カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

夢に向かって歩く人やニートの人にも   おばちゃん介護道

2019-10-16 | 読書

おばちゃん介護道/山口恵以子著(大和出版)

 食堂のおばちゃんをやりながら遅咲きで作家デビューを果たした作家が、同時に老齢の母親を介護しながら格闘する毎日の様子をつづったもの。著者は独身だったこともあり、母と二人暮らしをしながら脚本のプロットライターとして働いていた。見合いは何度もしていたようだが(なんと43回らしい)、結婚には至らず、父は死に、母も高齢化していく。何とか脚本家としてデビューしたかったがチャンスは廻らず、非正規の職を転々としていた。その後、なんとかそれなりに安定した食堂の厨房の働き口を見つけることができた。二足の草鞋を履きながら、母の介護も行い、そうしてやっとチャンスが巡ってきて、今度は作家として小説を書くことになる。何とか仕事をもらえるようになり、作家の仕事で一本立ちできるようになると、いよいよ母の介護度もどんどん上がっていくのだった。
 つらくない日々ではないのだろうが、これが悲壮なだけの介護記録なのではない。母と娘の強い絆もあり(まずこれが基本だ)、近くに住む兄を交えて(結局彼も倒れてしまう)、一所懸命毎日を生きているという感じだ。そうして好きな酒は飲んではいるし、おいしいものは食べにも行く。仕事や猫の話なども交えて、話は横にも縦にも飛んでいく。そういう面白さもあるが、いわゆるサクセスストーリーを読んでいる趣もあり、さらに介護の実際や、そういう人間の心理もよくわかることだろう。なんというか、読み物として十分に面白いだけでなく、とにかく自然に有用な話が聞けるような感じである。説教めいた話は皆無だけど、何か人生の教訓を得たような、不思議な感慨を覚えるのではなかろうか。
 僕にも母がいて同居生活をしているが、介護の方はもっぱら妻任せである。自分の母親ながら下のお世話などもしたことが無いし、本当に何もできない。そういう何もしていない僕が、何かとても参考になりながら感心してしまうエピソードがたくさんあって、とにかく引き込まれて読んでしまった。また、僕は特に作家などを目指しているわけではないが、こうして文章を書くことだけは好きである。基本は備忘録なんだけど、何かものを書くということの意味のようなものが伝わってくるのである。やっぱりプロの作家は凄いなあ、という思いと、作家でもないのになんだか書くことのやる気がふつふつと湧いてくるのだ。そういう意味でも素晴らしい本で、何かについて頑張って努力しているすべての人の応援歌になるのではなかろうか。また、何か一人で鬱屈しているような人にも妙薬になりそうな予感がする。想像以上に良著であると思うのだが、どうだろうか。
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象徴の中には何が含まれる?

2019-10-15 | ことば

 僕自身がよくわからない言葉に「象徴」がある。言葉ですべてを表せないから、象徴があるのだという。しかしこれが共通になるというのはどういうことか。それが分からない最大の理由ではないか。
 キリスト教の象徴が十字架である、という表現は、なんとなくわかる。しかしそれで教義が分かるということではない。他の宗教に十字架が使われているかどうかは知らないが、ともかくキリスト教であるのだな、ということは分かる。要するにそういうものが象徴ということか。
 平和のシンボルが鳩である、というのも、分からないではない。でも鳩は食べてもいいし、ハト派が必ずしも平和主義なのかは疑問だ。平和の為に人を殺してもいいと思っているのではないか。
 自動車メーカーのマークのようなものは、以前はなんとなく理解できた。しかしながら近年のものは、販売店で違うのかどうか知らないが、いろいろあってよくないと思う。シンボルは作りすぎてはいけないのではないか。
 さてそれでは、と書こうと思ったが、やはりやめておこう。分からないでいいものもあるのかもしれない。少なくとも、分かったようなふりができて、実際には内容が違うようなものでさえ、象徴というものには含まれているのかもしれない。
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誰かの為に人は死ぬのだろうか   15時17分発、パリ行き

