カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

金ぴかの権力とサクセスのための美貌の戦い   マチルダ 禁断の恋

2020-04-15 | 映画

マチルダ 禁断の恋/アレクセイ・ウチーチェリ監督

 ロシヤ映画。19世紀の皇帝の継承者である皇太子が、英国皇室関係の婚約者がありながら、バレリーナに恋してしまうという物語。バレリーナは当然出自があまり良くないのだろうと思われる。皇室関係者と結ばれることで、一気に生活が変わるだろうこともあって、娼婦のように次々に男と関係を持つようなことで生活を保っている(そしてバレエも必死で踊っている。地位の高い男性を射止めるためであるようだ)。踊っているとき服のひもが切れて、胸をあらわにしても動じることなく踊り続ける。必死さもあるが、そのために男の注意も引くわけだが(当然だろう)。
 史実をもとに、当時のロシヤの世論を揺るがした物語をもとにしているようだ。普通ならバレリーナの立場の女性がけなげであるとか、虐げられているために、皇室の格式ある状況に苦しめられるという構図を取る方が分かりやすい筈なのだが、もちろんそういう構図は確かにありながら、このバレリーナはしたたかに強い面があって、共感を得られるかどうかは微妙だ。さらにこれがロシヤ的な女性ということなのかどうかもよく分からない。とにかく一般的な西側の映画とは表現が違いすぎて、どういう立場で映画の人々との視点と調和させてよいか戸惑う。皇太子の強い恋愛感情は少しわかるが、この女に恋する男たちは複数で、その他大勢の中で地位が一番高いために有利であるだけという感じが、何かやはりカッコ悪い。バレリーナを自分のものにしたい男たちは、形上争うけれど、それがどうしたのか? という感じだろうか。どのみちこの女は、全部と関係を結ぶことに躊躇などなく、この恋愛レースを勝ち取ったところで、要するに愛が成就されるというような話でさえないのだから。
 金ぴかの貴族社会と、一般市民の垣根は相当にあるはずで、それを超えられるのは、よっぽど力の強い軍人か、女であるバレリーナか、ということなのかもしれない。そうして現代社会になるにつれて、こうした社会は崩壊していくことになるのだろう。
 妙な作品ではあるが、社会主義の時代だったソ連では、描きにくかった作品なのかもしれない。ロシヤらしいとは言えないハリウッド的な見せ場の多い演出にはなっていて(要するに派手)、そういう意味では西側社会でも問題なく楽しめる作品ということになるのかもしれない。まあ、倫理的にどうというものではないにせよ、これくらいの人たちでないと、この世界はまともに渡り歩けなかったのであろう。
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先に謝っても事実は変わらないはずだが

2020-04-14 | 境界線

 出会いがしらの交通事故など、ちょっと考えたくらいではどちらが悪いか分からないような場面があったとする。または当然あちらの方が悪いと思われるが、中央線のない見通しの悪いカーブなどでもいい。最初に断っておくと、僕は保険屋ではないし、警察関係者でもない。要するに本当にどちらが悪いかなんて、客観的に判断できるような人間ではない。また、そのような状況で、有利になるとかいうような、場合によっては有用な話でもないとは思う。
 これは聞いた話だけど、そういうときは決して先に謝ってはならない、ということだった。理由は、先に謝ったという理由で、自分の方が不利になる(要するに、保険の点数的に不利だということだったかもしれない)というのだ。
 先に断った通り、それは本当のことだったのかどうか、あんまり自信がない。そういうものかな、という思いがあったのか、うつろに覚えているだけのことで、ひょっとすると、こういう時世をその方が嘆いていて、そういう話になったのかもしれないとは思う。
 しかしながら多くの場合は、恐らく車に限ったことだけではないと思われるが、こういうケースでは、相手に大丈夫ですか、といたわりの言葉をかけるとか、どうもすいません、などというようなことを口にした方が、その後の交渉はずいぶん上手くいくはずである。これも聞いたことのある話なのだが、以前に謝るな、という話を先に聞いたことがあるので、意外な気がして覚えている訳だ。なるほど、こちらの方が本当かもしれないな。
 特に日本語の場合の「すいません」というのは、単なる謝りだけに用いられる言葉ではない。そもそもその場を、何か取り繕うのに発する音として、さしあたりの少ない利便性を伴っているという感じでもあろう。どうもすいません、という相手に対して、いえいえこちらこそすいません、というような会話になって、さて、この事故はどうしたものでしょう、という話に行きやすいということかもしれない。警察でも呼びましょうか、という感じになるんだろうか。
 もっとも、そうとは限らないよ、という意見もありそうな気もするし、実際そうならない感じも、今のご時世かもしれないが…。
 この話の先にある前提は、いわゆるアメリカ的な訴訟社会の話なのかもしれない。アメリカでは、滑ったりつまづくなどして道で転ぶと、恐らく以前にも自分以外にも転んだ人がいるはずだ、と考えるそうだ。もしそうであれば、転ぶ人がいることを予見できたことになり、この道の関係者に、自分が転んだ責任が生じるはずだ、というわけだ。そういう考えの人を相手にすると、下手に先に謝ると、そら見た事か、と訴訟に踏み切られるかもしれない。結構クレイジーだが、いわゆる論理的にみえないことも無いし、馬鹿には違いないが、確かに現代的である。そういう延長に、今のマスコミの報道とも通じるものがある。上手くいけば、一緒になって騒いでくれる、大衆が現れるに違いないのである。
 まあ、そういうことではあるんだが、お互いさまが、残っている文化だと、僕は半ば信じたいと思っているだけなのだろうか。
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エロも隠さぬ民主主義の見本   エール!

