カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

静かな情熱と時間の使い方   舟を編む

2020-07-26 | 映画

舟を編む/石井裕也監督

 辞書の編纂に関わるようになった不器用な若手編集者が、もともと苦手な人間関係や恋を通して、いわゆる人間的に成長していく様を描いたもの。辞書を作る作業自体が、とてつもない労力を必要とする世界であることが見て取れる。しかし出版社においては、実はちょっとしたお荷物のような扱いをされていて、地味で日影の部署になっている。辞書を出版する会社というプライドのようなものだけで、存続が許されているということなのかもしれない。主人公の男は、他の売れている花形雑誌などでは自分の能力をうまく発揮できないが、地道に打ち込み根気強く力を出すには、辞書作りの道が最適なところだったということである。
 地味な作業ながら、おおざっぱな締め切りが無いことも無い。十三年ぶりに出版のチャンスを得て追い込み作業に追われる中で、重大なミスが発覚し、それでもやはり地道な道を選択して乗り切ろうとしている。延べ人数と時間を使わないことには、辞書は編纂できない。やれることは素直に実直に対応していくよりない。そもそも他の道は選べないのが、辞書の世界なのだろう。
 大変だというのは分かるが、まあ、多くの仕事は、そういうものではあるだろう。辞書は言葉を扱うものだから、その言葉のエピソードには、面白い特殊性はたくさんあるようだが。例えば映画の中でそれなりに苦労している言葉に「右」の説明がある。右がなんであるか、感覚的には自明のことが、言葉だけで説明するには、それなりのテクニックとセンスを必要とする。実際には方角を指して正面でどちら側であるかとか、時計の数字で表すとか、漢字の並びでどちら側であるとか、様々な説明のしかたがあることが分かる。持っている辞書をいくつか引いてみると、方角派が半数以上だった。ついでに英語の辞書を引くと、右には様々な暗喩に使われる意味があることが分かる。日本のそれにもたくさんあるが、むしろ右はその基準とされる座標としての位置の方が重要で、その説明後に示される言葉としては、あんがい脆弱なものなのかもしれない。そもそも右という存在こそが座標軸になりうるもので、右の規定なしに何かを表すことが困難である。ということは、その説明が難しいのは当たり前で、そのこと自体が一種のパラドックスである。
 さて、そうやって言葉の世界にどっぷりハマって長い時間を費やして、やっとの思いで出版されるということになって、一番の中心人物の先生は体調が悪いのである。それは大変に緊張を強いられることなのだが、しかしそのことで、情熱をもって生きていることの意味も、図らずも示されるという意味なのだろう。辞書のような仕事ばかりではなかろうが、多かれ少なかれ、仕事というのはそういうもんだ、というお話なのではなかろうか。まあ、でも変人でなきゃできないものもあるよ、って話もでもあるんだが。やっぱり言葉で説明すると理屈っぽくなるので、映画のディフォルメはこのような演出にならざるを得ないのだろう。
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