2019-10-14 | 映画

15時17分発、パリ行き/クイント・イーストウッド監督

 実際に起こったテロ事件を最小限に抑えることができた民間人の三人を、そのまま俳優として使って再現したドラマ。
 報道される事件としては、たまたま乗り合わせた青年三人が犯人を取り押さえることができた事実のみであろうが、映画としては、この三人の友情物語というか、その事件に遭遇する前の日常的なものを、坦々と紹介している感じ。三人はいわゆる幼馴染で、サバイバルゲームに高じて仲良くなるオタク的な仲間だった。一人は軍隊に入るので、多少テロ的な格闘に向いていたということは言えると思うが、基本的に彼らは仲間同士で楽しくヨーロッパ旅行に出掛けただけの平凡な若者同士だった。実際に彼らが演じている内容も、何か特殊なことは全然なくて、酒を飲んだり、旅先で女の子たちと仲良くなったりする。子供のころは、むしろ母子家庭であるがゆえに、学校の偏見を受けての微妙な問題児たちで、そのせいでオタク的にモデルガンを買い与えられて、孤立して遊んで友情を深めていたという感じである。
 では、どうしてこのような映画が撮られたのかという問題になる。監督もイーストウッドであるし、ある意味でこの三人が市井の英雄であることから、そのセンセーショナルな印象からヒットが望めるということが第一だったのであろう。テロと戦う米国の国民意識もあろうから、そういう意味ではプロパガンダ映画である。しかし監督のイーストウッドは、日常的な普通の若者たちが偶然にヒーローになることを、ほとんどそのまま描くことで、別の狙いがあったのではなかろうか。それはプロの俳優を使って劇的に演出するのではないことからも、想像できることで、実際は、事実というのは、ものすごく偶然に突然に降りかかってくる、日常的な災難のようなものである、ということではないか。そういうことの中にテロが混ざっている現代というものを、描きたかったのではないか。
 さて、それが成功したかどうかは、実はあまりよくわからない。戦争や、このようなテロ事件というものに対する監督の視点は、実は明確なヒーローなどいないということなのではないか。誰かの都合で起こされる悲劇というものに対して、それは非常に冷めた視点なのではなかろうか。
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田舎の代表は佐賀だ(うどん)

2019-10-13 | 

 十代の途中で讃岐うどんらしいものを初めて食べて感動して以来、讃岐うどんファンである。そうではあるが、コシあるうどん至上主義者ではない。うどんの最高峰は讃岐うどんであるということに迷いは無いが、だからと言ってそうではないうどんを撲滅すべきであるというような過激な思想にまでは至っていない。うどんの多様な文化は尊重すべきで、そうであるがゆえに、燦然と輝く讃岐うどんの地位もあるという考え方なのである。
 というわけで佐賀の具沢山うどんも好きなのである。これは九州の別の県にもある傾向ではあるが、うどんにボリュームを求めるというのが、田舎にはあるように思う。いや、うどんに限らず、田舎の料理というのは、量がたくさんあるというのが、きわめて高いポイントである。いわゆるサービス精神の高い店というのは、味はもちろんという前提はありながら、大盛でなければならない。別段インスタ映えを狙っていたり、二郎系であるなどという背景も無しに、気合を入れて食べなければならないようなボリュームでなければならないのだ。そうしてそういうことを代表して考えているような地域が、他ならぬ佐賀なのではないかと僕はにらんでいる。そうしてそのことを確認するのに最適なのは、佐賀のうどんなのではなかろうか。
 うどんだけでなくサイドメニューが充実していて、うどん以外の定食もある。実はこういうスタイルが、佐賀が発祥なのかどうは知らない。知らないが、たぶん佐賀あたりじゃなかろうかという予想はつくのである。佐賀は福岡とお隣の県で、佐賀の文化的なものは、実は福岡にも影響がある。佐賀的なものがヒットしたのちは、実はその文化は福岡に伝播する。いろいろ言われ方はあるにせよ、福岡は九州の玄関口であるばかりか、文化伝搬の中心地に事実上なっている。そうしてこの福岡を経由して、佐賀的な大盛文化が各地に飛び火しているのではないか。先にも書いた通り、もともと九州などの田舎には、大盛文化が無いわけではない。そうした素地が、佐賀的な具沢山うどんの伝播の下地になっていたのではないだろうか。
 というわけで、お隣の佐賀に行くと、うどんを食べたくなる。井出ちゃんぽんもいいし、佐賀のラーメンもなかなかいいが、王道はうどんではないか。作業着姿のお兄さんが立ち寄るような雰囲気だと最高であるが(まず外れない)、そんなに気にしなくても、たいていは具沢山である。あんまりコシは無くても、ずるずるたくさんの麺なのである。そうして甘い汁なのである。
 というわけで、たぶん今はダイエット中なんで、こんなことを考えてしまうのだろうな、と思います。佐賀にはしばらく途中下車しないようにしなくては。
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記憶力は伸びる、はず   記憶力日本一が教える“ライバルに勝つ”記憶術

