出会いがしらの交通事故など、ちょっと考えたくらいではどちらが悪いか分からないような場面があったとする。または当然あちらの方が悪いと思われるが、中央線のない見通しの悪いカーブなどでもいい。最初に断っておくと、僕は保険屋ではないし、警察関係者でもない。要するに本当にどちらが悪いかなんて、客観的に判断できるような人間ではない。また、そのような状況で、有利になるとかいうような、場合によっては有用な話でもないとは思う。
これは聞いた話だけど、そういうときは決して先に謝ってはならない、ということだった。理由は、先に謝ったという理由で、自分の方が不利になる(要するに、保険の点数的に不利だということだったかもしれない)というのだ。
先に断った通り、それは本当のことだったのかどうか、あんまり自信がない。そういうものかな、という思いがあったのか、うつろに覚えているだけのことで、ひょっとすると、こういう時世をその方が嘆いていて、そういう話になったのかもしれないとは思う。
しかしながら多くの場合は、恐らく車に限ったことだけではないと思われるが、こういうケースでは、相手に大丈夫ですか、といたわりの言葉をかけるとか、どうもすいません、などというようなことを口にした方が、その後の交渉はずいぶん上手くいくはずである。これも聞いたことのある話なのだが、以前に謝るな、という話を先に聞いたことがあるので、意外な気がして覚えている訳だ。なるほど、こちらの方が本当かもしれないな。
特に日本語の場合の「すいません」というのは、単なる謝りだけに用いられる言葉ではない。そもそもその場を、何か取り繕うのに発する音として、さしあたりの少ない利便性を伴っているという感じでもあろう。どうもすいません、という相手に対して、いえいえこちらこそすいません、というような会話になって、さて、この事故はどうしたものでしょう、という話に行きやすいということかもしれない。警察でも呼びましょうか、という感じになるんだろうか。
もっとも、そうとは限らないよ、という意見もありそうな気もするし、実際そうならない感じも、今のご時世かもしれないが…。
この話の先にある前提は、いわゆるアメリカ的な訴訟社会の話なのかもしれない。アメリカでは、滑ったりつまづくなどして道で転ぶと、恐らく以前にも自分以外にも転んだ人がいるはずだ、と考えるそうだ。もしそうであれば、転ぶ人がいることを予見できたことになり、この道の関係者に、自分が転んだ責任が生じるはずだ、というわけだ。そういう考えの人を相手にすると、下手に先に謝ると、そら見た事か、と訴訟に踏み切られるかもしれない。結構クレイジーだが、いわゆる論理的にみえないことも無いし、馬鹿には違いないが、確かに現代的である。そういう延長に、今のマスコミの報道とも通じるものがある。上手くいけば、一緒になって騒いでくれる、大衆が現れるに違いないのである。
まあ、そういうことではあるんだが、お互いさまが、残っている文化だと、僕は半ば信じたいと思っているだけなのだろうか。