災害ボランティアというのに行ってきた。地元の社協にボランティアセンターが設置されたのは知っていたが、個人的には宣伝はするものの、すぐに手を上げることまではしていなかった。所属している奉仕団体の呼びかけがあって、それでは! ということで参加できたわけだ。まずはそのことに感謝したい。行きたいけど、個人ではなかなか行動にまでは移せないものである。また仕事の都合などもあるので、多少の無理もしなければならない。こういう呼びかけがあると無理のし甲斐もあるというものではないか。こういう行いは個人の意思が大切だが、実際に仕事には人手が必要だ。このような組織だっての行動には、たいへんに意味深いものがあろう。
ということで被災したお宅に伺ったのだが、家の中を満たしている土砂というか泥の黒々とした姿に、まずは言葉を失った。作業がたいへんであるだろうことはもとより、これを見た家主さんはどんなお気持ちだろう。まずは本当に心が痛んだ。おそらくだが、家の中のものは、ほとんど使い物にはならないだろう。
幸い、被災した時には誰も住んではいなかったそうで(どういう事情かまでは知らない)、人的な被害のあった場所ではなかったらしい。小さめの重機などを扱っている人が被災者らしく、そのご家族か親戚かの人も数人おられて、我々を出迎えてくれた。一緒に作業もされるのだろう。
作業自体は泥だらけになったものを運び出したり、土砂そのものを延々と掻き出すというもの。石や木材や割れた瓶など、まさにいろんなものが混ざり合っている。水気があって重たいが、これが乾くと固くなるだろうから、それはそれで作業がやりにくくなるのかもしれない。まさに今やらなければ、もっと大変なことになるだろう。畳や板の間に大量に積もった土砂を取り除いていくと、その畳や板の間が、今度は弱くなってへこんだり穴が開いたりしてしまう。適当な板を見繕って人間や一輪のネコ車が通るように補強する。それでも時折板を割って踏み外す人などもいて、ちょっと危険である。作業自体は20分毎くらいに休憩しながらやっているが、湿度も高く時節柄マスクもしており、すぐに汗が噴き出してきて苦しい。家の中の食品などが混ざっているのか、なんとなく臭いも気になるところだ。没頭して作業しながら、どんどん体力が消耗していくのが分かる。休憩間近には、なんだか頭がボーッとするような状態に何度も陥ってしまった。
それでも人数がいるのが頼もしい。少しずつではあるが進捗している。そういう実感があって、それがまた励みになるという感じかもしれない。泥だらけだからきれいになるという感じではないものの、埋め尽くしていた黒々とした泥がなくなっていくのは、それなりに快感を伴う。おそらく僕らの多くは、それらの作業の進み具合に、力をもらっていたのではなかろうか。
そうやって午前午後と作業を進め。だいたいのところで予定より少し早く目標の作業は終えることができた。午後からは力のある高校生も大勢やってきたので、みるみるスピードが上がった感がある。疲れもあるが流れも良くなって、終わった後の爽快感や達成感も味わえた。実際には横の納屋など他にもやるべきところはいくらでもあるのだろうけど、崩れた土砂などを運んだ裏山などには、重機などで対応しない限り、ちょっと人力だけでは難しいだろう。また、実際どうされるのかは分からないが、人が住めるようになるには、それなりにプロの手も必要だろうし、相当な資金がいることだろう。
今回お手伝いできたことはほんの少しの労力に過ぎないが、このように力を貸すことができたのは、本当によかったのではなかろうか。テレビなどで被災地で活躍するボランティアの姿を見ることがあるが、自分がこのように実際に働くことができて、むしろ本当に彼らのことを尊敬する気分にもなった。今はいろいろ事情があって地元のみという処置がとられたようだが、自ら進んで遠くまで出向いてまでボランティアをしようという気持ちというのは、やはりたいへんに貴重な心掛けである。お金を掛ければ、基本的には災害復興などは進めることはできるのかもしれないが、これだけの人がかかわって何とかしていこうということが、単に復興するだけ以上のものを形作っていくのではないだろうか。
正直言って本当にくたくたに疲れ果ててしまったが、少なくとも夜のビールは、最高に旨かったのでありました。また一緒に作業した仲間に対しても、友情のような感情が湧いてしあわせでした。こういうのも、いいものですね。