カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

物語こそ興行だ

2013-02-05 | 境界線

 ドキュメンタリーでボクシングのパッキャオ(パックマンという愛称もあるようだ)を観た。実はぜんぜん知らなかったが、スーパースターのようだ。格闘技は嫌いな訳ではないのだろうけれど、興奮する性格なので、あえて見てないということも言える。素晴らしいボクサーには畏敬の念を覚えるし、しかしアメリカ的興行というのも、ちょっとばかし馴染めないというのが主な背景かもしれない。お金が動いた方がボクサーにとっては良いことかもしれないが、逆にそのために暗躍するものが出てくるのではないか。そういう疑念が、何となく足を遠のかせているのかもしれない。
 ボクシングにさまざまな階級があるというのは知らない訳ではない。しかしパッキャオの様に複数階級を制するというボクサーも多い。それが強いという代名詞になりつつあるが、複数階級を制する体重にあるということであって、では最初から細かく分け過ぎなんじゃないかという疑念もある。チャンピオンがたくさんいるのも何となく面倒で、日本の相撲の様に前頭何枚目みたいな番付の方が分かりやすいという気もする。
 ところで、パッキャオはフィリピン国民からも深く愛される偉大なスターなのだが、それと同時にフィリピンのいまだ貧しい生活事情も背景にあるようである。パッキャオは事実上億万長者になっているが、地元への支援も惜しまず、献身的に貢献しているという姿も紹介されていた。対戦相手のメキシコのマルケスについてはよく分からないのだが、負けず劣らずのスターであることに変わりは無いようなのだが、普段着の恰好はリッチな感じで対照的ではあった。
 パッキャオは友人のコーチと共に、貧しい生活の中からボクシングひとつでのし上がってきた現実があった。自分のことを闘鶏の鶏に例え、負ければ死ぬだけの存在だからこそ必死でのし上がるというような事を語っていた。生きるか死ぬかが最大の原動力で、6階級制覇という偉業はそのような精神をもとに成し遂げられたものであるのだろう。彼は強かったからこのような世界的なスターになれた訳だが、同時にそのような背景に強烈な物語を抱えていることも、人々の心をつかんでいるということのようだ。
 ボクシングの巨大な興行のシステムには、そのような背景こそが大切だというような事をプロモーターは語っている。人々の関心は、そのような物語によって喚起され、勝敗への興味を駆り立てるということなのだろう。それはアメリカで行われる興行でありながら、既にアメリカ人である必要もないし、肌の色も関係が無い。そうしてこれからのボクシングのスターは、中国などの巨大な民族を抱える国への興味へと移っていくのかもしれない。
 日本人にも数々のボクシングのスターは居る。しかしながら、やはり僕らが思い浮かべるのは、漫画的な「明日のジョー」のようなスター像かもしれない。以前にはそのようなスターは当たり前に生まれえたと思われるが、現代にはほぼ壊滅的な状況なのではあるまいか。豊かになった日本では、単純なサクセスの物語が生まれにくいのかもしれない。そのような単純性が無ければ、大衆の心をつかむことが難しくなっているのだろう。そうして結局は巨大なお金が動くことも無い。なかなか示唆的な事であるようにも思えるのだった。
 パッキャオの今後のことは僕には分からない。単純にピークは過ぎているのかもしれない。既にリッチになっているということも含めて、モチベーションが喚起されにくいということもあるかもしれない。さらに再起をかけるという物語にも陰りが見えているということもあるかもしれない。因縁の相手も39歳だったということで、一応の終わりという区切りがはっきりしているようにも見える。
 弱った鶏に関心を集めることは困難ということかもしれない。人間の残酷さとスポーツの熱狂は連鎖している。それが現代の興行というスポーツの現実だ。たぶんそれはボクシングだけの話なのではなかろう。以前は面白かったスポーツが廃れて見えているということは、実はある程度豊かで複雑になっているだけのことなのかもしれないのだ。
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