており、すぐに汗が噴き出してきて苦しい。家の中の食品などが混ざっているのか、なんとなく臭いも気になるところだ。没頭して作業しながら、どんどん体力が消耗していくのが分かる。休憩間近には、なんだか頭がボーッとするような状態に何度も陥ってしまった。
 それでも人数がいるのが頼もしい。少しずつではあるが進捗している。そういう実感があって、それがまた励みになるという感じかもしれない。泥だらけだからきれいになるという感じではないものの、埋め尽くしていた黒々とした泥がなくなっていくのは、それなりに快感を伴う。おそらく僕らの多くは、それらの作業の進み具合に、力をもらっていたのではなかろうか。
 そうやって午前午後と作業を進め。だいたいのところで予定より少し早く目標の作業は終えることができた。午後からは力のある高校生も大勢やってきたので、みるみるスピードが上がった感がある。疲れもあるが流れも良くなって、終わった後の爽快感や達成感も味わえた。実際には横の納屋など他にもやるべきところはいくらでもあるのだろうけど、崩れた土砂などを運んだ裏山などには、重機などで対応しない限り、ちょっと人力だけでは難しいだろう。また、実際どうされるのかは分からないが、人が住めるようになるには、それなりにプロの手も必要だろうし、相当な資金がいることだろう。
 今回お手伝いできたことはほんの少しの労力に過ぎないが、このように力を貸すことができたのは、本当によかったのではなかろうか。テレビなどで被災地で活躍するボランティアの姿を見ることがあるが、自分がこのように実際に働くことができて、むしろ本当に彼らのことを尊敬する気分にもなった。今はいろいろ事情があって地元のみという処置がとられたようだが、自ら進んで遠くまで出向いてまでボランティアをしようという気持ちというのは、やはりたいへんに貴重な心掛けである。お金を掛ければ、基本的には災害復興などは進めることはできるのかもしれないが、これだけの人がかかわって何とかしていこうということが、単に復興するだけ以上のものを形作っていくのではないだろうか。
 正直言って本当にくたくたに疲れ果ててしまったが、少なくとも夜のビールは、最高に旨かったのでありました。また一緒に作業した仲間に対しても、友情のような感情が湧いてしあわせでした。こういうのも、いいものですね。
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妻を自慢する話   嫁洗い池

2020-07-17 | 読書

嫁洗い池/芦原すなお著(創元推理文庫)

 シリーズ二作目。郊外に住む作家夫婦のもとに、友人である警察官の河田という男が、郷土香川のものを手土産にもって遊びに来る。作家の僕と古くからの友人なのだが、酒を飲むという口実に、実際は作家の妻と話がしたいが為に河田はやってきているのだ。それは恋愛感情からそうするのではなく、河田の職業倫理ゆえである。河田が担当する事件には、どうも納得のいかないものが残っている。その疑問点を作家の奥さんに話すと、奥さんは作家の僕を使って現場検証をさせて、事件を実際に解決してくれるのだった。
 この奥さんなぜか普段着が着物のようで、お話する立ち振る舞いや、みやげものなどを手早く調理するなどから推察するに、おそらく著者の考える理想な女性なのでろう。さらに推理の天才ぶりもあって、ひょっとすると、単なる奥さん自慢の小説なのかもしれない。
 全体的なトーンとして、対比的にダメ人間である作家の僕の日常がつづられていて、結果的にはその生活ぶりが、事件との伏線にもなんとなくなっている。ミステリ作品なのでそのような体裁をとっているものと思われるけれど、これが奥さんの凄さを際立たせていることにもつながっているわけで、よくもまあこれだけのことをやってのけるものよの~、などと感心する。まあ、正直に言って、こんなことできるわけはないと思うが、それこそが小説というものの可能性といえるだろう。事件というのは、この作品ではおまけみたいなものなのだ。
 作家の僕と河田刑事の出身である香川の郷土料理がふんだんに出てくる。河田の手土産もあるが、地元から送ってもらうなどして時々郷土の食材が届くようだ。僕らの感覚だと、香川は讃岐であるから、郷土料理はうどんだろうと思っていると、さにあらず。何か得体の知れないものばかりなのだ。しかし、それらのものは一見派手さはないものの、なんとなく旨そうだということだけは感じ取れる。これらの旨そうな食べ物を食いながらあれこれ酒を飲んで語る登場人物たちに、僕は嫉妬に近い感情をいだきながら読んだ。はっきり言って食べたくなって困るのである。これは時期を選らんで読むべきもので、禁酒やダイエット中の人は読んではならない書物だったのであった。
 もっとも、簡単には手に入らない感じがあるので、文章から想像して、ほとんどの地方の人はあきらめるよりないのであろうけど。しかし、やっぱり食べ物って文化なんだな、と再確認できる。日本だから天ぷらや寿司さえ食ってればいい、というものではない。もっと子供のころに食べていたものや、地元でとれるものを素直に選んで食べる生活を、楽しむべきなのかもしれない。そういう意味で、これは地方グルメ本でもあるのだった。
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生きるのがつらすぎる気の弱さ   ドッグマン