2019-10-12 | 読書

記憶力日本一が教える“ライバルに勝つ”記憶術/池田義博著(世界文化社)

 表題の通りの本。著者はテレビなどにもでている著名人らしいのだが、僕は知らない。というか、記憶力に関する数々の選手権のようなものがあるらしく、そこで実際にチャンピオンになるような実力者のようだ。この本を読んでみると分かるが、そのような記憶力選手権に出るような人は特殊な脳の力のある人というより、このような記憶術を駆使して、地道にトレーニングして勝てるようになる競技のようである。なんとなくしか知らなかったが、そういうわけであれば、記憶力というのは鍛えようがあり、ある程度誰でもマスターできる方法なのであろうということで、読んでみたわけだ。
 実は記憶術のような本は、これまでもいくつかは読んだことがある。そうしてこの本の内容を読んでみても、特に目新しいことは無いことは分かった。しかしながら、そうであるからこそ、これらの方法はやはり王道なんだな、ということは分かる。やっぱり多少の訓練は必要だが、読みながら、なんとなくはやり方は覚えることはできるだろう。使いこなすには、練習が必要だが(特に数字なんかは)。
 実は最近とみに人の名前を覚えられなくなっているような気がしていて、改めてこういう方法を確認したかったというのがある。さらにやはり業界の用語だとか、新語の類に混乱がある。覚えるのが面倒だというのがあるし、なんとなく反発心のようなものがあるのかもしれない。単に年を取ったということなのかもしれない。
 ということで、この本を読みながらの時に会議があって、そのメンバーをこの方法で覚えてみることにした。会議の途中までで、ほぼこれはそれなりに簡単に実行できた。やればできるな、という実感があったのだが、数週間したら、やはり忘れてしまっていた(名刺と顔が一致しない、思い出しにくい人が居た)。実践力があるのは確かだが、やはり記憶の保持は別の復習が必要ということなんだろう(そういうことはもちろん書かれてもいる)。
 そういうわけで、やはり記憶力は日々の鍛錬が必要であります。要するに近道がないかというよこしまな心がありながら読んだわけだが、王道以外に道はなさそうだということが確認できた。まあ、頑張って鍛錬を積むよりありませんね。
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長いから嫌なのではない

2019-10-11 | HORROR

 蛇は嫌いだが、別段長いものが嫌いなわけではない。特に麺類は大好きである。ロープが好きだということは無いが、以前は仕事でよく使ってはいた。もちろん怖くも無い。ムカデやゲジゲジも苦手だが、蛇との関連なのかはわからない。ちょっと違うという気がする。
 母が蛇嫌いで、その影響かもと思っていた。何しろ小さいころから何度も何度も聞かされていた。しかし考えてみると、子供のころには蛇を振り回して遊んでいた。カラス蛇か何かから噛まれたこともあるような気もするが、特に何ともなかった。いつの間にか怖くなったようで、それは大人になってからのようだ。
 うちが代々の百姓ではない。しかし大人になって仕事の中で農業をするようになって、蛇とのお近づきが増えた。藁を集めている下にヒラクチがいて、ものすごくびっくりしたことがある。何もされなかったのに、恐怖心は長く続いた。あぜ道を歩いていて、ふつうに蛇には出くわすが、やっぱりドキッとしてしまう。踏んだことは無いと思うが、やはり草むらは心地よい道ではない。
 手足が無くて頭でがぶりと噛むだけの構造が良くないのではないか。頭が強調されているようにも思う。蛇の胴体の部分がいけないというより、やはり頭の部分である。しかしその長さもいけないが。菱形の文様も良くないという話だが、そういう柄がどうしてもだめというわけではない。それにそういう柄だけは無いのもいるようだ。ガラガラヘビは日本にはいないが、尻尾を振って威嚇するようなものはいるかもしれない。いや、これはテレビの影響だろう。ああいうのに出会うと、逃げるサインになっていいのかもしれない。
 しかし、一方的に嫌いすぎていて、申し訳ないような気持ちも無いわけではない。田舎ではあちこちで蛇が殺されてさらされているが、それが蛇に対する憎しみにあるようにも思える。時々がカラスなどが蛇をつついているが、捕食の対象になっているのかもしれない。少なくとも猫はよく蛇を捕っているようで、一方的に殺される立場にもなっているのだろう。農家ではネズミ捕りになっているという話も聞く。種類によっては、益獣でもあるわけだ。神様のようにまつられている場合もあるようだし、畏敬の対象でもあるかもしれない。
 少なくとも車では踏まないようにしているし、出会っても攻撃するつもりはない。できれば出会わなければそれでいいのである。しかしカエルをたくさん食べるようで、近くの畔には、どうも大量に住んでいるようだ。春より秋になるとでかくなっているので、成長も早いのかもしれない。しかし寿命も長いという話もあるので、個体としては識別できてないだけかもしれない。
 蛇は目がかわいいという話も聞くが、理解はできない。ペットの蛇は人間にもなつくというが、勘違いではないのか。蛇好きの人だから嫌いだという感情は無いが、やはり遊びには行きたくない人にはなってしまうかもしれない。
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最下層の暮らす人々はどうして打開すべきか   ディーパンの戦い