2020-04-13 | 映画

エール!/エリック・ラルティゴ監督

 仏映画。農場を営む4人家族は、長女以外は聾唖であるようだ。酪農中心にチーズ販売などで生計を立てている様子。家族間では皆手話が使えるので問題は無いが、販売や家計にかかる外部折衝は、(おそらく中学生くらい。初潮を迎えていたのでそう思ったが、何か日本の学校の制度とは違うのかもしれない)一人だけ耳の聞こえるの長女が、学校に行きながら電話などで行っている。
 長女が学校のイケメン君に憧れてコーラス部に入るが、意外に高音に才能があると教師に認められ、同じくイケメン君と一緒にレッスンに励むことができるようになる。そんな中にあって、田舎を開発して雇用を増やそうという政策を打ち出した現職町長に対抗して、聾唖でありながら町長選挙に父親は打って出ると言い出した。そうなると、基本的には手話通訳ができるのは長女のみで、音楽レッスン後にパリの学校に行けるチャンスまで失ってしまいかねない。葛藤の中にありながら、家族ともども混沌に巻き込まれていくのだった。
 日本だと子供向けの映画というとらえ方ができそうな展開なのだが、恐らくそうはならないだろう。何故ならセックスにおおらかなギャグだらけだから。聾唖の両親は、田舎というのもあるのかもしれないが、子供にお構いなくセックスしているし(音が気にならないので大胆である、という設定)、そのための性的な病気の受診であっても、娘の通訳を通してしかできないことも気にしてない。友人は簡単にボーイフレンドとセックスするし、子供たちの話題は、ふつうに誰と寝るかという女子トークだ。日本の子供だってそういう面はあるだろうが、日本の大人社会はそういうことには寛容ではないので、むしろ子供には見せられない類の微妙な扱いをされそうな映画である。エロトークは満載だけど(要するに下品)、しかし絵的に露出の多いセクシーな映画ではない。それにしても、フランス人というのは、屁理屈は上手だけど、考えていることの7割くらいはあの事ではないかと疑ってしまう。日本人からすると、発情期の野生動物である。
 という変な物語だが、日本のスポ根のように熱くならないでも才能のあるやつは伸びるし、確かに葛藤は描いてはいるが、例えばイケメン君の悩みの多くは、なんとなく中途半端にしか描かれていない(ひょっとするとカット編集されているのかもしれない)。この物語では重要であるはずの父の選挙の結果さえ分からない(予想はできるが)。
 だから悪い話かというと、そういうこともいえない。フランスの風俗も分かるし、その考え方の根本も分かる。日本の聾唖との比較もあるが、社会の成り立ちがずいぶん違う。自分の家族が聾唖であることを友達には隠していて、しかし家に連れて来てもそのことを話さないのでトラブルになるなど、ちょっと日本では考えられないかもしれない。しかし、その分親も子供も素直だし、日本だと顰蹙を買いそうなことも平気で議論するので、本当に偉いものだと思う。いわゆる、民主主義とは家族であってもそうなのだ!(要するに日本の民主主義というのは、相対的にちゃんと根付いていない、ということが分かる) ということかもしれない。最終的には自分らのエゴも超えて、家族の愛も深まるということなんだろう。
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雑音の多い録音を聞く

2020-04-12 | 音楽

 番組を予約録音しているのだが、どういうわけかその時間帯だけ雑音がたくさん入る。アンテナの方向が悪いのだろうと思って調整はしているのだが、調整しているときにはそれなりに受診具合は調子がいいので、録音時間帯に何か電波の不調が現れるのではないかと考えられる。番組によって雑音が生じることがあるんだろうか。一応アンテナも別に買っておいて試してみたが、特に変化は無いような気がする。
 もちろん電波の障害になる可能性のある電化製品、または他のケーブルなどの影響を受けている可能性もある。だが、受信状態の良い日もあって、その時の録音は問題なく聞ける。誰かの悪意があるとも考えられないので、その時間帯に何かほかの原因があるのかもしれない。まさかその時間帯にご近所すべての電波状態が悪くなるとも考えにくいが。
 雑音の多い録音を聞いていると、とても空しい気持ちになる。ディスクジョッキーが話している内容も、ところどころ想像して聞く。もうやめようかな、とも思うのだが、ちょっとだけ聞き取れるのでタチが悪い。想像を巡らせて分かるところもあるが、やはり分からないとイライラする。イライラするためにラジオを聴くなんて馬鹿げていると思うのだが、しかし性格なのか、そういう状態をやめられない自分がいる。
 FM放送ではないが、小学生のころに短波放送でワライカワセミの声を聴いた。オーストラリアの日本語番組で、オープニングにワライカワセミの鳴き声が聞けるのだ。短波だからというのもあるし、オーストラリアのような遠いところからの電波だから、チューニングを合わせるのが、とても大変なのだ。番組の内容などほとんど覚えていないが、雑音の混じった奥から聞こえてくるワライカワセミの声を聴いたときは、本当にうれしかった。僕と同じような体験をした少年は多かったはずで、しかしどうしてそれを知ったのかは、もう忘れてしまった。
 雑音がひどい中で、グリーンデイの新しい曲が聞こえてきた。こういうストレートな音なら、雑音があってもそれなりに聞こえるらしい。きれいな音で聞いた方がいいに決まっているが、このようなロックというのは、雑音があっても聞けるということか。また、機会があったら、もっと良い音で聞いてやらなくてはならないな、と思いながら、車を走らせて聞いていたのだった。
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ヤクザの世界と、家族をめぐる物語   運び屋