2020-07-16 | 映画

ドッグマン/マッテオ・ガッローネ監督

 獣医のような仕事をしている男は、まじめに働いているものの、友人に乱暴なチンピラがいる。それで、盗みなどの悪事の手伝いをさせられている。実際には嫌々なのだが、気が小さくて断ることができない。普段は犬の世話とかわいい娘とのかかわりなどでしあわせな生活をしているのだが、時折チンピラの友人が現れて、無理な悪事の手伝いをさせられるのだ。
 不条理な物語として描かれているし、何かもとになった事件があるという。追い込まれた人間がどうするか、という映画はこれまでにもたくさんあるわけだが、だいたい頓智を利かせるか、偶然そうなってしまうとか、工夫しないとうまくいかない。それが物語の力というものだろう。正直言ってこの話は、そこのあたりがあまりうまくいっているようには見えない。率直に言って、主人公がバカにしか見えないのだ。さらに何か病んでいるというか……。多くの街の人たちが劇中でも言っていたように、このようなチンピラは、多かれ少なかれ淘汰される。実際かなりいいところまで行ったのに、友情を感じているのか、助けてしまう。そういうところだけは面白い感じだったが、その友情が何かというのは、結局描かれなかった。もったいないという感じだろうか。
 共感も無いし救いも無い。こういうのが好きな人なんているんだろうか。見終わってむなしさと悲しさが残って、なんだかな、というため息が出そうだった。イタリア人という人たちは、そういう達観めいたものが好きなのだろうか。過去の名作、自転車泥棒も、考えてみるとそんな感じだったかもしれない。若いころには感心もしたが、もう見なくてもいいな。それは僕の年を取ってしまった事情による、許容の変化なのだろうか。
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まったくもって恐ろしい世界   王様気どりのハエ

2020-07-15 | 読書

王様気どりのハエ/ロバート・S・デソヴィツ著(紀伊国屋書店)