2019-10-10 | 映画

ディーパンの戦い/ジャック・オーディアール監督

 内戦下のスリランカ。被災家族を優先にして国外退出できるらしく、難民キャンプのようなところでは、戦争被災者でごった返していた。船に乗るために、それぞれ家族を失った者たちが偽装家族に扮し、ディーパン一家として国外へ逃げることへ。行先はフランスだった。
 パリ郊外の静かな団地に、難民に仕事を斡旋してくれる支援グループのようなところで、団地の管理人の仕事にありつく。仮の娘は諸外国の子が通うクラスへ(とにかくフランス語を勉強しなければ)。仮の妻は後にホームヘルパーのわりあい歩のいい仕事に就ける。そうやって新しい生活は始まるが、言葉は不自由だし、娘はいじめられるし、偽装家族なのでちゃんとした絆が育っておらず、人間関係は激しくギクシャクする。元軍隊で戦い、家族は失っているディーパンは、何とかしたいという思いはあるが、うまく物事を語る術を持たない。しかしあんがい器用なところがあって、団地の掃除はもちろんのこと、様々な工具は自作し、なんと壊れていたエレベータまで直してしまう。
 そういう中妻が通っているヘルパーの家の売人のグループは、何かの抗争に巻き込まれて白昼銃弾事件などを起こしている。怖くなった妻は仕事に行かなくなる(妙に気に入られていた様子だったが)し、精神不安定になり知人の居る英国に逃げようとする。偽装とは言え家族の絆を大切に考えていたディーパンは激しく怒り、団地内に境界線を張り、発砲禁止区域(要するに一般住民の安全を守れ、ということのようだ)を設定するなどして、ギャングと対立するようになる。何かそれで命まで狙われていくようになるのだった。
 映画としては素人くささの残る演出があって、説明が不十分である。想像して補って、そういうことだろうと考えるが、要するにチンピラの抗争が、何の意味があるのかさえよくわからない。これだけ荒れているのに、警察の介入もよくわからない。さらになぜそういう場所に、難民のような人が暮らしていかなければならないのか。これは虐げられた人なのかどうか、そういう背景は正確には語られない。そういう意味ではリアルさを出そうという考えだろうが、かえってファンタジーのようなことになっていると思われる。
 しかしながら映画は最後まで、ということはある。バイオレンスがあるのである。そういうわけで、一定のカタルシスのある展望を遂げて感動的ですらあった。これがパルムドールを受けた理由であるのは間違いなくて、結局人間はこういうの好きなんだよね。終わり良ければすべて良しで、なんだかよかったような気がしてきたよ。
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暑い戦いオリンピック

