カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

孫の手のようなものかもしれない   私家版・ユダヤ文化論

2013-02-24 | 読書

私家版・ユダヤ文化論/内田樹著(文春新書)

 ユダヤ人についての謎は、わりあい誰でも持っていることではないだろうか。ナチス・ドイツの例を出すまでもなく、実は相当昔から、連綿と嫌悪され続けているという気がする。裏切り者がユダだというのは子供の頃から聞かされてきたし、近年ではニューヨークが、比較的ユダヤの街だから狙われたというような事も聞いている。ホントかウソかは実はよく知らないのだけれど、たぶんそうかもしれないな、というくらいは、何となく情勢を受け入れているという感じかもしれない。
 青年期にフランクルを読んで、かなり複雑な気分になった。このような人が苦しい思いを強いられる。しかし彼はほとんど奇蹟的に生き残る。それも今となっては選ばれたように。ユダヤ人といっても、残される人はいるらしい。そういう人が混ざっていながら尚、しかしユダヤ全体は嫌悪されている。本当はユダヤという人種が悪い訳では無かろうが、しかし総体としては嫌われざるを得ない。ユダヤの背負ったものが、宿命的に嫌悪の的になってしまっているようなのだ。
 話は飛ぶが、現代の東アジアにおいて、日本という国は特別に嫌われているように感じる。一定の国が悪いというのは簡単だけれど、理由としても原因としては簡単に分かりえるのに、しかしそれはたぶん簡単には払拭できない問題のように思える。日本人とユダヤ人問題はまったく別の話だが、何をしても許されないという意味では、少しだけ似ているところがあるのではなかろうか。僕は何となくそういう感じを抱いていた。
 先の戦争の反省をすれば済む話だと、相手の国は簡単に言う。しかし反省をする世代というのは、実はとうに反省し尽くしている。いや、厳密にいうと全員が同じように反省するなんてことは不可能で、歴史の上では既に話はついたことになっているということになったはずだったが、しかしこれは繰り返しいろいろ要求が増えて、しかもその中には預かり知らないことが混ざっていく。謝ろうにも分ける作業が必要になってしまっていて、そうして分けていると、不真面目だということになってしまった。どのような方法ももっても反省の道は断たれてしまった。なんだか勝手にユダヤ的だなあ、と思わざるを得ない。しかもユダヤ的に反抗さえしていない。イスラエルの壁を見よ。あれが日本の姿になるかというと、たぶんそうはなりそうにない。ユダヤはさすがに歴史が違うのかもしれない。
 この本でそのあたりのユダヤ的な嫌悪というものが、何となく理解できるという仕組みにはなっている。だが正直言ってその答えを簡単にここで省略して書くことは不可能であろう。実はそのようなややこしさを順を追って説明してあるのだが、だからこそそれは読んでもらうしかない。簡単で無いということが分かるだけでも、このユダヤ問題を考えるいい教訓になるだろう。分かりはするようになるが結局、実はよく分からなくもなる。特段煙に巻くつもりはないけれど、実態のよく分からない現実のものをここまでからませてしまった人間の癖のようなものというしかないではないか。
 東アジアというのは国が分かれてはいるものの、実は結局は親戚のようなものである。乱暴だけれど、西洋人には見た目で区別すらつかないような差しかない。お互いぜんぜん違うと言い張っているようだけれど、むしろ似たところだらけで、似てない部分がそれでコントラストになりやすいという感じもする。鏡を見て自分のしわを嫌悪しているようなものかもしれない。自分の中にある醜さだから、余計に情けなく、そして憎らしい。それは分かっているが、しかし目障りでも現実にはそれは無くなりはしない。外科的にやっつけてしまうということもあるかもしれないが、その部分だけ除去しても、別に嫌なところはでてきてしまうかもしれないではないか。
 読みながら考えていたのはそんなことである。誤読かもしれないとは思う。しかしユダヤ的なものは間違いなく自分の中にもあるらしいということは理解する必要があるのではないか。ちょっと迂回しながら、しかしかゆいところは時々手が届くようになると思う。そういうたぐいの本であって、自分の思考の癖を読み解くためにもいい道具なのではないだろうか。
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