 表題のハエは、ツェツェバエといわれる血を吸うハエのこと。日本でのブユみたいなものらしい。刺して血を吸われるだけでも不快だが、何と感染症をまき散らす。トリマノソーマという虫を、家畜やヒトに媒介させるのだ。この寄生虫に感染すると、睡眠病という病状が出る。何も治療しなければ二年くらいで死に至る。この恐ろしい病気を媒介させるハエを撲滅するのは極めて困難で、単に殺虫剤を撒けばそれでいいという問題ではない。それはアフリカの開発とも関連していて、要するに人々の生きる糧となる生活そのものにかかるからだ。さらに感染防止から治療に至っては、政府の資金難もあって上手くいっていない。そういう状況を指して、この病気をもって地域を支配しているのは、ツェツェバエという王様というわけだ。
 他にも恐ろしい感染症をまき散らす様々な寄生虫の話が満載である。もちろん日本のものも出てくる。日本にも寄生虫はたくさんいたし、さらに生食を習慣にしている民族であるからアニサキスの脅威から逃れることは、いまだにできていない。これを読んで改めて肝を冷やしてしまったが、それでも今夜の酒のつまみに刺身が出ても躊躇なく食べることだろう。人間というのは、それくらい鈍感で怖ろしい生き物なのである。
 寄生虫と聞くと、確かに人間にとって厄介で恐ろしいのだが、しかしそのシステムというか、その生き延びていく習性を見ていくと、実に巧妙で、さらに奇妙な生態であることが見て取れる。例えば、日本の農村などで多くの感染者を出して我々を苦しめてきた住血吸虫の一生は、たいへんに複雑である。雄は長さが約二センチで腹側に溝を持っていて、そこに雌を宿す。そして三十年にわたって交配し続ける。この虫は静脈の壁に吸盤でくっついている。住血吸虫の種類によってどこの静脈につくのかは違うらしいが、例えば日本住血吸虫は小腸上部静脈に住む。交配したのち雌は毎日約三千五百個の虫卵を生む。虫卵の中にミラシジウムという幼虫が含まれている。虫卵は静脈壁を通り抜け、膀胱または腸の壁を何らかの方法で穴をあけて通ると考えられている(まだ正確には分かっていない)。そのようにして約30%の虫卵が便や尿などで排出される。虫卵は水に到達すると羽化し、ミラシジウムが遊出する。これがオールを漕ぐように泳ぎ、二十四時間以内に宿主の貝を見つけないと死んでしまう。貝の出すある種のイオンに導かれて泳いでいるのではないかと考えられている。そうして貝と接触し酵素を分泌し、ドリルのように動いて腹足部や触角に侵入し、内臓へと移動する。この感染可能な貝というのもそうとうな特殊性があるようで、ほんの一部の貝にしか感染できない。非常な幸運をもって感染できたミラシジウムは、貝の中で袋状の母スポロシストに変態する。そしてたくさんの娘スポロシストを生み出す。この娘スポロシストは成長して、今度は寄生虫のセルカリアを生み出す。たった一匹のミラシジウムから二十五万ものセルカリアが生み出される。セルカリアは日周性を持っており、通常午前八時から正午にかけて貝から遊出する。そして二三日のうちに宿主を見つけないと死んでしまう。漁師や洗濯をする主婦や水浴びをする子供や水田で働く農夫が水の中に入ると、接触が起こる。飲み水から入ることもあるだろうが、一般的には粘膜や皮膚から侵入する。皮膚組織の中で一日くらい休息して、幼若虫であるシストソミューラに変態する。それから移動を開始して、小静脈に入り、心臓や肺を通って肝臓に達し、しばらくの間を置き性的に成熟した雌雄の成虫になる。それから決められた静脈まで移動して雄が壁に張り付き、そうして雌と出会う。出会った寄生虫が虫卵を生み続けるわけだ。人間にとって厄介な病気を引き起こすのは、体外に排出されない虫卵の方である。これが肝臓で繊維化したり、血管を詰まらせたり、心臓に負担を掛けさせたりして死に至らしめることもある。人間の側も必死に免疫系を働かせて抵抗するようだが、感染している住血吸虫が多くなると負けてしまうということなんだろう。面白い生体ではあるが、やっぱりとても恐ろしい。
 ユーモアのある文体で、それなりに楽しく紹介されている感染する寄生虫たちのお話なんだが、読みながら、なんだか体がかゆくなるというか、ちょっと具合の悪くなる人もいるかもしれない。人間を含む動物たちは、このような寄生虫と共存して生きてきたのである。まったく生きていくというのは、実に不思議で大変なことだな、と改めて思うに違いない。
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復讐と恋愛   婚前特急

2020-07-14 | 映画

婚前特急/前田弘二監督

 自分の人生を最大限楽しむためと称して5人の男と上手に付き合っていたチエだったが、親友が結婚することになり、なんとなく自分にも結婚願望が芽生え動揺する。それで付き合っている男たちを精査することにして、消去法でいい男を残そうということで、手始めに一番デメリットの多いと思われるさえない男のタクミに別れを切り出す。するとタクミは、もともと僕らは付き合ってなんか無いのだし、これからもセックスフレンドでいようといわれてショックを受ける。こうなったらちゃんと自分に惚れさせたうえですっぱり別れてやるという野望を抱き、タクミの身辺調査をするのだったが……。
 普通ならちょっと共感しにくいわがままな女を吉高由里子が好演しているうえに、これもさえなくも変な男を浜野謙太が見事に演じており、この掛け合いがけっこう笑える。普通ならなんだそれ、というような話で終わりそうなところが、お話はどんどん変な風に、そして意外な展開をみせる。性格には難があるものの、確かにかわいく、そしてセックスには都合のいい女だったわけで、それで多くの男ともそれなりに付き合うことができていたということだったのではないか。そういう女が曲がりなりにもしあわせをつかもうというか、真剣に恋をしようということになると、めんどくさくややこしいことになってしまったのではないか。いや、はっきり言ってものすごく面白いことになったのだけれど。
 これほどの傑作はめったにないのではないか、と感動した。何かものすごい話ということではないはずなんだが、コメディとして笑えるだけでなく、男女の機微を見事に表していると思う。若く奔放で魅力的な女が、そうしてモテているからこそ精神の安定もあったはずなのだが、裏を返せば、実は何も手にしていなかったのかもしれない。途中で突然に絡むことになるおばあちゃんの人生訓も素晴らしい。こういう映画があるから、映画を観るのがやめられないのである。実直に楽しんだだけでなく、感謝をささげたい。
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過去の作品だが、現在より先を行っている   クラインの壺

2020-07-13 | 読書

クラインの壺/岡島二人著(新潮文庫)

