この前、馬場あき子の「和泉式部」(河出書房新社、1990年)を通読した。
だいぶ以前に一度読んだことがある。
和泉式部の心のことが語られ、総じて、難しい。
古文の知識が乏しい私には、意味がとれないところも多かった。
紫式部や清少納言との交りのことなどは興味深く読んだ。
澁澤龍彦の「女のエピソード」には、“華やかな自由恋愛のチャンピオン”として、和泉式部のことが語られていた。
こちらは、読みやすかった。
プサップファと言うのは、サッポーのレスボスにおける呼び名。
サッポーは、紀元前7世紀の詩人で、女神のひとりにも列せられた。
小アジアのレスボス島のエレソスというところに生まれた。
澁澤龍彦著の「女のエピソード」(桃源社 昭和47年)では、
“レスビアン詩人 サッフォー”として紹介されている。
サッポーは、生涯の最後に男に恋をしたと言う。
それが紺碧のイオニア海に身を投げることにつながったそうだ。
「ギリシア抒情詩選/呉茂一訳/岩波文庫」より
サッポオの詩をひとつ
山颪が
樫の木並に
ふきくだつやう
戀よこの
むらぎもの
心とよもす
イアニス・クセナキスに“プサッファ”と言う曲がある。
“プサッファ”と訳されているが、Psapphaでサッポーのこと。
パーカッション・ソロの1975年の作品である。
手元に、スティーブン・シックとゲルト・モルテンセンの演奏した2枚がある。
澁澤龍彦の「夢の宇宙誌」(美術出版社)は、僕には忘れがたい本だ。
確か、「快楽主義の哲学」(講談社)で、澁澤龍彦を知り、その後まもなく手にした本だと思う。
高校生の頃だったと思う。
文学や哲学、美術の僕の嗜好に大きな影響を与えたと思う。
1964年初版で、手元にあるのは1968年の四版である。
その本はケース入りで、印刷・紙質もよく、多くの図盤が入り、今、同じような本を買うとなると数千円はするのでなかろうか。
680円とあって、なんだか、吃驚。
本棚の取り出しやすいところに石原慎太郎の詩集「風の神との黙約」(昭和50年 北洋社)がしまってある。
時折、取り出して開く。
そんなとき、いつも読む箇所があることに気づく。
詩のタイトルは「少年」。
「死」と「少年」・・・・
それは、僕にとっての石原慎太郎
“死の博物誌”が石慎太郎なのだ。
金沢で中学生の頃、映画館に行く道の途中だった。
友だちが、“ジェラシ-”言う言葉を教えてくれた。
それで、そう言う感情も理解するようになった。
僕が友だちによって知ったことやものは多い。
東京で、国立に住んでいた頃、秋吉久美子ファンの友だちがいた。
街角の小さな喫茶店で、“嫉妬:ジェラシー”と言う詩を読んだ。
秋吉久美子の詩集「いないいないばあ」(昭和50年 講談社)の中の一遍。
あたしのキライな
「陸上カバ的ブス」の
ヨシエ が
あたしの大スキな
「ラジカル・インテリ風ニヒリスト的秀才」の
上野君と
交わったらしいという
両成敗?
否!
ぶ女め ぶ女めと
ヨシエの方だけを
ののしりながら
ベッドにひっくり返って
煙草を吸ってやった
ずっと後に、デューク・ジョーダンのピアノで“ジェラシー”を聞いた。
シャルル・ボードレールの詩集「悪の華」は、十代の頃から手元にある。
何度も、手に取っているが、通読したことがない。
今回も、そういうことになった。
1861年版「悪の華」(堀口大學訳)の「幽鬱と理想」の85篇を読んで、これでやめようと思った。
全体で、126篇だから、結構付き合ったとも言えるか。
個々の詩の理解には足りないものが多いと思うが、ボードレールの精神と言うのは、それなりに感じたと思う。
ボードレールの精神は、解脱や超越というところからは遠いな、そこには行き着かないタイプだなとの印象をもった。
その存在を否定はしないが、いつも一緒にいたら、気が滅入ってしまうだろうなと感じた。
坂口謹一郎氏の「愛酒樂酔」より一首。
とつくにの葡萄の酒はきらめきて切子のはりの盃にあふれし
若い頃、酒を飲まぬ夜はない頃、坂口謹一郎氏の「古酒新酒」という本を読んだ。
酒を愛する思いがあふれ、読むうちに、酒の香りをわがものとしたくさせる極上の書。
葡萄からつくった酒も好きだ。
シェリー、ワイン、ブランデー・・・それぞれに思い出もある。
“鏡”
J.L.ボルヘスの詩集「創造者」(鼓直訳/岩波文庫)を読んだ。
詩集を一冊、まるごと読むと言うことは、私にとってはめずらしいことだ。
読んだと書いたが、字面を追って目を通したと言った方がいい。