2020-04-11 | 映画

運び屋/クイント・イーストウッド監督

 園芸家として事業を起こしていたが、時代の波に乗れず倒産している様子の爺さんだったが、ある時孫娘の仲間の一人から声を掛けられ、中身を知らぬまま麻薬を運んで多くの収入を得た。雰囲気からやばい仕事だとは分かってはいたものの、簡単な仕事のわりに多くの収入をのぞめるうえに、仲間たちにも金に困った人たちがたくさんいて、そういうことに金が必要と感じて、繰り返し、この危険な仕事を請け負うようになる。何しろこのような高齢の爺さんが、大量の麻薬を運んでいるとは警察もつかみにくいということかもしれない。また、予測できない寄り道などもやるようで、運もあると思うが、その人生経験の多さもあって、周りの人の警戒を解くような能力が功を奏しているらしいと見て取れる。そうこうあって、ついには運び屋として絶大な信頼を集めるようになっていくのだったが…。
 実話の事件をもとに物語が構成されているらしく、家族の物語までそうなのかは不明だが、このような高齢の園芸家の運び屋が存在してたらしい(すでに故人)。それをちょうどその人物と同じくらいの年頃になったイーストウッドが、自ら演じたということのようだ。
 爺さんとしては、家族を顧みることなく、情熱をもって仕事をしてきたという自負があるのだが、そのことで妻とは離婚しただけでなく、娘とは12年半も口をきいてくれない状態が続いている。娘の結婚式でさえすっぽかすくらいだから、ちょっと行き過ぎている。しかしながら社交家で饒舌でもあり、金があると陽気に奢ってしまうような見栄っ張りなところもあるようだ。運び屋の仕事をやめられなくなるのも、多くの場合見栄で人のために金を使うから、さらに金が必要になってしまうのだ。浪費をしなければ、会社も何とかなったのではないかという気もする。要するにこの話は、結末を知らずとも、破滅のハイウェイを進んでいるのは見て取れるのである。
 そうなのだが、実はものすごくストレートなメッセージ性があるからこそ、この映画を観た人を感動させるのだろうと思われる。それはごく常識的なことでありながら、実際にとても難しいことのように思える。特に日本人においては。さらに言うと古い男たちにとっては。
 何しろ、それはもともと知っていながら、たいへんに実行するのが難しい教訓だからだ。イーストウッドがあと何年生きるのかは知らないが、彼の選んだメッセージであると、とらえている人も多いのではないだろうか。まあ、余分ではあるが、だからこそそれが分かる人は、死ぬ時くらいしかこんなことは言えない、ということでもあるのではなかろうか。
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日本の苗字は何故多い?

2020-04-10 | ことば

 日本人の名前のルーツを探る、というたぐいのテレビ番組や、その手の本というのは、それなりに繰り返しこれまでも取り上げられている様子である。日本人の名前というのは、それだけ多種多様で、面白い分野であるといえる。何しろ一国の名前(苗字)としては、もっとも多様で数が多いとも言われている。もともと江戸時代までは限られた人しか苗字を持たなかったが、明治になって皆が苗字を持つようにということになった。それで多くの人が、自分の住んでいる地名や、自分の先祖が住んでいた地名をもとに姓を名乗ったとされている。そもそも地名というのが多種多様で、歴史の変遷で様々な地名が生まれたと考えられている。古来原住の民の言葉を漢字にあてたものもあるだろうし、新たな文化から命名されたものもあるだろう。要するにそのような地名をもとに名前をこしらえたものだから、膨大な数の苗字を生むことになったという。実際に調査したものもたくさんあるのだが、いまだに発見される苗字もあるという。その総数は、おそらく30万種ほどであると考えられているらしい。
 それでその種の名前を収めた本があるはずだと思って探してみると、それらを集めたとされる辞典自体も、たくさんあるようである。大変な労力をもって調べられたものらしく、また出版社の事情などもあるのか、30万すべてを収めたとされるものは、なかなか見つからない。さらにこの30万という数の根拠になっていると考えられる芳文館から出ている日本苗字大辞典というのがあって、これが全三巻で、定価がなんと346,500円であった。ただし収められている数は29万なのだという。欲しいと思わないではないが、ちょっと簡単には手が出ない。さらにあと1万がなんとなく惜しい。それくらい名前の集大成というのは、難しい事業なのであろう。
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会社の正義は社会の利益か  七つの会議