 上杉はゲームの原作に応募して見事当選する。それで原作者としてバーチャルリアリティのゲームの試作品を体験する被験者になることになった。一緒に試作品体験をすることになった梨紗という女の子と、バーチャルな世界と現実世界とを行き来する中で、段々と事件に絡まれていくことになる。
 すでに30年以上前に書かれていた作品とは信じられないほどの先見性のある設定である。その頃にここまで予見してバーチャルリアリティの恐怖を描き得たことに、改めて驚愕する思いだ。もちろん、未来を予見して、そのような世界を描いた作品は、その後たくさん出ているのだが、おそらくそれよりも先に、それも日本において、このような作品が作られていたなんてことが、ちょっと信じがたい感じなのだ。まだ携帯電話さえない世界にいて、コンピュータの可能性を追求しているといえる。さらにそれをもとに構築されている世界観に、それほど大きな破綻が感じられない。動機の中に疑問が無いわけではないが、そういうことも含めて、ちゃんとミステリの材料にも取り込んである。最終的には読者にも考えてもらうことも考慮した結末には、読後に仲間たちとワイワイ語るには最適な作品といえる。そういう意味でいくらでも重層的に楽しめる作品なのではないだろうか。古い作品なのに、基本的に古くなっていないのである。
 個人的にも、作品に出てくる神奈川や東京の街には、友人が住んでいるあたりのことで、結構なじみがある。だからと言ってはっきりと場所が確定できるわけではないけれど、雰囲気として、なるほど感も強かった。
 僕は岡嶋二人に関して、先に「おかしな二人」を読んでいたので、この作品が書かれた背景などを事前に知っている。コンビを解消する最終段階に書かれた作品であるから、これが未来を予見させる作品であったことも知っている。しかしそうであっても、ずいぶん時間が経過した今、これを振り返って考えるとき、ちょっと複雑な思いがある。それは、やはり二人がコンビを組んでいる間に練られていたアイディアが元になっていることは明らかであるし、そのようにして作られている世界観というのは、やはり奇妙な化学反応として、現れているのだろうということだ。僕自身は、この二人の微妙な力関係のゆがみがコンビを持続させなかったことは認めているのだけれど、たとえそうであっても、やはり二人がもう少し時間の余裕をもって、作品に取り組むことが可能であったなら、まだまだ作品を生み出すことができたのではないかという気がする。今となってはかなわないことではあるけれど、二人で議論を戦わせて、再度作品を作るようなことにならないかなと、数十年の時を経て、改めて希望するものである。だって、これだけ面白いのだから、期待しない方がおかしいのである。
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最悪から恋に落ちる   恋のドッグファイト

2020-07-12 | 映画

恋のドッグファイト/ナンシー・サヴォカ監督

 ひとに勧められてみた作品。リバー・フェニックス主演の青春映画である。
 海兵隊の悪ふざけで、一番笑える不細工な女の子をナンパしてパーティに連れてきた人が勝ち、というゲーム(それをドッグファイトと読んでいるらしい)をやっている。そういう下品な遊びとは知らず、ナンパされる女の子はたまったものではない。特にリバー・フェニックス役の男がナンパした相手は、個性的で内気な女の子だったから、いわゆるハメられたような格好で連れてこられたことを知り、激しくショックを受けて帰ってしまう(当然だ)。さすがに悪いと感じて、言い訳のために再度食事に誘って一晩一緒に過ごすことから、不思議な感じのラブストーリーが生まれる、というお話。
 監督さんが女性だということが、僕のような男の目からはよく分かる作品だ。男たちのくだらない下品さがあることを理解したうえで、それでも恋に落ちていくあらがえない女心をうまく表現している。また、馬鹿げた悪い男の子であるが、女の子に対しては、純粋な心を残しているという設定の青年像が、また見事にあらわされている。なるほど、こういう男なら、女の子は憧れるのだ、ということと、許せるのだ、ということがよく分かる。若い人の恋の在り方の、見本のような作品ではあるまいか。また、ベトナム戦争の時代もうまく表現されているので、そういう世論のようなものも実に勉強になる。小品だが、なかなかに捨てがたい作品ではないだろうか。
 この作品を見て感じることは、基本的には、アメリカ人も日本人も、相手を好ましいと思う感情や、見栄を張ったり、臆病だったりすることはおんなじなんだということだ。当たり前といえばそうかもしれないが、僕はどこかアメリカ人の方が、積極的で、性的にもおおらかな印象を持っているのだが、基本的な恥じらいなどの感情に、そう大した違いは無いのではないかと思わされるのである。映画というのは、それなりにデフォルメされて、現実のものとは乖離があるとは考えていいが、この映画では、ファンタジーとはいえ、感情の素直なものを、見事に演出できていると思う。そういうしっかりとしたリアリティのようなものがあるからこそ、ファンタジーは生きてくるのだ。まるっきりの嘘っぱちばかりだと、訴えかけるものなんてなくなってしまう。そういうものを受け止められる映画こそ、いい映画といえるのである。青春はこうでなくちゃいけないのである。
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近所のコンビニ

