カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

教育=洗脳

2006-07-19 | 雑記

 僕は普段ガクモンを心がけているわけではないけれど、批判批評の類の論拠の誤りを発見するたびに、暗澹たる気分になる。しかしながらこういうことをいうと、必ず自分の潔癖はどうかということを言い出す人がいて煩わしい。煩わしいが、自分自身がいつも正しいかといえば、勿論そんなことはなくて、顔から火が出るような思いをしたことも数え切れない。しかしながら、そういうことを今棚上げするわけではなくて、そのことは又別に論じなければならない問題であって、つまりあくまですり替えに過ぎないことなので、目の前にある問題を素直に見つめて論じていく姿勢が大切だといいたいだけである。その上で、間違った論拠をもって批評していた場合は、素直に訂正すればいいことだと思う。別段その人の人格まで否定しているわけではない。人格と論理はまったくの別問題だが、論理について批評されている人は、(これは僕も含めてだが)自分の人格を否定されたがごとく怒ってしまう。何かを言うということは、そういう意味で大変に難しい。そして面倒くさい。たぶん、そういうことも含めて、人の誤りの噴出に気が重くなるのかもしれない。
 いっそのこと言わなきゃいいのに、という気分になる。なぜ言ってしまうのかというと、たぶん嘘が嫌いなのだろうと思う。勘違いであっても、それは自分が知らないだけの嘘である。マジックを見て楽しんでいるのとは訳が違う。騙されていて勘違いしている状態なら、少しばかり修正したほうがいいのではないか。
 ふと思ったが、そういう考えは、いくら正しいことであろうと洗脳と変わらないのかもしれない。ああ、そういえば教育とは洗脳であるということばも聞いたことがある。洗脳という単語自体は恐ろしげだが、教育というものは多かれ少なかれ洗脳であることは間違いない。先生が何故いるのか、という問題も、知識という危ないものの扱いにあるのかもしれない。確かに学問は突き詰めると自分で学ぶものではあるけれど、自分の中にあって行動に影響を与えるわけだから、自分の問題であるだけでなく人への影響もあるものだ。そうであるならば、知識というものは恐ろしいものだということを、まず知識として知っておく必要がありそうだ。話は大げさになりつつあるが、内田樹の言うがごとく、先生はえらい、というところから出発しなくてはならないようだ。
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