2019-10-09 | culture

 来年の東京オリンピックは8月に開催される。それで当然のことながら、暑さ対策に懸念があるという。何しろ暑すぎる時期なんだから、何をやっても容易に涼しくなんてならない。開催時期が悪いのは最初から分かっていることで、これに従わざるを得なかった事情があるようだ。実際のところオリンピック委員会の意向があるのは間違いなさそうで、要するにお金の問題である。夏のこの時期に開催されることで、放送権料が高値で取引されやすいのだという。特にアメリカなどのスポーツシーズンの、はずれの時期であることが大きいらしく、数百億単位の違いがある可能性があるそうだ。儲かる時期に開催してくれなければ、商売としては意味が無いのだろう(オリンピックの目的は、基本的に商売であるから)。
 前の東京大会では日本側の意向を汲んでくれたので、10月に開催された。体育の日はその名残だが(今は日にちが移動するので意味が無い)、晴れの日の特異日を選んだともされてもいる(諸説あるらしい)。まあ、10月11月あたりに運動をするのは、日本の気候としては当たり前である。要するに以前のオリンピックは、スポーツの祭典だった時期があるようだ。
 今は違うのだから、当然時期は夏に開催されることになっているらしい。以前は4月5月の春というのが多いが、1970年代以降から、だいたい夏ということになっているという。これはスポンサーである巨大テレビ局の意向を汲んでいるということらしい。
 それでもたくさんの人たちがやってくるし、悪い条件なりに運動する人々は、それに備えて練習してくるのだろう。興行としては、そういう仕事ということになるのかもしれない。
 真夏にやっているスポーツとしては、なんといっても高校野球だが、これは日本のお盆の時期と合わせたためである。また、戦争慰霊とも関係があるようだ。まあ、現代はその名残であるが、それでもやっぱり変えにくい日程なんだろう。阪神はこの時期に本拠地を使えないので、ちょっと不利になるという噂もあるが、しかし、それが言い訳にもなるかもしれない。
 でもまあオリンピックである。今後も日本以外でもこの時期であるというのなら、そういうものかもしれないが、どこかまともな国が開催時期を変えることができたならば、それはスポーツの祭典の復活になるかもしれない。
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人間の本能と正義が、間違った結果をもたらしてしまう   道徳感情はなぜ人を誤らせるのか

2019-10-08 | 読書

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか/管賀江留郎著(洋泉社)

 「二股事件」「浜松事件」といわれる冤罪事件の顛末から、拷問自白に至る警察の行き過ぎた捜査の闇を暴くとともに、そのいきさつにまつわる奇跡的ともいえる様々な社会的な背景や、告発した正義が踏みにじられる数奇な運命などを克明に解き明かしている。また、そのようなことになってしまう理由として、書名にもあるように道徳感情という人間の考え方の基本があることを暴露していく。事実というものは物語ではなく、ただそこにあるものである。これを人間は、なかなか正直に読み解くことができない。正確な判断を曇らせるサガのようなことを克服するには、自分で調べるよりほかに方法が無い。そういう当たり前の思考を確立させるために、必読の書となっている。
 著者はこの本を8年の歳月をかけて執筆したという。まさに労作であるが、その内容も重厚なものになっている。冤罪事件を起こした紅林という刑事の華々しい活躍と、没落する末路(実際は警察の汚名だから)。実際に事件を起こした少年のサイコパスとしての考察。拷問等でありもしない自白に至るふつうの人間の心理と、裁判官の訓練としての自白強要の必要性。憲法の在り方と改憲論まで巻き込んだ事件との関連。アダム・スミスの道徳感情論と、真実をつかむ方法論。そして本当の正義であり事件を正当に暴いた一警察官の、激しいいじめと弾圧による不幸、などなど。本当に正しい行いをするということが、人間の生き方としていかに難しいものであるかを、様々な角度で考えさせられるものになっている。
 多少の重複があったり(当然振り返らなければならないため)、論を展開するために緻密さが必要とされるために、大部となり時間を要すると思われるが、内容自体は大変に面白く読みにくいわけではない。ふつうに生活している人も、または正確に物事を把握したい人も、この内容を知ることは、たいへんに有意義なことだろう。そうしてこうした事実を知ったうえでも、本当に人間らしく事実をつかめるようになるのかという難しさを実感できることだろう。
 政治の在り方や世論の形成のされ方などには、ちょっと勇み足的なものも見られないではないが、もともと正確な正義の在り方など不可能であることを考えると、理想論としてはありかもしれない。もっともそうであるから、ある程度の絶望も味わうことになるかもしれないが…。
 それにしてもこういうことを書ける人も少ないうえに、こういう本が出版されることもあまりないのではないか(出版事情として)。その上に読む人が少ないとすれば、本当にもったいないことである。
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家事負担の不公平は子供を減らす