2020-07-11 | 境界線

 職場のすぐ近くのコンビニは、セブンイレブンである。すぐ近くといっても田舎のことだから歩けば5分ほどかかる。しかし間に建物はほぼないので、お向かい、と言ってもいいかもしれない。でもそんなことを言うと、かえって混乱するかもしれないですね。でもそれは本当のことで、歩いている道すがら、一方の道では保育園が一件道端にあるが、他の道では、それすらない。僕は歩いていくが、うちの職場の人間は、恐らく自動車で行くはずだ。通勤や昼休みに利用している人も多いようだ。といっても数人もしくは一人二人だが。店のオーナーも、店員さんも、さらに一部の人は、店員さんの家族まで知っている。田舎だからね。
 だからというわけじゃないが、セブンイレブン以外のコンビニに入ると、ちょっと違和感を覚える。近所のコンビニと近くでないコンビニの店舗の作りは、驚くほど似ているけれど、しかしやはり違うことくらいはすぐにわかる。その上で、違うコンビニなら、戸惑うくらい違うような気がする。それはそれなりに似ているとは思うが、何か即決できるほど、同じ感ではないのである。コンビニの好みの感覚というのは、そういう差異から生まれているのかもしれない。
 それというのも、やはり近所だけど、車で4分の場所にあるローソンに入ったのだ。そうすると買い物に時間がかかる。かかるといっても、近所のセブンイレブンなら2分半のところ、ローソンだと4分というくらいの違いだったのだろうけど。で、買い物してレジの人からレシートをもらって話しかけられたのだが、それらの会話のトーンさえ違うのが新鮮だったのかもしれない。田舎だから店員さんは外国人じゃないし、学生さんでもないかもしれない。でもおそらくオーナーでもない。それにいくら田舎でも、知らない人だ。まあ、それだけの話であるはずなのだが、これだけの距離の関係の違いだけで、これだけのなじみの違いというのは何なのかな、と思ったのだろう。だからと言って、今後その生活様式を変えてみて、4分の店に通うことは無いのである。たぶん。
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天然でけなげがかわいいとは限らない   高校生デビュー

2020-07-10 | 映画

高校生デビュー/英勉監督

 中学生時代はソフトボールに一筋に打ち込んでいた晴菜だったが、高校生になったら恋に生きると決めていた。自分なりに勉強して高校生らしい(いけてる)格好をしてナンパされるように噴水の前に立ち続けるが、半年間空振りし続ける。そこで脱げた靴を拾ってくれたイケメン君と出会う。それが同じ高校の先輩(かわいいクラスメイトの兄)だと分かり、恋する女子高生になれるよう、コーチしてくれるように頼む。最初はもちろん断られていたが、過去に女性関係で大きな心の傷があるらしいヨウ君は、絶対に自分に恋をしないという条件で、結局コーチを引き受けてくれることになるのだった。
 2011年の作品で、出ているキャストが何だかみんな可愛らしい。要するに今も活躍している人が多いみたいで、当時のそれなりのアイドル路線の映画だったのだろう。失礼ながらヒロインの女性だけは僕はよく知らないのだが、観たことが無いわけでは無さそうだ(大野いと)。ローティーン向けの映画だと思われるが、行き過ぎたデフォルメと恥ずかしい演技が延々と続くので、忍耐の必要な人が多い映画かもしれない。
 いわゆる天然のイケてない女の子が、なりふり構わず行動して、その健気さにほだされて、結局ものすごくイケメンで優秀な男子が心を動かされるというファンタジーの世界を満喫するための映画である。これはもう、少女漫画の世界では、ものすごいループでもって展開されてきた世界観なのだが、改めてその偉大なるマンネリを見てみて、さすがにさらに考えさせられることになる。それは他でもなく、自分の母親にもこのような世界観があるような気がする、というか、そういう価値観のようなものが、彼女の行動を左右しているように思えるからだ。これは僕が選んで(なぜ選んだかというのはすでに忘れていることだが)借りた筈の映画だが、自分の恋のお勉強をするために観ているというか、ふつうにこういう娯楽が好きだから観ているわけだが、しかしこれほど露骨にお話が展開されていると、かえって退屈になっていろいろ考えざるを得ない。そうして気づいてしまったのは、まったく母に似つきもしない若い女の子の言動に、母親の言動が被ることに気づいたのだ。ちょっとのけぞってしまうような感覚はあるが、事実そうなのだから仕方がないじゃないか。
 もう少し解説が必要なことは分かるのだが、要するに女性にはいつまでも少女性というか、自分なりの望ましい価値観のようなものがあって、それがたぶんこのような「天然の私」なのではなかろうか、というわけだ。しかしこれは理想なので、実際の自分と乖離があっても全然本人は気づいていないのである。まったく平和である。
 というわけで、ちょっとしたトラウマ映画になりそうなので、誰も見ないでください。

