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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和13年-佐保神社で応召兵奉告祭と祈願祭

2015年06月14日 05時02分48秒 | Weblog
 昭和13年(1938)8月、前年に起きた支那事変による動員で、郷土から応召された兵士の奉告祭と国威宣揚・皇軍武運長久祈願祭が佐保神社(加東市社)で執り行われています。
 その通知が、当時の社区事務所の軍事関係往復文書綴に綴じられています。



 昭和十三年八月二十七日

               社 町 長

区長 殿
町会議員 殿
官公衙長 殿
学校長 殿
各種団体・会社代表 殿


 奉告祭、祈願祭執行ノ件


一、応召兵奉告祭

 1.日時  八月三十日 午前七時
 2.場所  佐保神社社前
 3.応召兵 友原三七雄(山国) 門脇喜久男(家原) 松原磯五郎(上中)

二、国威宣揚・皇軍武運長久祈願祭

 1.日時  九月一日 午前七時
 2.場所  同 前

   大村安雄(海軍陸戦隊)(大村栄弟)応召

右ノ通リ奉告祭及祈願祭執行可仕候条御参列相成度御部内一般ヘモ御伝ヘノ上多数参列相願様御取慮相願度此段及通牒候也
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昭和13年-佐保神社で戦傷平癒の祈願

2015年06月13日 05時02分51秒 | Weblog
 昭和13年(1938)の夏、佐保神社で戦地の郷土出身兵の戦傷平癒の祈願祭が行われることになり、その通知が社町長から各区長に出されています。支那事変が起きて1年が経ち、戦地からは戦死や戦傷の知らせが届いていました。この歴史ブログでも遺骨の凱旋、町葬の執行などについて紹介をしてきましたが、今日は、こうした戦傷平癒祈願も行われていたことを紹介します。通知によれば、8月13日に通知が届き、その日の夜に祈願祭を執行することになり、早速通知が出されています。



昭和十三年八月十三日
                 社 町 長

各区長 殿

  戦傷祈願祭執行ノ件

本月十三日左記戦傷者ノ通報ニ接シタルニツキ突然乍ラ本十三日午后八時ヨリ佐保神社前ニ於テ平癒祈願祭ヲ執行可致候条御部内一般並ニ各種団体ニ御伝言ノ上多数御参列相成様御配慮相煩度及通牒候也

  記

八月十三日 戦傷

 藤本孝治(野村)
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朝日に映える東条川疏水ネットワーク博物館の大幕

2015年06月12日 05時10分14秒 | Weblog
 国道372号線の加東市庁舎を北に下った加東市木梨の交差点から県道西脇三田線に通じる直線道路の側面の田圃の法面に大きな幕が張られています。

 朝、ウォーキングをしていてちょうど東の地平線に朝日が昇り始めた時にオレンジ色の朝日に映えるその大幕が目に飛び込んできました。「東条川疏水ネットワーク博物館」と大きく書かれた2枚の幕です。防草シートが張られた高い土手の法面を利用して掲げられたものですが、目を惹きます。

 このブログでも度々紹介してきましたが、「東条川疏水ネットワーク博物館構想」は北播磨県民局、加古川流域土地改良事務所が進めているふるさとづくりの事業の一つです。鴨川ダム(東条ダム)や昭和池とため池、田圃を結ぶ壮大な用水路網、そして自然豊かな田園風景と古い伝統をもつ地域文化を一体としてとらえ、貴重な地域資源であるこの疏水文化を大きく博物館としてみなして大切に守り次代に伝えていこうというものです。

