風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

孤独

2007-11-02 | 風屋日記
先日話題にした本「真夜中の5分前」の中で
私自身の体験と重なり、すごく理解できる部分があった。
主人公が荒涼とした毎日を送っていた時に感じた
「この世界には自分しかいないんじゃないかという孤独感」
を、私も小さい頃から何度となく感じていたのだった。

朝起きて家族と会話を交わしながら朝食を取る。
そして学校へ向かうべく「いってきます」と言って玄関を出る。
その瞬間、さっきまで一緒にいた家族は全員姿を消すのではないか。
学校で友人たちとふざけて遊ぶ。
「じゃあね」と分かれた瞬間、友人達はみな姿を消すのではないか。
つまりこの世界には自分しか存在していなくて
会う人達はみんな私に見える時だけ姿を現しているんじゃないか。
そんな思いを、小学校時代からこれまで何度となく感じてきた。
いつもじゃない。
時々、そんな感じを抱いたことすら忘れた頃に
また突然そんな思いに襲われることがこれまで何度もあった。

私しか存在していない世界。
じゃあ私は何のためにそこに存在しているのか。
とりあえず生きてはいる。
頬をつねると痛いし、嬉しい時には笑顔にもなる。
立とうと思えば立てるし、
歩こうと思えば足の下に地面をちゃんと感じながら歩くことができる。
生きてはいる。
じゃあ何のために生きているのか。
私がこの世界に存在しているのは
長い歴史の流れの中のほんのかすかな確率による偶然ではなく
もしかしたら必然なのではないのか。
私が死んだ後は世界そのものがすべて姿を消すのではないのか。

ひとりの世界で孤独を感じた時、
いつも私はそんなことを自分自身に問うている。
いや、そういう思いが襲ってきた時ばかりではなく
いつの間にか
「何のために生きているか」「死んでしまえばすべては無か」
というのは常に私の心の中の声になってしまっている。

「私はどこから来て、どこへ行くのか」というのは
哲学という学問の第一歩だと「ソフィーの世界」に書いてあったが
そんな難しい学問は私にはわからない。
ただ自分という存在を時おり恐れている自分に気づくのだ。
私しか存在していない世界なら、私はどう生きるべきなのか。
いや、私しか存在していない世界じゃなくても
私はどうしてここに存在し、どのように生きるべきなのか。
以前、星空が恐くてしょうがない。星空が苦手だとココに書いた。
要はその存在の絶対性に恐れをなしているわけだが、
その時に感じる孤独感は、
自分の存在の危うさから感じる孤独感と根源は同じかも知れない。
うまくは言えないんだけれど。
コメント
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