追伸:よく考えてみると池田エライザが出ているらしいと、観ているときにつれあいが言っていたのだが、どこで出ていたのか、最後まで分からなかった。しかし考えてみると、これを借りた動機は、池田エライザだったはずなのだ! もう返却しちゃったよ、まったく。
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実はワイルドなのは母だった   未来のミライ

2020-07-09 | 映画

未来のミライ/細田守監督

 4歳になる男の子がいる家に、妹が生まれてくる。両親は赤ちゃんの世話に翻弄されているし、事実上共働きで忙しく、お兄ちゃんのくんちゃんにはろくにかまうことができなくなる。今まで我がまませんばんに暮らしてきたくんちゃんとしては、世界がガラッと変わってしまう大変なことになる。不満は募り、行動はエスカレートし、キレまくって騒動を起こす。そうして暴れているある日、ちょっとしたはずみに異世界に迷い込んでしまう。そこでは、なんと未来の女子高生になった妹の未来(彼女の名前)が現れるのだった。
 下のきょうだいができると、多くの子供は赤ちゃんがえりをする。特に長男長女は、両親からの愛情をそれまで独占していたわけで、たとえそれが分散されただけにしろ、とても許せない心情に至るのかもしれない。劇中でも言葉にされていたが、いわゆる嫉妬心ではあるが、本能的な人間の反応ということなんだろう。誰でも知っていることだし、当人にとっては重大なことかもしれないが、それが成長段階において精神的にダメージがあったとしても、まあ、どうしようもない話かもしれない。
 基本的にはそこのあたりを題材にした映画である。モデルになった話もあるのかもしれないが、いわゆる子育て「あるある」である。経験のない人だって、まあ、そうだろうな、くらいには共感のある話かもしれない。
 アニメーションなので、異世界に迷い込む違和感はそんなにない。現在と未来が同時に現れることができないルールらしいのだが、異世界の中では本人も本人と会うので、そのルールの厳密性すらよく分からない世界である。でもまあファンタジーなんだから、そういうのは、一応許容しなければならない。不思議な世界だし、時間の経過もちょっと不明瞭だ。実在するだろう人物が出てくることを考えると(未来には不思議なものもいるが)、基本的にはタイムマシンのようなものである。しかし犬の場合はどうするか…。うーん、まあ、いろいろあるんだろう。
 ということで、諒解しなければならないルールがありながら、それなりに疑問が残るのは仕方のないことかもしれない。そういう整合性よりも、要するに幼児の成長物語という体面で、家族の成長もあらわしているということだろう。子供の成長に合わせて、家族の歴史と世代を超えたつながりが明らかになっていく。そうしてそういう世界に、我々人間は暮らしているわけだ。そういう意味ではファンタジーというより、現実を注視した作品といえるのかもしれない。そうして、そうであるからこそ、むしろ大人向けの物語なのであろう。
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東京は日本とは別の国ではないか?