2020-04-09 | 映画

七つの会議/福沢克維監督

 鬼のような部長から叱責される上に無理やりノルマをあげさせられて苦しむ営業二課長の姿で始まる。いじめ体質の会社(今はパワハラというのだったか)なのである。だったが、隣の営業成績の良い営業一課にろくに仕事をしないお荷物先輩社員とやり手課長がぶつかってしまい、社内の大きなパワハラ問題へと発展していく。背景に強大な権力を持つ部長がいたにもかかわらず、皆の予想に反して(またこのような会社でありがちなはずなのに、ぐうたら社員はおとがめなしで)やり手だった課長はこの事件であっさり飛ばされてしまう。もともとノルマに苦しんでいた二課の課長が後任の一課に回されたものの、さらなるノルマのきつさにつぶれそうになりながら、このぐうたらな社員の背景にある事件性に、段々とかかわりを持つようになっていくのだった。
 おそらくテレビ番組かなんかの映画化らしく、キャストは豪華ではあるが、皆オーバーアクトでちょっと疲れる。顔がプルプルふるえて怒っていたり、つばが飛んだり涙が出たり、目つきが悪かったり髪をかき上げたり、怒鳴ったり呻いたり、殴りまでしないが、転んだり吐いたり物を投げたり飛び散ったりする。日常にそういうことは皆無までとは言わないまでも、そうそうは現実社会では無いことが、この映画では満載にてんこ盛りだ。何か裏があることは見て取れて、各課の思惑や権力争いの中で繰り広げられる感情がぶつかり合って、会社という生物が、あたかも意思を持つように動いているという感じかもしれない。
 正直言って皆怖いので、こういう環境で生きていける自信はない。いや、4日くらいで僕なら退職していることだろう(要らないといわれるだろうし)。
 もちろんデフォルメした日本の会社環境を描いているというのは分かる。これを作っているテレビ局だって似たようなところがあるんだろう。まさか、というくらい誇張しているだけのことで、なんとなく共感さえ持って制作されたのではないか。まあ、多少は面白がっているというのはあるだろうが。
 謎解きの方は重層的で、ドラマを追うだけでもそれなりに面白い。実は小さい人間関係や、何かが行われているはずの大きな人間関係が、複雑怪奇に絡んでいる様子だ。そうしてそのことの原因というのが、今をさかのぼる20年前からのことを根本にして、連綿と続いていたということのようだった。
 面白いが疲れるし、ちょっと斜に構えて考えさせられることにもなる。こういうのは日本の会社の問題なのか、ともちょっとは思う。改竄などは欧米でもしょっちゅうやっているわけで、それは確かによくはないものの、やはり程度問題という気はする。おおむね真面目に回りながら、その中に何かが混ざり取り出せなくなっている問題というのは、たくさんあることだろう。純粋に取り出すことだけが、今となっては正義とは言えない状況にすらなっているのではなかろうか。隠蔽などはもってのほかとは言いながら、もはやどこをそうしていいのか分からないくらいの状況にある会社は、少なからず存在して当たり前だという気がする。いい加減を容認しているのではなく、それをトレードしながら使いこなすしかないのであろう。
 それにしても野村萬斎、凄いですね。あの香川さんと渡り合えるだけでも凄すぎるなあ、という映画でした。
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素直な娘だからこそ陥る危険   沈黙の森

2020-04-08 | 読書

沈黙の森/C.J.ボックス著(講談社文庫)

 主人公は猟区管理官という仕事をしている。米国の山の中では、一般の人が猟をするのを監督する役割の山男の仕事があるようだ(日本にもあるのかな。米国は銃社会というだけあって、狩猟(ハンター)の趣味(もしくは仕事)のある人が結構いるようだ)。妻と娘のいるジョーは、違反している知事まで捕まえたことがあるという、ちょっとドジなところのある人間のようだ。そういう中、以前違反を取り締まった折に、逆にその男から持っている銃を奪われて(半分冗談で)殺されそうにもなった経験がある。しかし、その山岳ガイドをしていた男が、自分の住んでいる山の家の前で、何者かに殺されていた。一気にきなまぐさい殺人事件の捜査が始まるが、時は保安官選挙を控える時期でもあり、そのような権力闘争に巻きもまれながらも、何か密猟を含んだ連続殺人のようなものが起こっていたような形跡が見つかっていく。ところがこの山にパイプラインを通したいと計画している会社の思惑などが絡んで、この事件自体の背景が、大きな利権の絡む様相を呈していくのだった。一見力の足りないジョーは、孤軍奮闘して事態の打開を図るのだが、次から次へと窮地に立たされることになる。果たして彼に、この難題を解くことができるのだろうか。
 ジョーの仕事は薄給でもあるようだし、別の仕事の勧誘もあるし、そもそもそんなにこの仕事に向いているわけでもないかもしれない。貯金は無く、妻や娘に十分に何かしてやれないもどかしさもある。妻の母とも、あまり感情的にうまくはいっていない。そういう中、この事件に愛する娘まで巻き込まれていくクライマックスに、男の感情は大きな転換を見せていくのだった。
 まあ、こうでなくちゃね、というカッコよさがあって、なかなかいいのである。野生動物をめぐる倫理の問題もあるし、アメリカの過疎の問題などを含む政治の在り方もあるのだろう。人々は暮らしていかなくてはならないし、人間関係としては多少の不条理があろうとも協調していく必要もこともあるだろう。人口は少なくとも、人間関係の権力闘争のようなこともあって、まるで日本の村社会のようでもある。お国が違っても、人口密度ではこうなってしまうのだろうか。
 結局ドンパチは、さすが銃世界のアメリカだ、という作品になっているのだが、そういうカタルシスが一定のトーンを支えている作品かもしれない。
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逃げられない人々を襲ってもいいものか

