ザ・マジック・アワー/三谷幸喜監督
ボスの女に手を出して不味いことになった男が、出まかせで、伝説の殺し屋のことを知っていると口走ってしまう。それではその殺し屋を連れてくれば許してやるといわれ、実際は知るわけないのだから、売れない俳優に映画撮影だと偽って殺し屋を演じさせて、ごまかそうとするのだったが…。
三谷映画という分野のコメディであるという断り書きがあったうえで、鑑賞すべき映画。舞台芸という感じなら、それなりに納得いく人もいるかもしれないが、あくまで映画でコメディで、リアリティは必要ないという作品であることでなければ、この作品には絶対にノレない。その上で「面白い」を楽しめる設定なのだけれど、そうなりさえすれば、三谷世界天国といっていい作品に感じられることだろう。いや、素直に面白かったです。
売れない俳優ながら、アクション映画の主演を演じることを夢見て、スタント的な役を、ついついオーバーアクト気味に演じ続けている二流俳優の悲哀があって、その夢をかなえるべく来たオファーが、他でもなく人を騙す演技であったのだ。映画のためだから仕方ない、とは言え、かなり怪しいロケに、少し納得がいかないまま演技を続けていく。何とか現実の世界に符合しながら物語は進むのだが、そういう危なっかしいぎりぎり感のようなものを、観ながら笑うという寸法である。正直言ってコメディ色の方が強いので、そのギリギリ感というのはほとんど無いのだが、まあ、何とか綱渡りでつながるお話を追う、というのはあるかもしれない。そうして方向転換があり、脚本のずれが生じながらも、本当の映画の筋書きは進んでいくのであった。
いわゆる映画愛を語る映画、というスタンスもとられていて、裏方も含めて、多くの人の映画愛が、スクリーンの場面を作るためにはあるわけで、そのことを語るために、さらに遠景から眺めるという構図をとっている。それは重層的には、観ている僕らに対して、そのことを分かって欲しい、という監督からのメッセージである。確かに時にはそう思って観ているわけだけど、そういうことを忘れて没入するから映画は素晴らしいわけである。はい、しかし時には敬意を表して、思い出しながら観るべきものなのかもしれません。
映画の中でも演技をするということをしなくてはならなくなった俳優さんたちは、そうして演技をすると少しわざとらしく演じなければならなくなる、という演出であった。それはもう、観ている僕らに対するサインでもあるわけだが、そう考えると、そういう分かりやすさというのは、シリアスな演技においても、同時に行われている演技の延長であることも分かる。結局は観る者の理解が追い付かない世界は、映画の世界としては成立しないということだ。コメディはコメディだが、ある意味でこれは哲学で、これが分かるかどうかは、やはり観るものの素性が問われる問題なのかもしれない。