二等兵物語・女と兵隊・蚤と兵隊/福田晴一監督
コメディとしては時代もあって、よく笑えない。それでも昔の人はこんなことで笑ってたんだなあ、というおおらかさは分かる。よく呑み込めて無いだけで、面白さは分からないではないわけだ。コツがつかめずタイミングを逃してしまうのかもしれない。
軍隊では、とにかく徴集した民間の兵隊をよく殴ったということは聞いている。職業軍人の教育が悪かったというより、徴集した人間関係の問題もあったのかもしれない。戦国時代だとかにも、農家から徴用した兵隊はよく逃げたという話は聞いたことがある。考えてみると当たり前で、お国のためという精神は無いではないが、逃げるほうが当たり前である。いくら島国だからって、親戚一同に面目が立たないことを無視すれば、逃げようと考えるほうがまともそうである。それを統制しようとしてさらに暴力的になる。そういう連鎖も考えられる。
しかしながら、やはり鬱積したものは相当あったろうとは考えられる。軍隊生活は、まるでナチの収容所のような閉塞感である。戦いに行くのにこんな感じでは、やる気になんてならないだろう。だから負けたわけではないだろうが、戦後に上官を罰してやりたい気分の人は多かったのではないか。もっとも、多くの人はその前に亡くなってしまったのかもしれないが。さらにそのような軍隊への恨みもあって、国民に戦争責任の希薄さが生まれたという話もある。自分らの国が興した戦争で、間接的直接的に自分らの責任があったわけだが、しかし軍隊の暴走だから仕方がなかったという被害意識もあるわけだ。追い打ちをかけるように戦後の最悪の貧困状態。泣きっ面に蜂で、何で気分を晴らしていいものか、逃げ場のなかった大衆がいたということなのかもしれない。
最後には一転して伴淳の大演説。一気にカタルシスになるのだが、こういうのは、映画的というよりきわめて舞台的な演芸手法という感じもする。アチャコの面白みもおそらくそこにあったはずで、それを知らずに映画だけを観てしまう、僕のような人間こそ想定外ということになるのだろう。
日本の軍隊は悲惨だったが、しかし諸外国の軍隊も、やはり残酷だったという話も多い。戦争は殺し合いをやるわけで、死ぬか生きるかということをやる集団に、いいところである必要が無いと考える人も多いのかもしれない。しかしそこで青春を過ごす人もいたわけで、悪いけれど懐かしいという複雑な心境の人も多かったのではあるまいか。今となってはそんな人はほとんど死んでしまっただけのことで、この映画の心情を本当に分かり合える対象が消えてしまうような、そういう時代になったということなのだろう。それはいいことでもあるが、しかし同時に忘れたころにやってくるものもある可能性が無いとは言えない。知らなければ怖いということもあるわけで、戦争のことは時々思い出す必要があるのである。喜劇でありながら、後の時代にも求められる可能性のある映画なのかもしれないのだった。