カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

二度目でも楽しめた   白ゆき姫殺人事件

2020-07-29 | 映画

白ゆき姫殺人事件/中村義洋監督

 最初に断っておくと、これは二度目の鑑賞であった。僕のブログで検索してみて分かったのは、2015年の7月8日にあげていた事実だった。しかしまた観てしまったのは、観ていたことを失念していたからだ。記録を見てもちゃんと楽しんでみたということは書いてあるのだが、ナント、ほとんど内容を覚えていなかったので、またしてもものすごく楽しんでみることができた。それ自体は素晴らしい体験にちがいないが、いささか我がことながら呆れずにいられない。これだけ面白い内容を、たった5年ほどの歳月記憶に保持する能力を持たなかったとは……。
 原作が湊かなえであることも、前回も今回も意識してなかった。確かに見終わってみると、湊かなえ色は十二分に発揮されている。読んでないくせに分かるのか? と言われると、ちょっと自信は揺らぐけれど、しかしこれはやはりその原作にあるだろう感情の嫌なところなどが、出ているはずだと思う。誰にでもあるだろう嫌悪感や妬みや嫉妬や憎悪などが、実にうまくミックスされて、物語のリアリティを形作っている。そういうものを再現させているだけでも、映画としてたいへんに優れた演出がなされていることが理解されることだろう。演じている役者も適材適所で、実に素晴らしい。もちろんデフォルメがあって、過剰さはあるが、それが無い映画というのは、娯楽作としてそもそも失敗しているに過ぎない。おそらくだが、内容を覚えていて観たとしても、やはり楽しめる映画のはずなのである。
 一応ミステリ作品であるが、謎解きそのものを楽しんで驚くものではないのかもしれない。ミスリードしていく展開自体が面白い社会現象を表していて、風刺が効いてグサりと来る。オープニングの表題の表し方の意味も、後になって効いていたことを知る。いろいろ仕掛けもあるし、その表裏の見せ方の違いも、見終わった後にじわじわと楽しめる寸法である。そんなに救いのある話では無い筈なのに、一応の収束も見られる。まったく上手いものだな、と感心しきりだ。素直に楽しんで観ればいいだけのことだけれど……。
 そういうわけで、二度目のお勧めなのである。人間個人の持つ、いい感じと嫌な感じというのは、このように分かることが可能なのかもしれない。そして僕は赤毛のアンのファンであって、永遠の友情を信じるものである。結局ギルバートがいなくて残念だったが、それはまた、いつか出会えるはずだということも信じていよう。
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バカでも動じない勇敢さ

2020-07-29 | 境界線

 オークションというのには、恐らく一生たずさわる機会など無い筈だとは思う。別にひがんでいるわけではないが、興味があるわけでもない。オークションとは逆にバナナのたたき売りのように、時間経過とともに値段が下がるのであれば注目のしようもあるが、値段が吊り上がるものを眺めるにしても、参加のしようが無いのである。
 オークションは一番の高値の人に売るのだから、売り手にとって有利なやり方である。しかしながら、それを分かっていて参加するような人がいるのは、それでも欲しいと思うからに他ならない。サザビーズのような会社のオークションで扱われている商品は、だから希少品や美術品なのである。欲しい人が高額でも欲しがるのは、他に手に入れようがないということもあろう。また、絵画など世界でも唯一であれば、手に入れた者の勝ちである。手に入れた人が他に譲る気にならない限り、それは手元に残り続ける(盗まれない限り)。金持ちの考えにはミステリもあるが、それが唯一であるからこそ、高い価値で買いたい、または他にも認めて欲しいという欲求もあるかもしれない。それは一種の見栄であろうが、他人(ひと)がうらやむのであれば、それが快感でもあるかもしれない。または投機的な意味合いも含まれ、資産としても一定の価値を持ち続けられる対象になるということだろう。もちろん素人にとっては、単なる詐欺の口実かもしれないので、信じるか信じないかだけの話かもしれないが。
 そのような性質を持つオークションについて、心理学者カーネマンは「愚か者を見つけるツール」と呼んだ。なかなか皮肉の効いた言い回しだが、その愚か者になろうとも、やはりまだ参加する人はいる。また、株や投資家として著名なウォーレン・バフェットの会社では「私たちはオークションに参加しません」と謳っている。投機されるものこそオークション的な対象と似ているようにも思えるが、あえてそれを否定して信用を得ているのかもしれない。
 事実オークションの落札者は、目当てのものを手に入れてしあわせな気分を味わえるかもしれないが、実のところ平均以上の価格や価値を支払わない限り、自分のものになっていない可能性に甘んじなければならない。要するに平均であれば他の誰かでも手に入れられるのだから。さらにそうであるならば、今後はその価値はさらに下落する可能性も高いのである。それを指して落札者のことを「勝者の呪い」にかかった者、と呼んでもいるのである。まったく散々な目にあう愚か者であると、世界中に吹聴しているようなものである。オークションに参加するような人は、だからそれなりに厚顔である必要があるはずなのである。
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