僕はかつて「ブラックな会社」に居た。
僕が「ブラックな会社」だと思う基準は、
「社員の職業的良心や責任感にこじつけて、違法な労働条件・環境を正当化する」
というもの。
「社員の職業的良心や責任感にこじつけて、違法な労働条件・環境を正当化する」
というもの。
まあとにかく吝嗇で、人を大事にしない会社だった。
それでいて妙に自信たっぷりに、
身勝手な理屈を押しつけてくる人々が運営する会社だった。
僕は在職中ほとんど毎日当たり前に12〜14時間働いていたが、
残業手当は当然の様にゼロだった。
タイムカードがないんだから、記録のしようもないのだ。
休日出勤なんて当たり前。手当がないのも当たり前。
僕はほとんどの期間、気ままな独身暮らしだったからいいけど、
家族、特に小さな子供が居る社員にはキツかったろうと思う。
将来結婚を考えている若い社員はみんな頭を抱えていたっけ。
そのうえ社保もなく、福利厚生もなく、有休などもってのほかというんだからね。
そのうえ社保もなく、福利厚生もなく、有休などもってのほかというんだからね。
このままじゃ、優秀な人材から順に辞めてしまう。
危機感を覚えた僕は彼らを代弁して、
経営会議で役員たちに待遇改善を訴えた。
が、「おまえは労組か?」の一言で片付けられ、
次の会議からは何かと些細な手落ちをあげつらわれるようになった。
社長自ら方々で「恩知らず」な僕の悪口を吹聴し、
太鼓持ち連中はここぞとばかりにあることないこと御注進。
僕はどんどん会社の中枢から遠ざけられていった。
ただそれまで僕はとにかく一生懸命仕事をしていた。
20代から打ち込んでいたバンドを辞めて、自分の新しい可能性を信じて、
また自分を認め、期待してくれる人々との出会いが嬉しくて、
それはもう一生懸命に仕事をしていた。
30代はほとんどこの職場に打ち込んでいたと言ってもいい。
古い体質の会社だったが、新たなアイデアをどんどん形にしていって、
5〜6年のウチに僕の担当部署で売上を倍にした。
競合大手を向こうに実績を伸ばし、地域でも多少知られるようになった。
人材も多く育成したし、
一時期のあの会社を支えていた柱石のひとつではあった、その自負はある。
僻まれたり、疎まれたり、陰口叩かれたり、色々あったけど、
それでも僕はこの会社を良くしようと、
仲間達と一緒に自分なりの理想を燃やしていた。
だから、気づかなかったんだろう。
好きなことを仕事にしたら苦労は苦労ではない、
そんな美学を持っていただけに、余計鈍くもなっていただろう。
親が丈夫な体に産んでくれたおかげで、
幸いにも身体に故障はなかったが、
まちがいなく心は少し病んでいたように思う。
いま、伸び伸び仕事できるようになって、本当にそう実感する。
「ブラック日記」は在職中から、
理不尽に思ったことを書き留めている日記だった。
最初はネタのつもりで、十何時間勤務だとか、
睡眠とれないとか、十何連勤だとか、
そんなことを書き並べているだけだった。
でも、あるときから本当に理不尽な厭がらせを受けるようになって、
その鬱屈を晴らすかのような内容に変わっていき、
そのタイミングで「ブラック日記」というカテゴリにまとめた。
会社組織に都合よく使われ、でも自覚のなかった自分。
社長も役員も良いときにはあれほどチヤホヤしていたのに、
いったん意に沿わないとなると掌を返し、ここまでやるのかという仕打ち。
いま読み返しても口の中が酸っぱくなるが、
でも自分史にあって貴重な記録だと思う。
退職したのはちょうど2年前。
僕の居た同じ部署の仲間以外からは、
誰からも、お疲れさんの一言もなかったっけ。
本当に、最後の半年間なんか空気みたいに扱われて、
退職の日も本社ではキレイにスルーされてたね。
現場で企画したお別れ会もわざわざ中止命令が下って、
「石もて追われる」という表現がピッタリの退職だった。
でも、一方ですごく素適な思い出に彩られてもいる。
最終勤務の日は記録的な大雪だったんだけど、
生徒たちがみんな「最後だもんね!」と出席してくれて、
授業後にはよせ書きとプレゼントをくれた。
教室を出て事務室に降りると、そこには卒業生が続々。
大雪で帰れなくなった職員の間からは朝までやろうなんて声が上がり、
近所にお住まいのお母さんは鍋を差し入れてくれて、
元教え子の学生スタッフも加わって、朝まで大盛り上がり。
まるで映画とかドラマのような最終日だった。
その後もほぼ1ヶ月の間、色んな教え子たちの集いに呼んでもらい、
僕の11年間はこんなに素適な縁をつくってくれたんだと、
涙が出るほど幸せな時間を過ごさせてもらった。
会社は酷かったけど、現場は最高だった。
「経験は感性の牢獄」。
まさにそんな言葉が似合う牢獄を出てみて、
わかったことはたくさんある。
社会良識を気取っていたあの傲慢な人々は、
極めて小さな世界で、時代錯誤な思い込みを振りかざす、
井の中の蛙に過ぎないこと。
法律に基づく正当な労働者の権利の要求は、
決して遠慮するようなものではないこと。
僕の仕事には会社の評価以上の価値があったこと。
それを多くの顧客や元同僚が認めてくれ、独立を助けてくれたこと。
そして何より、僕がおかしいのではなかったということ。
退職した、ただそれだけのことで、
世界はこんなにも明るく、広く、自分もまだまだ可能性に充ちている、
そんな風に思い直すことができた。
自分史的に大いなる解放の日と位置づけてもいい。
その後、劇的な展開があり、奇蹟としか言いようのない経過で、
僕は自分の教室を旗揚げする。
それからもうすぐ2年経つ。
僕は忙しいながらもとても幸せな日々を送っている。
政治がなく、ウソがなく、嫉妬がなく、猜疑心がなく、裏切りがなく、ストレスがない。
理想があり、誠意があり、理解があり、信頼があり、チームワークがある。
支払うべきものは支払い、休むべきは休み、評価すべきものは評価する。
そんな職場を創れていることを誇りに思う。
離れたからこそわかる色んな思いを、退職後もここに綴ってきたけれど、
それはきっと恨みとか意趣返しとか、そんな単純なものじゃなくて、
やはり自分なりに懸命に守り続けたあの場への思い入れがあったればこそだと思う。
会社は残念なところだったけれど、現場はいつも燃えていたし、楽しかった。
だけに、あれほど無残に壊されてしまったのが許せなかったんだと思う。
だけどもう、あそこについて書くこともないかな。
理想の職場を具現化したいまとなっては、
ブラックな職場について書こうにも、もはや何もこみ上げてこない。
僕が守り続けた思い出の職場も、いまやあまりにも変わり果ててしまった。
せめて強力なライバルでいて欲しかったが。
ま、もう何も言うことはないし、思うこともないし、本当にさようなら、だな。
ブラック日記はもう綴る必要もなくなった。
それって、最高の結末じゃないか。
あとはこの職場環境を守るために、正々堂々、
自分たちの理想を掲げて、できることから着実に積み重ねていこう。
最後に、退職から独立に到った僕の気持ちを端的に代弁してくれる、Steve Jobs氏の言葉を引いておこう。
" It's better to be a pirate than join the navy "
ただ組織への服従だけを強いる様なところで仕事なんかしたくないね。
僕らは上ではなく天を見る。
そして誠意と愛情のこもった、誇りの持てる仕事をするんだ。