2020-07-08 | net & 社会

 東京都都知事選が終わった。結果がどうなったかということに関心のある人がいるのかどうか知らないが、誰が勝ったかは、選挙があったことを知らない人でも知っているのではないか。
 月曜の株価は上がったりしたので、これは市場が好感を持ったということかというと、よく分からないそうだ。何が争点だったのかということすら分からないが、そもそも報道もそんなに多くなかったのではないか。街頭などの演説も少なかったらしいし、ネット選挙だったともいわれている。ちょっと投票率は低くなったが、まあ東京といえばそんなもんかな、とも思わないではない。たくさんの人が立候補したので、供託金をたくさん没収されたのだろうな、ということくらいが最大のニュースだろうか(それすら見ていなかったが、一応見ると、上位三人以外が没収ということである。たしか22人が出ていたはずである)。供託金は300万円だそうだけど、東京都に関しては、もう少し上げたほうがいいのではないか。まあ、それで誰が潤うということでも無いのかもしれないが。
 まあ、それでも選挙なんで、まったく意味のないことだという気はない。いくらほとんど意味がなかったとはいえ、少なからぬ影響は無いではないことである。選挙前に告発本に近いものが出版され、それなりに売れたという。しかしながら読んでないので知らないばかりか、その告発内容も、要するに小池さんがどんなに信用ならないかということを、カイロ大学時代を知る人から取材して書いたものらしいということは聞いた。カイロ大疑惑というのが小池さんにはあるらしいが、わりあい気にしてない人が多いようにも思う。
 ひとにはうるさい人でも、自分にはうるさくないのは人情だから、割り引かれたか、やはりそこまで関心を引くほど、そういうことは割引済みだという支持者が多いのかもしれない。他にも何かあったのかもしれないが、基本的には人気が高いうちは、簡単には物事がスキャンダル化しないのかもしれない。何か暴言を吐いたとか暴力を働いたとかいうようなことをしそうではないし、しかし比較的ワンフレーズはマスコミは拾ってくれる。出身がそうだからか、そういうあたりはそもそもマスコミフレンドリーで、力のある人なのだろう。
 二期目であっても何をやったかは一切問われず、何かをやる(批判する)ことに期待される人なのだろうと思う。となると、オリンピックはどうなるか? いや、僕は関心無いんだった……。
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捨てるべきは、何を?

2020-07-07 | Science & nature

 そもそもレジ袋の材料であるポリエチレンは、石油を精製する際にできるナフサを原料にしている。ポリエチレンを作ること自体は、だからリサイクルのような側面がある。余って使えないようなら捨てるだけだからだ。
 今回の有料化による最大の目的は、レジ袋を減らすインセンティブのために料金を課すということらしい。実は海などに漂着しているプラスチックごみの中に占めるレジ袋の割合は、0.3%といわれている。ペットボトルは12.7%だということなので、ペットボトルの100分の2程度ということだ。ふつうに考えて、このような政策の実施がプラスチックごみの削減に対して、何の意味があるのかさえ不明であるレベルといっていい。聞くところによると、ポリ袋を作っている会社のほとんどが地場の中小企業で、単にスケープゴートにされていじめられているだけであるという。レジ袋の有料化というのは、地元に根差したまじめな企業を、社会的にいじめて遊ぶ行為に等しいということだ。彼らにだって家族はいる訳で、いったい誰が責任を取るというのだろう。
 さらに可燃物ゴミには一定量のプラスチックごみが無ければ、うまく燃えないのだという。燃えない場合は重油などを混ぜて燃やさなくてはならない。そもそも東京などは、すでにプラスチックごみなどの分別さえやめている。分けるからゴミとして問題が出るが、一緒に燃やせば何の問題も起きないからだ。
 勘違いしている人も多いことだと思うが、このようなプラスチックごみのリサイクルには、大きなコストがかかり、その分ふつうにプラスチック製品を作るより大きなカロリーを必要とする。リサイクルすることは、環境により大きな負荷をかけるということなのだ。
 ただし、僕自身はマナーや生活様式の上で、プラスチック製品にばかり頼らないという考え方には賛成する部分はある。たった一つ物を買うのにポリ袋をもらうようなことをする必要は無いし、ゴミ箱以外に捨てられたポリ袋がそこらに舞っている状態は見苦しい。買い物客の資質として、レジの店員とはちゃんとコミュニケーションをとって意思表示を明確にすべきだと思うし、ゴミはちゃんとごみ箱に捨てるという最低のマナーは守るべきだ。その上で、自分が好ましいと思うのなら、自分の買い物袋を携帯するなりの生活スタイルを貫けばいい。人の好みなどに介入するような、さもしい心こそ捨てるべきなのだ。
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騙されていることを知らなくてはならない   ザ・マジック・アワー