なにしろ、ほとんど意味がとれないという感じだ。
訳の行替えが、詩らしい体裁のためか、意味をとりにくくしている。
それに、題材となっている史実の概要を知らないと、理解できないものが多いようだ。
そういう事どもをボルヘスがどのように捉えているかが記述されていると言っていいのだろうか。
図書館、虎、夢、鏡という単語がよく出てくる。
ボルヘスが、様々な事どもを捉えて、表現するのに使われる単語である。
イエス・キリストのことが書かれた詩があり、そこだけは、読み返すこともあるかと、ページ端を折り曲げておいた。
詩集のおしまいあたりに「詩法」と言う題の詩がある。
その一節。
ときおり夕暮れに、一つの影が
鏡の奥からわたしたちを凝視する。
芸術は自分の顔をわたしたちに教える
あの鏡のようなものにちがいない。
これなどは、次のようなことだろうか。
夕暮れどきには、怪しい気持ちになることがある。
鏡を見ていると、その奥から何者かが、自分を見つめているのを感じることがある。
鏡は、わたしたちに何かを告げる。
「芸術」なるものは、自分が何者であるかを教えてくれる鏡のようなものなのだろう。
訳を見ての勝手な書き直しなので、間違っているかもしれない。
ただ、たいしたことは言っていないように感じる。
アストル・ピアソラの「エル・タンゴ」(polydor)と言うアルバムは、ホルヘ・ルイス・ボヘルスの詩にピアソラが曲をつけて成っている。
これらに刺激されて、ボヘルスの作品を読んでみたいと思った。
何冊か手に取ったが、とりあえず目を通したのが、「ボヘルス怪奇譚集」(柳瀬尚紀訳・河出文庫)。
古今東西の書物から選んだ怪奇譚がコレクトされている。それらは、精髄のみ取り上げられているので、一話は、一ページに満たないものから、長くても数ページ。
それはいいが、総じてスラスラ読めて愉しいと言う類いの本ではない。結構、意味がとりにくいものが多い。読者に緊張をもたらす。もしかしたら、私の理解力が足りないだけかも知れぬが。
話によっては、これは夢なのか、夢の中の夢なのか、どこが現実なのか、果たして現実とは何なのかと思わせるものもある。
頭のなかに靄がかかってしまうものがある。
本書の解説を書いている朝吹真理子氏は、不眠症をまねくところがあると評しているが、まさしく、その通りである。
読もうかと思って取り出した本がある
石原慎太郎の「死の博物誌」
僕が石原慎太郎の小説を素晴らしいと言うと
軽蔑するような目を向ける人が結構いる
僕に言わせれば、その人たちは目が曇っている
もしくは貧弱な頭脳と感性の持ち主
己に発するものがない
「死の博物誌」を初めて読んだのは
十代の頃だったと思う
僕もいつか、そんな小説を書きたいと思ったものだ
石原慎太郎の小説には、死がある
絵を描こうと思ったとき、特に、黒インク一色でのイラストのとき、アルブレヒト・デューラーの版画を見てからにした。
THE COMPLETE WOODCUTS OF ALBRECHT DÜRER / EDITED BY DR.WILLI KURTH
何度も何度も、開いた。
ずっと昔から、宇野亜喜良の絵が好きだった。
特に筆の線、採りあげているテーマが好きだった。
まねをして画いてみたこともある。
未だに、黒インクとペン先は、ときおり手にする。
澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」(1965年刊)のイラストが印象深い。
手元に、「マスカレード」と言う名前の画集。
昭和57年に、美術出版社から発行されたものだ。
聖書のことで、ちょっと知りたいことがあるとき、おおいに重宝している。
とてもコンパクトでありながら、必要なことがしっかりまとめられている。
それに、宇野亞喜良の挿絵がいい。
「物語と挿絵で楽しむ聖書」(ナツメ社、2016年発行)
古川順弘・著、宇野亞喜良・画
雄鶏とアルルカン(1918年)音楽をめぐるノオト 佐藤朔訳
これは。「エリック・サティ/ジャン・コクトー著/坂口安吾 佐藤朔訳/深夜叢書」の中に収められているメモ・断片集。
50ページに満たないのに、目を通すのに何日もかかった。
ほとんど何をいっているのか、理解できなかった。
きっと、訳も下手なのではないだろうか。
佐藤朔と言う名前は、昔からよく見かけているが。
その中で、目にとまった箴言風の二行。
☆青年は確実な証券を買ってはならない。
☆攻撃するときでも、一流の者だけを相手にし給え。