カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

逃げられない人々を襲ってもいいものか

2020-04-07 | つぶやき

 マスクが足りないというのは確かに実感があって、そもそも今シーズン分は昨年末にまとめて買っておいて(実は一昨年くらい前に発注ミスも重なって在庫が多かった。まあ、腐るものでも無いし、ということで容認していたのが功を奏したわけだ)、かなり余裕があったはずなのに在庫が少なくなっている。もちろん在庫を確認しながら、計算しながら使っているのではあるが、段々と減っていく中で、減り方が早くなっている印象を受ける。そうしてまさか4月までこのような状態が続くとは予想もしていなかった。付き合いのある業者は、注文の受付自体までもできない状態という。巷間でマスクが手に入らないというのも現実であって、我々のように働いている人間にとって、ドラッグストアに朝から並ぶということはできない。今までは在庫の多さに精神的に支えられていた感があるし、外来の人には無償でマスクを提供しているのだが(これは今も止めていない)、そういう精神的な余裕さえ、あっていいのか、という空気が感じられていた。これは学校の再開という背景もあるかもしれず、簡単には咎められない。政府や県から配布されたマスクは、すでに利用者や関連の人に配り終えている。業務の使い捨てマスクの需要は、かなりの逼迫状況だ。
 という感じだったのだが、友人の会社で、ロット単位で購入可能という情報が入り、購入することにした。船便の関係で納品は4月末になるという。それなりにまとまった数が入るということで、ひとまずは安心である。それで改めて在庫を見直すと、何とか持ち越しは可能である計算が立った。そうなると、やはり不安払拭が必要と考えて、職員の家族を含め、必要分は分けることにした。モラル重視(これは信用だが)で、数量は規制しない。
 結局は、不安の増殖が品物までも欠乏させているのだと思う。もちろん、うちだけ何とかなっても、品薄問題は解決しないだろう。一時の余裕が生まれたとはいえ、それも局所の現象に過ぎないことは分かっている。しかし、現場の疲弊というのがあって、何が何でも感染を避けなければならない、という思いだけで、かなりのプレッシャーなのである。誰かが風邪をひいているらしい、ということになると、何かピリリとした緊張感が実際に走る。だからと言って病院に連絡したところで、重篤以外に受診など不可能だろう。ほとんど祈るように安静にさせて、見守る以外に方法がない。
 実際のところは感染が流行していないことは数字を見れば明らかであるし、そのうえで確率的に考えても、そう簡単に罹患などしないことは分かってはいる。しかし、仕事の性格上、我々が逃げられないのは明々白々なのである。そうして実際にやれることで実効性のありそうなことと言ったら、自分の抵抗力を信じることと、手洗いにマスク(これも完全ではないが)くらいしかないのだ。だから政府に何とかしろという気はさらさらないが、せめて報道の暴力から逃れられる手立てが欲しいところだ。今感染が分かるだけで、少なくとも我々のような事業所は、経営的に致命的になりうるだろう。それは別の業種であろうとおそらく同じことであろうし、大衆の不安圧力というのは、だから戦禍においてのそれとたとえられてきたのであろう。正直に言って原因となる病気より、はるかに恐ろしいことなのだ。
 それがニーズなのだというのなら、それも仕方がないのかもしれないが、不安の拡大は、感染症よりも破壊力が大きなものである。すでに社会のコミュニティに対する信用の破壊は、計り知れないものになっている恐れがある。それを煽った責任は、本当に無いのだろうか。いや、責任が無いと思っているからこそ、出来る行為なのであろうが。
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