2020-04-07 | つぶやき

 マスクが足りないというのは確かに実感があって、そもそも今シーズン分は昨年末にまとめて買っておいて(実は一昨年くらい前に発注ミスも重なって在庫が多かった。まあ、腐るものでも無いし、ということで容認していたのが功を奏したわけだ)、かなり余裕があったはずなのに在庫が少なくなっている。もちろん在庫を確認しながら、計算しながら使っているのではあるが、段々と減っていく中で、減り方が早くなっている印象を受ける。そうしてまさか4月までこのような状態が続くとは予想もしていなかった。付き合いのある業者は、注文の受付自体までもできない状態という。巷間でマスクが手に入らないというのも現実であって、我々のように働いている人間にとって、ドラッグストアに朝から並ぶということはできない。今までは在庫の多さに精神的に支えられていた感があるし、外来の人には無償でマスクを提供しているのだが(これは今も止めていない)、そういう精神的な余裕さえ、あっていいのか、という空気が感じられていた。これは学校の再開という背景もあるかもしれず、簡単には咎められない。政府や県から配布されたマスクは、すでに利用者や関連の人に配り終えている。業務の使い捨てマスクの需要は、かなりの逼迫状況だ。
 という感じだったのだが、友人の会社で、ロット単位で購入可能という情報が入り、購入することにした。船便の関係で納品は4月末になるという。それなりにまとまった数が入るということで、ひとまずは安心である。それで改めて在庫を見直すと、何とか持ち越しは可能である計算が立った。そうなると、やはり不安払拭が必要と考えて、職員の家族を含め、必要分は分けることにした。モラル重視(これは信用だが)で、数量は規制しない。
 結局は、不安の増殖が品物までも欠乏させているのだと思う。もちろん、うちだけ何とかなっても、品薄問題は解決しないだろう。一時の余裕が生まれたとはいえ、それも局所の現象に過ぎないことは分かっている。しかし、現場の疲弊というのがあって、何が何でも感染を避けなければならない、という思いだけで、かなりのプレッシャーなのである。誰かが風邪をひいているらしい、ということになると、何かピリリとした緊張感が実際に走る。だからと言って病院に連絡したところで、重篤以外に受診など不可能だろう。ほとんど祈るように安静にさせて、見守る以外に方法がない。
 実際のところは感染が流行していないことは数字を見れば明らかであるし、そのうえで確率的に考えても、そう簡単に罹患などしないことは分かってはいる。しかし、仕事の性格上、我々が逃げられないのは明々白々なのである。そうして実際にやれることで実効性のありそうなことと言ったら、自分の抵抗力を信じることと、手洗いにマスク(これも完全ではないが)くらいしかないのだ。だから政府に何とかしろという気はさらさらないが、せめて報道の暴力から逃れられる手立てが欲しいところだ。今感染が分かるだけで、少なくとも我々のような事業所は、経営的に致命的になりうるだろう。それは別の業種であろうとおそらく同じことであろうし、大衆の不安圧力というのは、だから戦禍においてのそれとたとえられてきたのであろう。正直に言って原因となる病気より、はるかに恐ろしいことなのだ。
 それがニーズなのだというのなら、それも仕方がないのかもしれないが、不安の拡大は、感染症よりも破壊力が大きなものである。すでに社会のコミュニティに対する信用の破壊は、計り知れないものになっている恐れがある。それを煽った責任は、本当に無いのだろうか。いや、責任が無いと思っているからこそ、出来る行為なのであろうが。
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意味はないという意味を考えなければ   アナイアレイション-全滅領域‐

