カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

後悔と新たな希望

2006-07-17 | 雑記

 憧れの養老先生の講演を聴くことができた。とにかくしみじみと感激する。あの養老さんが目の前で動いて話している。すごい。
 つれあいが僕が質問するのを期待していたようだが、勇気が出なかった。僕はファンなので、慎みが必要かもしれないなどと考えてしまうのだ。僕は親しみと尊敬を持っているが、養老さんにとっては、僕は見ず知らずの聴衆である。ここまで著名人になると、著名であることが煩わしくなるのではないか。少なくとも僕は無名であることの幸せはかけがえのないことのように思える。たとえ望んで著名になったとしても、あとで無名を懐かしんだところで元には戻れない。つまりあくまで一方的な立場なので、一ファンとしていた方が養老さんにはいいのではないか。
 それでも養老さんを見るだけで感激する。僕のことを少しでも知ってほしいような気もする。そういう意味では、少しの勇気はもったいなくもある。質問できなかったのはあくまで言い訳だ。
 住んでいる場所や、活動しているところがリンクしていないので、これからお目にかかる機会は可能性としては低いのかもしれない。芸能人ではないのだから、これからも望んでメディアに出るつもりもそんなに無い気がする。最近の文章での発言も、ある意味でご自身の隠居的な立場からのものが多い。
 しかしながらお話を聞いてして、やはりいろんな意味で刺激を受けた。聴衆をつかむ話し振りは円熟しているし、時事問題や難しい問題や印象としてかなり誤解を受けそうな問題も、興味を失わない展開で説明されていた。養老先生の魅力は言葉が少し足りなくて人を選ぶところがあったのだが、そこのあたりはかなり意識して展開を丁寧にされているのではあるまいか。簡単にやさしくしないで緩やかに論理を多方面から展開するということに、養老さんの真骨頂を見た思いがした。
 もう少し聞いていたい。質問したかったのは、つまるところそういう思いだけだった。ことばの問題を丁寧に話されていたので、アフォーダンスのことや、言語の可能性のことを聞いてもよかったかもしれない。進化のことや、今後の執筆するテーマ(虫のこととか)などについても聞いてみたかった。
 先のことを考えたい。人に聞いてみたいことは、そういうことかもしれない。それは自分自身の原動力なのかもしれない。自分自身の先行き感の喪失は、つまり絶望である。もっと聞きたいということは、僕の希望でもあるわけだ。
 少し残った後悔は、僕の次の原動力としよう。
コメント
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