 今年は東条川疏水が全国疏水百選に選定されてからちょうど10年目に当たります。今ちょうど、田植えの時期でダムやため池に貯えられた水が用水路網を通して田圃に送られています。瀬戸内気候に属し全国的にみても最少雨地帯であるこの地域では水が無ければ農業は成り立ちません。水を得るために昔から先人が池を築き、或いは川に堰を設け、水路をつくって水を引く努力を重ねてきました。それでも度重なる旱魃に見舞われ苦しんできた経験から三草山の麓に巨大な昭和池を築き、鴨川をせき止めダムを築いて水を確保してきた歴史があります。水は血管のように張りめぐらされ用水路で台地にも送られ広大な土地が開発され農地に変わりました。谷を渡る長大なサオフォン、山を抜ける隧道、そして水路。これらは貴重な灌漑施設であり、近代農業遺産でもあります。こうした施設は農業関係者だけのものではなく県民市民にとっても共有の地域資源です。みんなでこの水のネットワークを大切に守り次代に伝えていかなければなりません。そのためには老朽化したため池や水路の補修工事をしっかりと行う必要があります。

 
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佐保神社境内の玉垣に刻まれた店印

2015年06月11日 04時59分57秒 | Weblog
         

  佐保神社(加東市社)の佐保神社境内の玉垣については何度かこのブログで紹介してきましたが、今日は玉垣に刻まれた店の印を紹介します。
 遠く、大阪や京都、神戸、姫路などの住所と商店の名前が刻まれている玉垣が少なくなく、その中には店の印が刻まれているものもあります。○の中に半やセ、□の中に常などの文字が読み取れます。
 社の商人と大阪との結び付きが深かったことから、佐保神社にはこうした玉垣の寄進があったと聞いています。社の商人の活動範囲の広がりがうかがえます。
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明治館のアオサギ

2015年06月10日 04時24分17秒 | Weblog
            

 朝のウォーキングコースに明治館があります。明治館は元加東郡公会堂で、加東市社の市街地の南西端にあり、築100余年の堂々たる明治建築です。この明治館の広場に旧社町の忠魂碑がありウォーキングの途中に立ち寄って手を合わせます。

 明治館の西側は下を走る県道(旧国道175号)までの傾斜地が林となっており、ここに生えている木の上にアオサギが営巣しています。佐保神社にも近く、高い樹木があるのでアオサギが目をつけて巣をつくっているのでしょう。
 ギャ-、ギャ-と独特の奇怪な声で鳴きながら巣を飛び立っては旋回して巣に戻ります。その巣には大きく成長した子どもでしょうか、少し小さいアオサギの姿が見えました。また、明治館の高い屋根の上にもアオサギがとまっています。

 この明治館、元加東郡公会堂の地は、明治のはじめ、現在の社小学校の前身である八城学校があった場所でもあります。アオサギももうすぐ巣立ちを迎えるのでしょう。
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佐保神社境内の稲荷社の鳥居が鮮やかな朱に

2015年06月09日 05時06分29秒 | Weblog
           

 8日(月)の朝、佐保神社に参拝すると、境内の稲荷社の鳥居が鮮やかな朱に塗られて輝いていました。

 以前、このブログで白木の鳥居が建てられたことを紹介しましたが、今日は、その鳥居が朱に塗られ、屋根には銅板が張られた鳥居の姿を紹介します。鳥居の中央に稲荷祠と書かれた白い額が掲げられています。

 下の写真は以前紹介した白木の状態です。
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田植えの朝-三草山の日の出

2015年06月08日 04時23分38秒 | Weblog
            

 7日(日)、午前5時頃に家を出て歩き始めました。晴れているので日の出を見ようと社市街を東に向かって歩きました。社小学校から木梨方面へと歩いていくと、一気に視界が広がります。東に三草山、そして、その向こうに清水寺のある御嶽山が望めます。手前の谷は千鳥川が流れ、御嶽山へは旧京街道が走る谷がずうっと続いています。

 午前5時7分頃、三草山の山塊の北側の山の端にぱあっと光る朝日が昇り始めました。その光は御嶽山にもかかり、手前の京街道沿いのやしろ国際学習塾の三角屋根も照らしはじめました。田植えのために水が張られた田圃も朝日を反射して光っています。

