運び屋/クイント・イーストウッド監督
園芸家として事業を起こしていたが、時代の波に乗れず倒産している様子の爺さんだったが、ある時孫娘の仲間の一人から声を掛けられ、中身を知らぬまま麻薬を運んで多くの収入を得た。雰囲気からやばい仕事だとは分かってはいたものの、簡単な仕事のわりに多くの収入をのぞめるうえに、仲間たちにも金に困った人たちがたくさんいて、そういうことに金が必要と感じて、繰り返し、この危険な仕事を請け負うようになる。何しろこのような高齢の爺さんが、大量の麻薬を運んでいるとは警察もつかみにくいということかもしれない。また、予測できない寄り道などもやるようで、運もあると思うが、その人生経験の多さもあって、周りの人の警戒を解くような能力が功を奏しているらしいと見て取れる。そうこうあって、ついには運び屋として絶大な信頼を集めるようになっていくのだったが…。
実話の事件をもとに物語が構成されているらしく、家族の物語までそうなのかは不明だが、このような高齢の園芸家の運び屋が存在してたらしい(すでに故人)。それをちょうどその人物と同じくらいの年頃になったイーストウッドが、自ら演じたということのようだ。
爺さんとしては、家族を顧みることなく、情熱をもって仕事をしてきたという自負があるのだが、そのことで妻とは離婚しただけでなく、娘とは12年半も口をきいてくれない状態が続いている。娘の結婚式でさえすっぽかすくらいだから、ちょっと行き過ぎている。しかしながら社交家で饒舌でもあり、金があると陽気に奢ってしまうような見栄っ張りなところもあるようだ。運び屋の仕事をやめられなくなるのも、多くの場合見栄で人のために金を使うから、さらに金が必要になってしまうのだ。浪費をしなければ、会社も何とかなったのではないかという気もする。要するにこの話は、結末を知らずとも、破滅のハイウェイを進んでいるのは見て取れるのである。
そうなのだが、実はものすごくストレートなメッセージ性があるからこそ、この映画を観た人を感動させるのだろうと思われる。それはごく常識的なことでありながら、実際にとても難しいことのように思える。特に日本人においては。さらに言うと古い男たちにとっては。
何しろ、それはもともと知っていながら、たいへんに実行するのが難しい教訓だからだ。イーストウッドがあと何年生きるのかは知らないが、彼の選んだメッセージであると、とらえている人も多いのではないだろうか。まあ、余分ではあるが、だからこそそれが分かる人は、死ぬ時くらいしかこんなことは言えない、ということでもあるのではなかろうか。