2019-10-07 | culture

 日本の男性の家事の負担率というのが世界最低レベルであるというのは聞いている。特に共働きが増えているにもかかわらず、家事に関しては妻が9割、夫1割の率であるらしい。こういうのは耳の痛い話だから、実はちょっと避けていた話題かもしれない。僕に語るべきことは何もない。
 家事をしない男として言い訳するならば、そうして僕に限って言うならば、何も期待されていない、おそらく諦められている、というのがある。家事に限らずだろうが、あまりに能力の差がありすぎて、何も太刀打ちできない。アイロンがけはできないし、料理をしても誰も食わないだろう。皿を洗っても後で洗いなおされるし、掃除をすると物が壊れるかもしれない。洗濯はできないことも無かろうが、干せば何かが失われるかもしれない。たたんでも、どこにしまうべきか見当がつかない。
 こういうことは、いわゆる古典的な男ということだろうか。一人暮らしの経験はあるが、洗濯は洗濯ばあさんという人が居て頼んでいたし、料理はほんの一時ちょっとだけしたけど、外食にシフトした。掃除は月に一度くらいはしていたかもしれない。服のボタンはちぎれ、栄養は偏り、得体のしれない昆虫とともに夜を明かし、すさんだ精神状態で生きていた。まあ、若かったのだろう。
 ところで、日本の夫婦の営みの回数というのも、国際的には最低レベルだという。そういうのを正直に答えて統計を取っているというのも驚きだが、諸外国と比較した場合であれば、実感としてそういうものだというのは、納得のいく夫婦も多いのではないか。新婚ならともかく、そんなにいつまでも回数を維持できるものとは信じがたい。まあ、そうでない人は何よりではあるが。
 しかし、先日のフランス事情を紹介する本を読んでいたら、家事負担が少ない日の夫の誘いには応じたくない、という意味の記述があって、かなりびっくりした。実際に家事負担とセックスの頻度には相関関係があるそうで、妻に家事負担が偏るにつれて頻度も下がる傾向にある。ちなみに仕事に関しての疲労やストレスは、性交の回数に影響を与えないらしい。
 不公平な人間関係に、日本の少子化問題の原因があるのかもしれない。
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きわめて退屈な戦争の奇跡   ヒトラーを欺いた黄色い星

2019-10-06 | 映画

ヒトラーを欺いた黄色い星/クラウス・レーフレ監督

 ナチス・ドイツ時代のベルリンには、ゲシュタポがユダヤ人を一掃する中にありながら、潜伏していたユダヤ人が7000人もいたという。そうして終戦まで逃げ延びたのは、1500名あまりだったという。そういうユダヤ人の体験を、劇映画と体験談を交えて描いた、疑似ドキュメンタリーのような映画。
 反抗争をする人もいるが、基本的にはベルリンに住むユダヤでないドイツ人の協力を得ながら、潜伏生活を送る代表的な4人の物語である。様々な偶然や運のようなものも味方をして、生き延びる生活である。ほとんどの人はアンネ・フランクのように、途中で見つかりアウシュビッツのようなところに送られてしまったのだろうが、4人にはそれぞれ幸運なところがある。潜伏生活の退屈さもありながら、髪を染めて映画館に通ったり、ふつうのドイツ人に混ざって仕事をしたりしている。ユダヤ人というのが、見た目だけでは明確に区別できない人種ということもあるのかもしれない(少なくとも僕ら日本人には、明確には分からない気がする)。
 潜伏生活をしているので、情報量が非常に少ない。実際にユダヤ人がアウシュビッツのようなところで大虐殺されていたことは、戦後知ったようだ。また、ソ連が進軍してきて街を支配するとき、匿っていたドイツ人が、かえって危ない立場に逆転するさまなど描かれていて、なかなか考えさせられる内容になっている。匿うドイツ人の立場としても非常に危険なものだったはずだが、なかにはあっけらかんとした人もいたようだし、何か特別な正義感だけでそうしたものではなかったのかもしれない。捕まれば殺されてしまうだろうことから、そこまでして差し出す必要が無いから、成り行き上そうしているような、そんな印象も受ける人さえいた。戦争が日常になるということと、実際の潜伏生活の静かで退屈なドラマ性の薄いものがあって、派手な戦争ものとはまったく違うものがある。ある意味で、だからこそ注目されずにこれまでも語られることの少ない材料だったのではなかろうか。
 それにしても人が生き残るというのは、このような状態であるなら奇跡的なことであるはずだ。しかしそこには、何か本当に奇跡的なことではなく、静かな日常が横たわっている。不思議な感慨とともに、それは私たちの日常と、きわめて境界のあいまいな世界なのかもしれない。
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拝謁記のねじれた日本人のこころ