2020-07-06 | 映画

ザ・マジック・アワー/三谷幸喜監督

 ボスの女に手を出して不味いことになった男が、出まかせで、伝説の殺し屋のことを知っていると口走ってしまう。それではその殺し屋を連れてくれば許してやるといわれ、実際は知るわけないのだから、売れない俳優に映画撮影だと偽って殺し屋を演じさせて、ごまかそうとするのだったが…。
 三谷映画という分野のコメディであるという断り書きがあったうえで、鑑賞すべき映画。舞台芸という感じなら、それなりに納得いく人もいるかもしれないが、あくまで映画でコメディで、リアリティは必要ないという作品であることでなければ、この作品には絶対にノレない。その上で「面白い」を楽しめる設定なのだけれど、そうなりさえすれば、三谷世界天国といっていい作品に感じられることだろう。いや、素直に面白かったです。
 売れない俳優ながら、アクション映画の主演を演じることを夢見て、スタント的な役を、ついついオーバーアクト気味に演じ続けている二流俳優の悲哀があって、その夢をかなえるべく来たオファーが、他でもなく人を騙す演技であったのだ。映画のためだから仕方ない、とは言え、かなり怪しいロケに、少し納得がいかないまま演技を続けていく。何とか現実の世界に符合しながら物語は進むのだが、そういう危なっかしいぎりぎり感のようなものを、観ながら笑うという寸法である。正直言ってコメディ色の方が強いので、そのギリギリ感というのはほとんど無いのだが、まあ、何とか綱渡りでつながるお話を追う、というのはあるかもしれない。そうして方向転換があり、脚本のずれが生じながらも、本当の映画の筋書きは進んでいくのであった。
 いわゆる映画愛を語る映画、というスタンスもとられていて、裏方も含めて、多くの人の映画愛が、スクリーンの場面を作るためにはあるわけで、そのことを語るために、さらに遠景から眺めるという構図をとっている。それは重層的には、観ている僕らに対して、そのことを分かって欲しい、という監督からのメッセージである。確かに時にはそう思って観ているわけだけど、そういうことを忘れて没入するから映画は素晴らしいわけである。はい、しかし時には敬意を表して、思い出しながら観るべきものなのかもしれません。
 映画の中でも演技をするということをしなくてはならなくなった俳優さんたちは、そうして演技をすると少しわざとらしく演じなければならなくなる、という演出であった。それはもう、観ている僕らに対するサインでもあるわけだが、そう考えると、そういう分かりやすさというのは、シリアスな演技においても、同時に行われている演技の延長であることも分かる。結局は観る者の理解が追い付かない世界は、映画の世界としては成立しないということだ。コメディはコメディだが、ある意味でこれは哲学で、これが分かるかどうかは、やはり観るものの素性が問われる問題なのかもしれない。
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帰りにウイスキーを買う

2020-07-05 | 雑記

 ずいぶん前のことだけど、給料をもらって銀行でお金をおろして、家に帰る途中の酒屋でウイスキーを買った。赤いキャップのバーボンで、その当時はそれなりに奮発したのである。普段ウイスキーを飲むのかといえばNOで、そうめったに飲んでたわけではない。そのバーボンにしても、名前を知っているから手に取ったということと、普段飲まないからこそ買ってみたという感じだったのかもしれない。手に取って、高校生じゃあるまいし、初めて酒を買ったわけでもないのに、ちょっと勇気を出して買った。そしてもちろん、家にかえってビールを飲んで、それから氷を落として飲んだ。胃のところがグッと熱くなって、すぐに酔っぱらったと思う。ウイスキーってそういう飲み物だし。
 以前は時々そういう気分になっていたな、と思い出したわけだが、じゃあ最近はどうしてそういう気分にならないのだろう。お酒はつれあいが買い置きしてくれるようになって、めったに自分で買わなくなってしまった。それに飲むパターンというのがあって、家で飲むときにウイスキーの入る余地が無くなってしまったというか。
 ウイスキーを飲んで人と話をしても別段悪くはないのだが、そうして深夜のバーなどでは、そうやって会話している人だっていることだろうけど、ウイスキーを飲むというのは、どうも一人で孤独でやっている方が、しっくりするような感じもある。アルコール度数が強いので、すぐに酔っぱらってしまうということもあるけど、何かグッと自分の内に入り込む感覚というか、そういう気分と同調しやすい飲み物ではないか。そうはいっても僕は話好きで、飲めばいくらでも語りだしてしまう性質があるわけで、誰かがそばにいたりすると、ウイスキーであろうと何だろうと、饒舌になって、気分が台無しである。だから誰もいない状態だと自由に語ることができないわけで、一人になって内省するしかないだけなのかもしれない。時にはそうすべきという意見も聞かれそうなんだけど。
 ということで、僕はウイスキーを飲まなくなったのだろうか。聞くところによると、巷間ではハイボールにして飲む人がたくさんいるんだそうだ。まあ、ハイボールも美味しいですけどね。トイレは近くなるけど。僕の高校生くらいの時には、それなりにハイボールとかコークハイとか流行ってたな。どことなく懐かしい飲み物だ。それにウイスキーとはいえ、わいわいやっていい感じも確かにする。もうウイスキーの持つ孤独な感じとはかけ離れすぎている。結果的に原料なんですよ、ということであるだけのような感覚だろうか。それにわざわざ銘柄を選ぶというような必要さえ感じないというか。
 ということで、とりあえずは一人でウイスキーを買いに行きたくなるような気分とは程遠いところに住んでいる。それが良いことか悪いことか……、たぶん、良いことなんだろう。
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