2020-04-06 | 映画

アナイアレイション-全滅領域‐/アレックス・ガーランド監督

 軍隊の極秘の特殊任務に向かったまま1年にもわたり返ってこなかった夫が、突然帰ってきたが、多くを語らぬまま血を吐き状態が悪くなる。救急搬送中に、軍か何かに捕らえられ、隔離されてしまう。そこで、夫をこのような窮地に陥れたであろう、特殊任務を自分も受け入れ、恐らく宇宙から何かが落ちてきて、時空がゆがんだような灯台のある地区へ分け入っていくことになるのだった。
 SF作品なので、もともとの世界観というものが理解できなければ、なかなか難しい物語かもしれない。謎解きの期待があるから続きを観ることができるが、もともと観念的な雰囲気があって、生物が種を超えて混ざり合う世界と、人間が踏み入れてはならない聖地(しかし、それは拡大していく)のようなことになっていて、まあ、ありえないから神秘なんだろうけど、やっぱりSFなのか哲学なのかよく分からない作品にはなっている。しかしながら人間の狂気なども描かれていて、そういうところは、なるほど面白いな、とは思うところだった。さらにケチをつけると、男たちが失敗した任務を、女たちだけだから遂行できるという元の考えが、今一つどころか、かなり分からないのだった。そうしないと物語にはならないのだろうが、戦闘を予想される地区に、それでは残酷な結果しか生まないのではないか。
 ということなんだが、別にジェンダー論でどうこう言う作品とは皆無である(そういう思想は恐らくない)。そうだけれど、男女間の感情の機微は描かれているので、最後の謎解きはもちろん、考えさせられることにはなるかもしれない。まあ僕なんかは、いくら罪の意識があろうとも、別人じゃ嫌だけどね。
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絶望の中にも希望はある(という話なのか?)   ギャングース

2020-04-05 | 映画

ギャングース/入江悠監督

 原作漫画があるらしい。さらにその漫画の原案には、このような犯罪少年をレポートした社会派的なルポがあるという。知っている部分は無くは無いが、原案は未読。
 「タタキ」という言葉で表現されていたが、いわゆる隠語らしく、空き巣、時には強盗まがいの組織的な盗みを繰り返す(職業にしている)青年たちの物語。裏金や、犯罪などの上りの金などを狙って盗みを働く。取る相手は怖い組織も多いが、そうであるからこそ盗られた側は、警察にはタレ込まないので、逆に足がつきにくいということらしい。そういう情報を持っている兄貴のような(おそらく中国系ギャング)人間から金を払って紹介をしてもらい、ターゲットを決めてタタキを行う。入金などのタイミングが合うと、大金が転がり込むかもしれないという、さらにギャンブル的なおまけもあるようだ。もっとも、バレたら報復が恐ろしいことになりそうなわけで、犯罪が上手く行ったところで、何か落ち着かない空気がいつも付きまとっている。そういう緊張感が張り付く中で、彼らはいったいどういう生活を送っているというのだろうか。
 三人組は過去に少年院で知り合った関係のようで、友情は厚い。しかしそうした経歴であるために、シャバでは苦労しており、堅気社会では低賃金の労働搾取をされる弱い立場で我慢するよりない。何しろそういうところしか雇ってくれるところが事実上ないわけで、ふつうに働いて社会復帰しようにも、どうにもラチがあかない。さらに家庭の事情がそれぞれに複雑で、何とか堅気社会に折り合いをつけようにも、様々障壁を乗り越えることが困難で、底辺の生活からなかなか抜け出せるものではないのだった。要するに、何とか生き延びるためには、タタキの世界でのし上がっていくより他にないと決めるしか、選択がなかったのだ。
 そういう背景があっての物語というのが、いわゆる社会派的な言い分かもしれない。フィクションだけど、もとになっているルポは、そういう現状で生きているらしい人々の告発ということだろう。また、この親たち世代の問題の連鎖とも考えられるところがあって、犯罪に手を染めざるを得ない、世代を超えたループというか、循環のようなものが、日本社会には埋もれているということなのだろう。まあ、実際のところ、日本だけの問題ではないだろうけど。
 というわけで、暴力の連鎖にはウンザリはさせられるけれど、なかなか考えさせられる内容になっている。ストーリーもひねりがあって面白い。そして妙に、この犯罪集団を応援している自分に気づくことになる。ふつうの映画なら、彼らは破滅する。しかし、この話はそうではない。何か希望が持てるのである。まあ、行為自体は何も褒められたものではないはずなんだが…。
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先送りの解決は問題の肥大化の恐れあり