2019-10-05 | HORROR

 盆前後に戦争ものの特集が数あるが、今年は初代宮内庁長官の昭和天皇とのやり取りを記した拝謁記が出色だった。昭和天皇は、先の戦争についての反省の言葉を公の場で口にすることは一度も無かった訳だが、実際には、そのお言葉を述べるまでの段階で、繰り返し戦争に対する後悔と反省という表現をしようとしていた。またそのためにいかに苦悩していたのかということが、克明に記録されたものである。戦争当時の軍部の動きを下克上と評し、天皇であっても止めうることはできなかったということに、深い後悔と自責の念を持っていた。さらに新憲法についても、特にあいまいな位置で軍隊を置くことになるとして、特に9条は改正すべきだと考えていたようだ。
 しかしながら戦後の新政府や、皇室の在り方、当時の首相である吉田茂に対する配慮から、そういうことを自分の意志で表現することを制限されている立場であるとわきまえていた。そうではあるが、何とか意思は示しはしたいという考えはある。しかし、役人である宮内庁長官に何度も何度も説得されて、自分の考えを押し殺してしまうまでの記録であった。
 吉田茂もつまらない首相だったわけだが、そういうものに仕える中間的な役割の宮内庁長官という立場も、つまらない存在である。いつの世にも役人というのは、世の中の為にならないものなのかもしれない。真面目で正直であるからこその弊害があるわけで、つくづく裏の政治で、世の中を動かそうとすることの無理を感じさせられる内容だった。
 結局このようなやり取りに象徴されるように、日本人の免罪というものは、戦後すぐには避けて通られて形作られたものであるようにも感じる。いまさらなのではあるし、歴史にもしもは無いが、ここに自由意志のようなものがあったとするならば、それなりに成り立ちは大きく変わった可能性はあると思う。結局逃げてしまったので、いまだに日本人は戦争をひきずってしまっているのではないだろうか。ある意味ではそれだけの大きなものであるわけだが、実際問題としては、現代日本人というものに罪が残っているわけではない。幻想を抱きつつ生きている日本人の不幸の象徴が、天皇であるというのだろうか。
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どんより暗くて面白い   失楽園

2019-10-04 | 読書

失楽園/諸星大二郎著(集英社)

 漫画。表題作は二編あり、他に6編を収めてある。それぞれ違う話だからまとめて語るのは乱暴だが、比較的大人向けに性的な表現を避けずに描いた暗い作風が多い。表題作はダンテの神曲のパロディで、またほかの作品の中にもいろんな作品や絵画などのオマージュなどがちりばめられている。何か得体のしれないものが出てきたり、何かを暗示したものが、必ずといっていいほど出てくる。はっきりしたことは言えないが、人間の中の不安や恐怖が、なんとなくにじみ出てくるような、いやな感じを楽しめるのである。まさにそれが諸星作品の醍醐味であるのだが。
 一応ミステリ仕立てでお話が進む場合が多いが、結末まで行っても、それが解けたというカタルシスを楽しむという趣向ではない。分かったからといって、それがハッピーではないからだろう。そういう意味では多少ヒネた人向けの作風なのかもしれない。まあ、僕は好きなんですけどね。ある意味で宇宙人に侵略される「生物都市」も、何だこりゃ、というやられ方をするし、役場の人間があることに巻き込まれる恐怖を描く「招命」も、不幸ではあるが、何かあんまり同情できない。アメリカが鎖国して日本が開国を迫るパロディも、まあ冗談だからいいか、という感じだ。
 ずいぶん前に買ったまま、なぜか読んでなかったわけだが、また諸星作品を読み返してみたくなった。やっぱりこの暗さは、なんとなく癖になります。
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大江戸博物館

2019-10-03 | 散歩












 有明からゆりかもめに乗りました。





 豊洲で乗り換え。


 月島でさらに乗り換えて、やってきたのはここです。


 ここもでかい建物だよ。


 もう二年位前になるかな。一度来て思ってたよりすごくて、大興奮した大江戸博物館(両国)であります。


 同行の人が歴史好きってことと、何しろ暑いので外を歩くのはしんどいかな、ということで選択したものであります。


 荷物預けて、いざ出陣。


 来た来た~。これだけすごい施設でたったの600円ですからね。ものすごいデスカウントではないかと思うんですが、どうでしょうか? それにものすごく楽しいですしね。近所にあれば間違いなく通いますよ。