 朝日の光は濃いと聞いたことがあります。濃い光は栄養満点とも聞きました。今朝の光はまさに濃さ抜群、生命力たっぷりの光でした。下段の写真は田植え前の水田に街路樹の銀杏が映っている光景です。
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昭和19年戦時下のくらし-酒粕の配当

2015年06月07日 04時44分26秒 | Weblog
 昭和19年(1944)、戦局は厳しさを増し、銃後の国民生活も食糧・物資不足が続いていました。当時の社町社区(現加東市社)の配給関係の文書綴には日用品や食品などの配給の通知などが綴じられています。
 今日はそのうち、酒粕配当に関する通知を紹介します。※1匁は3.75グラム



 昭和十九年三月七日

                社 町 役 場

各 区 長 殿

    酒粕配当ノ件通知

標記ノ件左記ノ通リ配当候条至急御引取相成度此段及通知候也

     記

 基礎    人口

 一人当リ  二十匁以内トス

 計     四二〆八〇〇匁

 期日 三月八日 一日中トス
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天を衝く銃の忠魂碑-滝野村の忠魂碑

2015年06月05日 03時57分10秒 | Weblog
           

 4日(木)、梅雨入りした模様という気象台の発表があったばかりですが、今日は一転透明な空気に覆われ、空の青さと山の緑が本当にきれいな好天となりました。

 午後遅く、加東市河高に用事があって集落の中を通る旧道を車で走りました。集落を抜け、加古川を跨ぐ中国自動車道の橋の下を過ぎると旧滝野村の役場跡のところにさしかかります。城跡を思わせる石垣が残っています。ここを過ぎてカーブを曲がったところで車を止めて階段を上りました。そこは旧滝野村の忠魂碑や奉公碑が立っている広場になっています。
 
 ここにある忠魂碑は他の地にある自然石の石碑とは違い、銃の形をしています。台座の上にまっすぐ天を衝くように銃が立っており、銃の中央には「忠魂」の2文字が刻まれています。以前にもこのブログで紹介したことがありますが、この忠魂碑は紀元2600年記念として昭和15年(1940)3月に建立されたものです。「忠魂」の文字は明治神宮宮司海軍大将有馬良橘の揮毫です。

日本が戦争に敗れたのち、占領期間中は、この忠魂碑を台座から降し地中に埋めておいたと聞きました。そして、講和独立後に再び元に戻したということでした。

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昭和20年-生松脂(なままつやに)生産の通知

2015年06月04日 04時54分44秒 | Weblog
 昭和20年(1945)の1月、社町長から各区長宛てに生松脂(なままつやに)の生産に関する通知が出されています。この通知は社区(現加東市社)の当時の役場からの書類を綴じた文書綴に綴じられていたものです。
 戦争末期のこの頃、松根油の生産が行われ、その資料をこのブログで紹介したことがありましたが、松脂からも油を精製したと聞いています。詳しいことをご存じの方教えて下さい。


 社通一第三三三号ノ一
   昭和二十年一月二十九日
                    社 町 長
各区長殿

  昭和二十年度生松脂生産ニ関スル件

標記ノ件森聯ヲシテ旧来採取実施致居候処本年モ同様実施可致候ニ付一応要調査可有之候条貴部内ニ生松脂生産希望者及適地有之候ハバ左記ニ依リ1月三十一日迠ニ御報告相煩度此段及照会候也

    記

 採取適地  採取可能本数  原木所有者(住所氏名) 備考

一、採取可能本数ハ原木胸高直径六寸以上ヲ標準トシ最少三百本以上集団セルモノタルコト

二、備考欄ニハ継続契約ノ有無及前年度採取契約セシ会社名ヲ必ズ記入ノコト

三、期日迠ニ報告ナキ向ハ希望ナキモノトシ取扱セラルベキニ付御了知相成度
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昭和19年-身許票と待避所設置の通知