2020-04-04 | 掲示板

 なんもかんも中止に延期になって自分の時間が増えている。考えてみると、これだけ予定がなく自分の時間が持てるのは、小学生以来ではないかと思われる。いや、厳密に言って小学生の4年から週三回のサッカークラブにも入っていたので、小3以来かもしれない。学生時代に暇なことも無かったわけではないが、ある程度約束というか予定というか、そういうものは定期的に何かあった。暇と言いながら、それでも忙しかった。麻雀したり酒を飲んだりするのも時間を消費するのである。それにそれらは自分だけの時間とは言えない。僕が特につきあいが良いというわけではなかろうが、そういうのを断れないというか、気が小さいので自分を犠牲にするのが常だった。相手が優先で自分がそのあとだというのは常識的であって、僕は自分の意見としての自己主張は人一倍強いほうかもしれないが、そういう我の強さに対しての後ろめたさのような自分の裏返しで、結局は他人の要求を受けてしまうのではないかと考えていた。ところが今度は、相手の方が勝手に断ってくるのである。別段もとになる予定は自分でたててきたものばかりではないが、基本的にはやらなくてはならないというか、そういう計画に僕自身がスケジュールを合わせていることに変わりはない。僕自身は何もかもそのままでいいと思っているのだけれど、やはりやめた方がいいという意見に従っているだけのことである。長いものには巻かれる主義(というかそもそもそういうものにはこだわりはない)なのだから、反対も何もない。ああ、そうですか、というだけのことである。そうしたらどんどん予定は消えて行って、さらに先行きまでぜんぜん不透明だ。凄いな。こんなことがあるんだな。人生長生きすると、実にいろんなことがあるもんだ、と素直に感心する。おかれている現状には本来は不安はなかったのだが、その後にある影響には空恐ろしいものを感じる。それともそれくらいやるべきだといわれていたことに関わっていた僕の人生は無駄だったのだろうか? まあ、そうかもしれませんけど。しかしながらそのしわ寄せに対して、結局は対処を迫られてしまうという予想もあるし、実際自分でどうにかしなければならない問題もすでにたくさんある。そういう処理のようなものを考えると頭は痛いが、とりあえずは今のところは、誰も文句のいえない筋合いでもある。そうではあろうけれど、文句のある人はたくさんいるはずで、くすぶりだけでなく、実際に破壊的な意見を堂々といえる人たちはたくさんいる。恐れ多いが、彼らにはそういう自覚はみじんも無いことだろう。お気楽でいいものだが、特にうらやましくも無い。また手のひら返して泡を食う人々でもあるのだから、可哀そうかもしれない。誰か助けるのだろうか。いや、そんなことは今は考える必要も無かろうが、それでも本当に困る人々はいて、それに対してはやはりやるべきことはある。ある意味では必死に戦っていて、そうして逃げられないことも確実だから、覚悟は決めなければならない。もうそれ以外には無くて、しかしやれることは小さすぎる。そういうことを考える時間だけはたっぷりとあるのかもしれないが、今はそれを判断することをしないということに徹するのである。ただし、順に迫りくる決断の嵐はあるのであって、その嵐を迎え撃つことは考えなければならない。つくづく妙な星の下に生まれたものだな、と思うよりないではないか。
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どこまでも悪ふざけ歴史改竄物語   ワンスアポンアタイム・イン・ハリウッド

2020-04-03 | 映画

ワンスアポンアタイム・イン・ハリウッド/クエンティン・タランティーノ監督

 1960年代後半のハリウッドの様子を描いている。テレビで人気を博していたアクション・スター(リック)は、今は落ち目になっている。付き人で彼のスタント・マンをしてくれるクリフに慰められながら、何とか日々を過ごしている。隣には、その時代一世を風靡していたポランスキー夫妻(妻はシャロン・テート)が越してきている。そういう事実というのは、本人にとっては悪くない気分だ。要するに見栄で暮らしていることに、何とか自分の精神の安定を保てている様子なのだった。
 当時のハリウッドの日常を再現したということのようだが、事実を織り交ぜたフィクションで構築された、シャレのような物語である。ブルース・リーも出てくるし、ヒッピー文化も見て取れる。活路を見出すためにマカロニ・ウエスタンに進出したり、ハリウッド以外のことも混ぜてある。そうして有名なポランスキーの奥さんの惨殺事件を改竄した、ラストのバイオレンスで締めくくるのである。
 何も、このあたりの事情に詳しいわけではないが、いかにもその時代にありそうな裏話を、恐らくタランティーノがそうだったら面白かっただろうな、という空想で膨らました悪ふざけを再現した、という感じ。悪趣味で、差別的で、それでいてアメリカ的である。もうこの監督は終わっているが、それでもこういうのは作れるんだ、ということで評価が高かったのだろうと思う。そういう意味では下品さがスノッブになっていて、構造的に重層化した物語なのかもしれない。面白いかと言えば、面白いところもあるが、まあ、断片的には知っているので、退屈である。むしろこんな変な感じにしてしまって、罪深いよな、とは思う。別の作品ではナチスの歴史でも改竄したくらいだから、タランティーノは確信犯的にやっているのは分かるんだけど。
 ブラビがこういう作品で下品な役をやりたがるというのは、ちょっとだけ分かるような気もする。彼だってハリウッド批判をしたいわけだし、二枚目もつらいのだろう。そういう気分とタランティーノが融合すると、こんな話になってしまった、ということなのかもしれない。ブルース・リーには気の毒なことだが、これもアジア人差別をうまく表現したものであろうし、タランティーノだって移民の子だしオタクだから、仲間をさらしたいというマゾ的な表現だろうと理解するよりない。まあ、いかにも、だから許されるのだろうし。
 というわけで、いつものように人を選ぶ作品であることは間違いなさそう。初心に戻って傑作パルプ・フィクションみたいなの作って欲しいものだけど、この流れからいって、かなわぬ夢に終わりそうだ。もうこれは仕方ないですね。
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年齢を間違えて答える

