落語を聞いていると、ときどき甚五郎という名人が出てくる。大工だったり彫師だったりするようだが、その腕前はとても人間業では無い。実在のモデルは居たようだし、しかしそれが特定の個人だったとは限らず、しかし同時に架空でもあるようだ。なんだかめんどくさいようだが、話が大きくなっていることは間違いあるまい。
そういう職人さんを崇める気持ちというのはあってもいいと思うが、そのような技をもちながら当然あまり安易に腕はふるわない。誰でも知っている有名人であるが、しかし江戸時代なので写真などが出回る訳があろうはずもなく、いわば水戸黄門の様に正体がわかると、皆ふれふしてありがたがるということになる。
そういう話なんだから、いわば意外な人物として出てくるということが多いようだ。身分を隠して実は凄い人という寸法である。このコントラストが気持ちの良さを生むということなんであろう。多くの人というのは最初から偉そうな人より、実はあんまり偉そうじゃ無いのに偉かったということに感動してしまうのだろう。
そういうことはよく分かることなんだけれど、実際の話として考えると、やはり多少迷惑な人という感じもしないでは無いのである。只者では無いことは、落語を聞く者には容易に分かるのだが、落語の中の人たちはなかなか気付きはしない。そうこうしているうちにいろいろやらかすのだが、例えば「三井の大黒」では、板を二枚カンナがけして、その二枚を合わせるとぴったり合わさってびくとも剥がれなくなってしまう。まあ、そりゃあ凄いには凄いのだけど、居候の身で大工仕事もろくに手伝わずそのような腕を見せびらかすばかりか、そうして結局役に立っていないように見える。
結局最後には皆ありがたがるが、しかし考えてみると我慢比べして大目に見て赦してやっている棟梁だとかそういう人が一番偉かったのではなかったと思うのである。後で金になったりご恩返しをしたりするというのは分かるのだけど、その前に信用で奉仕した人々というのは、心が広いばかりでなく、実にたいしたものである。
人間は見た目では無いと僕は心底から思っているが、見た目で迷惑をかけているのであれば、それはそれで罪である。TPOはわきまえるというのは、実はめんどくさくないまっとうな生き方であると思う。もっとも、僕がいうべきでないという声があるだろうことは分かっている。甚五郎という人物とは比較してはならないが、しかしそのような人間になってはならないという戒めは必要なのであろう。