2015年06月03日 04時12分14秒 | Weblog
 昭和19年の秋、社町と警防団長から各部落区長にあてて、身許票と待避所の設置に関る通知が出されています。
 戦中の映画やテレビドラマなどでも国民服姿に白い名札のように付けられているものが身許票でしょう。また、防空壕など空襲に備えた待避所の設置を急がせている通知から厳しくなる戦局の下での国民生活のようすがうかがえます。
 通知は次の通りです。


 昭和十九年十月四日
           社 町 長   合 田 常 蔵
           社町警防団長  藤 本 綱 吉
各部落区長 殿

   身許票及待避所設置ニ関スル件通牒

標記ノ件今般県ヨリ指令ニ依リ身許票ヲ各人附スル事ト相成候 尚待避所ノ設置モ全部落ニ亙リ作成スル様通知有之候ニ付内一般ニ周知徹底被下度此段通牒候也

◎細部様式

一、待避所ニ付テ
 1.三十名内外ノ人員ヲ収容シ得ルモノ
 2.各隣保ニ一箇所程度
 3.防空壕作成ナキ時ハ壕ニ相当スル待避所ヲ急速ニ設定スル事
 4.十月十一日防空教育訓練実施ニ当リ万全ヲ期セラレ度

二、身許票ニ付テ

 身許票 ※ヨコ2寸 タテ3寸
  血液型、官衙署、学校、工場
  本籍、現住所、氏名、生年月日
 1.白布ヲ以テ作成スル事
 2.縦三寸 横二寸ノ白布
 3.社町外ニ他出ノ場合ハ必ズ附スル事

 ◎附着箇所
  男子 国民服ノ場合 左前ノ裏
  女子 モンペ服 〃 右前ノ裏
  和服ノ場合ハ男女共 上前ノ裏










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昭和20年-高角砲発射警戒の通知

2015年06月02日 05時32分43秒 | Weblog
 昭和20年(1945)1月、社町役場、警防団から各区長と警防団幹部に向けて、警報下の高角砲発射に関する通知が出されています。
 高角砲とは調べてみると高射砲のことで、陸軍では高射砲、海軍は高角砲と呼んだそうです。飛来する敵機に向けて撃つもので、姫路海軍航空隊がこの高角砲を発射するため、その危険を知らせる通知が出されたものです。




 昭和二十年一月二十六日
                         社 町 役 場
                         社町警防団
各 区 長 殿
警防団幹部 殿

 ◎警報下高角砲発射ニ関スル件

標記ノ件爾今敵機来襲ノ場合姫路海軍航空隊ヨリ高角砲発射セラルルニ付社町一般ハ危険区域内ニ有ルニ付警報発令ト同時ニ待避セラレル様特ニ通牒ス
尚通学者一般ノ歩行ハ十分注意セラレ度
◎区長及幹部ヨリ部内一般ヘ漏レナク御指達相成様申添フ
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昭和18年-忠魂碑前で秋季招魂祭

2015年06月01日 04時39分12秒 | Weblog
 今年は終戦70年の節目の年にあたります。この歴史ブログでは、戦前戦中の郷土のようすを当時の文書などを通じて紹介してきましたが、今日は昭和18年(1943)9月24日に行われた秋季招魂祭の案内状を紹介します。

 現在も明治館(元加東郡公会堂)前広場に社町(旧)の忠魂碑があります。朝のウォーキングで参拝していますが、この同じ場所で戦前は招魂祭が行われていました。掲載の写真は現在の忠魂碑です。朝日を浴びて碑が輝いています。ただし、両脇の碑(英霊尊名碑)は戦後の昭和28年(1953)に建立されたものです。


拝啓 秋冷の候 御尊堂愈々御清適奉賀上候
陳者 来る九月二十四日午前七時より本町忠魂碑前(郡公会堂前庭)に於て本町出身戦公歿軍人の第三十五回秋季招魂祭挙行可致候条御繁忙の御事とは存じ候へ共御参列の栄を賜り度御案内申上候 敬具

 昭和十八年九月二十一日
    帝国在郷軍人会社町分会長  菅井良吉
    社 町 軍 友 会 長   神崎福麿

       殿
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