カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

つまらないから素晴らしい   旅のおわり世界のはじまり

2020-04-19 | 映画

旅のおわり世界のはじまり/黒沢清監督

 テレビの海外ロケ・リポートでウズベキスタンに来ている取材陣。幻の巨大魚のようなスクープを撮ろうとしているが、うまくいかない。日本人スタッフにとって、ウズベキスタンの人々は、調子がいいのか、あてにならないのか、よく分からない。ディレクターは金でなんとかその場をしのごうとするが(そうすれば、一応相手は要求を呑む)、だからと言っていい絵を撮れる保証は無い。主人公のレポーターの前田敦子を含め、日本人たちは険悪な気分のまま、スクープが撮れず追い込まれていくのだった。
 そのような不穏な空気をもって、一種日本人そのものを遠景で捉えなおそうとしているというような感じは、分からないではない。ウズベキスタンには、日本の予定調和的な合理性は通じない(あたりまえだ)。そうして実際彼らは親切心からか、相手に自分の願望を、結果的に嘘になるかもしれないという疑問無しに話してしまうのだろう(これは、日本人に対して外国人がよくやることだ。というか、それが国際標準の考え方であって、日本人はこの考えから著しく孤立していると思われる(と少なくとも僕は思う)。そうしてそのために日本人はエゴの塊に見えるのだ)。しかし、そういううわさを聞き付けた人がいて、面白いと思った日本のテレビ局の企画が立ち上がったのだろうし、特にこのディレクターはそれに飛びついて企画を推し進めたはずなのだ。結果的にウズベキスタンのことは何も理解することも無く、そうして日本人は傲慢さを増していってしまう。悪循環である。
 そういう中にありながら、携帯で東京にいる恋人と文字情報をやり取りするようなことで心の平穏を保っていた主人公の女性レポーターが、ウズベキスタンのまちで、何の目的があるのか分からないまま放浪する。
 はっきり言ってかなりの愚作ではある。黒沢監督にはそういうところがあるので、故意にやっているのかもしれないが、たぶん悪ふざけの一種なのだろう。そういうのを身内として面白がって撮るということを、映画人はたまにやる。現地の人と魚を捕るやり取りなど、網の形などから、冗談としか思えない。そもそもそんなんでどうにかなるはずが無い。そうして主人公が、山羊を放すというようなファンタジー的な企画を出す。それを皆が「いい」と思うこと自体が狂っている。それで痛いしっぺ返しのようなものを食らうが、現実は当たり前のようにも感じられるし、しかしラストの布石でもあるわけで、強引なんだか、訳が分からないんだか、不明である。また原発に対しても偏見的な発言をあえて入れたりする。何か基礎的な知識に欠ける人々が、映画を作ってしまったような印象を受けた。
 それでも鮮烈な印象を残して映画を観ることができるのは、ひとえに前田敦子のアイドル性である。前田がこういうニュアンスで歌を歌うと、世界が一変してしまう。最初からそうやっても良かったのかもしれないが、チャイコフスキーの楽曲が、前半ずっとつまらないからこそ盛り上がるように、アイドルの爆発力を最大限に引き出す演出なのかもしれない。要するにファンだったらいい映画、ということなのであろう。
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