2020-04-02 | 感涙記

 杏月ちゃんと散歩していると、よく齢を聞かれる。私でなくもちろん杏月ちゃんである。僕はだいたい考え込んでしまう。正直毎回よく分からなくなるからだ。それで、11、とかもうすぐ12とか答えることが多いように思う。そういえば知らない人がいるかもしれないので今更だが、杏月(あづき)ちゃんというのは、ウチで飼っている愛犬(雌)の名前である。
 それでうちに帰ってきて、杏月ちゃんって何歳だっけ? とつれあいに聞く。そうしたら13歳だというではないか。そうか、そうだった。昨年末に13歳のお祝いをしたのだった(僕はあくまで参加者。厳密に言ってつれあいがすべて取り仕切ってくれた)。ご馳走食べて、ケーキも一緒に食べて(犬用がちゃんとある)、記念撮影もした。杏月ちゃんは誕生会用のお洋服を着て、少しかしこまっていた(戸惑っていただけかもしれない)。
 13歳というのは、犬だからずいぶん高齢である。犬の年齢を人間と同じように換算する方法があるようで、それは実にいろいろあって面倒なんで、とりあえずネットで確認すると、犬の13歳は人間でいうところのおおよそ68歳であるという(諸説あります)。
 犬というのは大小ずいぶん多様だし、犬種もあるし、家の中や外で飼うとか、使役犬であるとか、さらに住んでいる地区の寒暖差や、国境などのコンディションの多様さがあるので、一概に信用はできない。そうではあるが、経験上、だいたい13年以上だと、いつ死んでもそんなにおかしくない。僕の家で飼われていた歴代の犬で、13年以上は一匹しかいないはずである。
 要するにそんなことが頭をめぐってきてしまって、いつの間にか涙ぐんでしまう、ということになるというだけの話である。なんでこんなに切ないのだろうか。こんなに子供みたいな杏月ちゃんが、もうあと長くはないなんて…。
 とはいえ、病気で臥せっている訳でもないし、動きが緩慢になっている訳でもない。多少白内障で黒目が白濁していることと、歯槽膿漏で何本か歯が抜けた程度のことで、毛並みも悪くないし、飛び跳ねて元気である。寝言も言うし、留守中にはゴミをあさる。
 実は杏月ちゃんの11歳とか12歳とか間違えて年を言ってしまっているとはいえ、そういうと大抵の人には驚かれる。これはお世辞とか言うことではなく(彼女にお世辞を言ったところで無意味だし、僕に対していってもやはり無意味である)、そのように見えないだろうことは間違いないからである。わんわんと吠えて、ウロウロ落ち着きがなく、ハッハッハっと息を吐く。そういう犬種と言ってしまえばそうなのだが、もう何年も毛を刈っているかどうかという違い以外には、たいした変化はない。
 しかし、年齢の経過は、つれいあいが嘘を言ってない限り本当のはずである(僕には、とても数えられない)。ときどき例外というものが大きくて、寿命というのが無ければいいのにな、とも思う。思うが、まあ、忘れるよりない。そんなことを思っても、僕に変えられるものでも無いし、そうしてやはり散歩には行くのだろうから。犬の年齢なんてものは、本来はどうでもいいことなんじゃないだろうか。
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もういじめ映画は観たくない   デトロイト

2020-04-01 | 映画

デトロイト/キャサリン・ビグロー監督

 多くの黒人住民が警察の捜査に不満を爆発させ暴動が勃発する。まちは暴動の民衆と警察や軍が入り混じって、大変な喧噪となる。すでに死傷者が多数出ている様子で、ピリピリした空気が町中に蔓延している。そういう中で街から少し離れたモーテルから、ふざけて玩具の拳銃を発砲した黒人の若者がいた。警察と軍はスナイパー(といっても犠牲者は当然なく、音を聞いただけのこと)を捕らえるためにモーテルを銃撃し包囲する。そうしてモーテルに泊まっていた黒人を集めて、スナイパーを特定するためとして、激しく拷問し、黒人青年たちを追い込んでいく。
 延々と暴力といじめを続ける映像が続く。黒人差別のために、黒人を苛め抜くことに快感をともなっているらしい白人警察が、いつまでもいつまでも苛め抜いて、そうして実際に3人を殺してしまう。黒人にも人権はあると、心の片隅にくらいは考えのある白人たちであったが、実際には黒人がどうなってもあまり関心がないのだった。そうして、このような残酷極まりない犠牲があったにも関わず、白人の権利を守るためだろう、罪を犯した白人達は、なんと裁判の末に無罪になってしまう。二重の拷問を受けたと同じようなショックを、黒人たちは味わうわけである。
 という実話を映画化したものである。ドキュメンタリーではないので、当事者の証言をもとに再現したドラマであるらしい。
 とにかく見るのもつらくなるほどの、緊迫したいじめが繰り返し続く。精神的にどうにかなりそうなくらいのマゾ映画である。これで白人を憎まない人間がいるのか、と思うほどのひどい迫害である。そうしたことを目的に作られていることは分かるが、そうして事実はもっと残酷だったのかもしれないが、かなり食傷ぎみになる。ほんと、観なければよかった。
 映画としては優れてはいるのだろう。もうトラウマになりかねないほど、気分が悪くなる。そうしてアメリカ社会というのは、本当に恐ろしいという感情が植えつけられることだろう。さらにこれでは、社会の融和なんてことは、起こりえないことも理解できるのではないか。特にこの事件にかかわった者たちは、このことを忘れはしないだろうし、心の傷が癒されることは無いだろう。差別意識というのは、このように人間をずたずたにしてしまうものだ。そうしてそれは、現代にも生き残っているはずなのである。
 ということで、もう社会派映画しばらく観たくもなくなってしまった。ビグロー作品も、しばらくは観なくていいような気もする。いったい誰が悪いのだろうか。
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