 模型がたくさんなんだけど、精度も半端ないんですよ。望遠鏡で細かいところを見ても楽しいですよ。
 中国人の青年が中国語の説明文が無い、と言って残念がってました。




 籠も立派です。まあ、揺れるんだろうけどね。



 刀の細工も細部まで美しかったです。



 籠の実際があって外国人が順に乗ってましたんで、当然僕も入ってみました。


 写真撮ってもらってたら警備のような人がやってきて、反対に乗ってますよ、と注意されました。なるほど、方角が違いました。


 当時の住まいの再現も細かいです。




 寺子屋でお勉強もしておられました。


 昔の寿司ってでかいですよ。


 

 蕎麦の屋台。落語の世界がわかる感じですね。



 当時のお店の看板なんかもありました。なんかかっこいいですよね。



 そうしてお祭り風景。江戸の庶民の活気がよみがえるようです。







 歌舞伎などの演芸もたくさんあったようで、お化け屋敷やからくりや、盛りだくさんなのです。現代と比較しても、娯楽やエンタティメントの基本は、変わらない気もしました。




 ちょっと順路間違えましたが、近代から昭和の再現もあります。


 うちの若い人は旧車がすきなんだそうです。前のめりで見てました。




 友達が住んでいた団地もこんな感じだったな。


 ほかにもいろいろありましたが、そろそろ移動しましょうかね。また機会があれば来なくちゃいけませんね。楽しかったです。






 ということで、さらば両国。相撲あってるときに来てみたいですね。



 浅草橋で乗り換えて、羽田まっしくぐら。疲れたけど楽しかったし、それなりに勉強になってよかったです。お疲れさまでした。



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東京ビッグサイト

2019-10-02 | 散歩











 いつもの宿で朝ごはん。だからあんまりいつもと変わりません。


 そうして朝の散歩に行きました。


 芝公園の端っこ。


 で、当然見えるのは東京タワー。いったいどんだけ昨日から東京タワーばっかり見てるんだろうか。そんなに好きだったんだろうか。


 実はかなり前のことだけど、父が就職したころに東京タワーが建設中で、鉄骨をとめるリベットというものを焼いて上に放り投げ、鉄のバケツで受けて止めていた、という話を聞いたことがありました。少年であった僕は、てっきり父のほら話だとばかり長年思っていたわけですが、なんとドキュメンタリー番組で、本当にそうやってとび職の人たちが手作りで組み立てたものだと後に知るのでした。お父さん、疑ってごめんなさい。


 東京タワーも還暦迎えて、61歳になるとか聞いたような気がする(昨日)。すでに赤いからいいですけどね。



 変な形の歩道橋わたりました。


 わたる途中。



 増上寺方面。


 お地蔵さんもいました。


 新橋方面に戻ります。



 車の多い東京ですが、あんがいガソリンスタンド少ない印象があります。実際どうなんだろう。単に電車移動ばっかりしてるからそう思うんだろうか。


 愛宕警察署。
 ここの信号変わるの早い。大村の警察署前も早いんだよな。なんか理由があるんだろうか(調査中)。


 新橋五丁目。


 通勤お疲れ様です。




 善処稲荷大明神。名前は立派だが、小さっ。


 ということで散歩終了。

 皆でホテルロビー集合して移動します。
 SL広場なんかイベントやってました(テントのみですが。後で調べたら古本市だったようですね)。


 ゆりかもめに乗ります。


 やってきたのはビッグサイト。改めてでかい建物だよ。


 国際福祉機器展ってのが開催されていたのです。この広い会場にものすごい人がたかってましたよ。人の多さに圧倒されました。同業者だけでなく多くの人の関心が高いというのがわかりました。企業も力入れていてプレゼンも上手かったです。



 南と西と会場が分かれていて、さらに一階と四階とあってですね、つまりものすごく広いのであります。483社も出店しているそうです。大手メーカーからベンチャー企業、大学などの研究機関なんかもあったようです。配っているパンフレットもらうだけで大変な荷物になりそうです。



 移動に次ぐ移動。


 見て回るの大変だよ。ある程度重点の出店を決めてうろうろしました。


 とにかく疲れたけど勉強にはなりました。昼までの人なんかもいて、もともとばらばらだったけど自然解散。昼も過ぎたんで飯にしました。お疲れさまでした~。


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